兆し
藍を部屋に送り届けたユンロンは隣の自分の部屋に入るや否や怒りを押さえるのを止める。すると溢れ出た怒りの神力が冷気となって辺りを凍らせて行った。室内は既に極寒でユンロンの周りの空気がピシッー、ピシッと空気中の水分が氷の結晶を作り上げ、キラキラと光り幻想的に降り積もる。
「今宵は徹底的に陛下を追及させて貰いましょうか……」
青龍国一の美貌を誇る丞相ユンロン。その美しさは四神国でも名高かった。だが美しいばかりでは無く神力も高くルェイロンが居なかったら次期龍王はユンロンだった。その上に幼少から神童とうたわれ、政治的手腕に長けており現龍王ルェイロンを完璧に補佐していた。
前龍王によって崩壊寸前の青龍国を現況まで復興出来たのは、この二人の英名が同時代に生まれた奇跡に依るところが大きい。どちらか一人が欠けていても、未だ復興が成されずに多くの人間が貧困に喘いで国は荒廃したままだったとされている。
ユンロンは龍王が玉座に就く直前の付き合いだが、未だに龍王の理解しがたいひととなりに苦労していた。しかも今回の件は特に理解しがたい。
待ちに待った契約の指環をした花嫁が異界から勝手に流れ着くなど有り得ない事。
しかもその相手は全く事情を分かっていなかった。
「あんなお方の花嫁になるなど、アオイ様が一番不幸かもしれない」
異界から来た可憐な少年を思い出すと怒りの波動が治まるが、代わりに心が痛んだ。
「兎に角、今は陛下にお会いし詳しい事情をお伺いするのが先決です」
ユンロンは藍の部屋と自分の部屋に誰も侵入できない様に結界に術を施した。次に寝台に横たわると目を閉じると動かなくなるのだった。
――青龍国王都
深夜、龍王の自室では、龍王ルェイロンが一人で杯を傾けていた。その怜悧な相貌は無表情で自ら次々と注ぐ酒によっても変わる事は無い――幾等飲んでも酔えず卓上に空になった酒瓶が並ぶだけである。
豪奢な椅子に気だるげに座り無言で酒を飲む姿は、とても楽しげには見えず、どこか空虚な時間をやり過ごしている印象だった。
普通の王であれば、美しい女を侍らせて酒の酌でもさせ楽しむのだが、ルェイロンは違っていた。どんなに美しい女であろうと男でも心を一度も動かした事は無く、王の為の後宮の扉は重く閉じられたまま。人々から清廉潔白な賢王として名を馳せてはいたが、一向に伴侶である王妃を迎え入れようとはせず、誰にもその奥底を開こうとはしない孤独な王だった。
龍王の生活の大半は国の政務を執り行う事に費やしていたが、それさえ暇つぶし程度としか考えていない。そして夜には酒を飲んで眠る毎日で、実情を知る重臣達は心を痛めて心配しているのだったが、そんな心も解せない何処か偏った人間性にユンロンも臣下達も諦め慣れて行く始末だった。
最後の酒を杯に注ぎ終えた龍王は、新しい酒を持って来させようと家令を呼ぼうとした。だが突然誰もいなはずの部屋の片隅から声を掛ける者がいた。
「味も分からず酔う事も出来ない陛下に、このような高級酒は勿体なさすぎます。一本、幾等すると思ってらっしゃるのですか。陛下には安いので十分ですよ」
ルェイロンは突然静寂を破る声にも眉一つ動かさず、最後の酒を口にするが、僅かに忌々しそうに眉間が寄っていた。目の前には、契約の指環を持つ者を迎えに行かせたユンロンが冷気を纏って立っており、ルェイロンを冷ややかに見ていた。
一向に表情を変えず見返すだけの龍王に、ユンロンは怒りしか湧かないが、このままお互い沈黙しか続かないのを知っているので、いきなり本題から切り込むことにする。
「一体どうすれば異界から花嫁がやって来るのです! ご説明願いませんか陛下」
「……本物であったか」
ルェイロンは低い声で一言発すると直ぐに黙り込む。
「私は説明をお願いしたのですが?」
「煩い奴だ……指環は異界の海に捨てた。それだけだ」
事もなげに言い捨てるルェイロンにユンロンは血管の血が沸き立ち、大声で言い返す。
「天帝様より授かった契約の指環を捨てたですって! 常日頃から何を考えているか分からないお方だと思いましたが、此処まで愚かだとは思いもよりませんでした。 天帝様の不興を買ったら如何するおつもりですか! だから…! 」
ルェイロンは煩く喚くユンロン目掛けて、飲みかけの杯を投げつけられた為に言葉を遮られてしまう。しかもガラスの杯はユンロンを突き抜け、ガシャンッと壁に当り割れ、白い壁に琥珀のシミを作っただけだった。
「勿体ない、物に当らないで下さい!」
「その者を殺せ」
龍王はユンロンに無情に命じた。
「全く……口を開けば碌な事をおっしゃらない。一層の事、その口を縫い付けたら如何です。こんな方の花嫁になるとはアオイ様がお気の毒でなりません」
「面倒だ殺せ」
「それは不可能かと存じます陛下」
「お前は人間の一人も殺せぬ程の無能か」
お互い無表情で睨み合う。双方凄まじい美形が絶対零度の瞳がぶつかり合う様子は、第三者がいれば瞬時に凍りつきそうだった。
暫し双方が睨み合うが、虚しくなったユンロンはため息をつき、重い口を開く。
「恐れながら契約の指環は既に目覚め、アオイ様を契約者として認めております。如何に私が高い神力を有していても、指環の力を打ち破り花嫁にかすり傷一つ負わせるのは不可能と存じます」
ユンロンの言葉に始めて表情を変えるルェイロン。
「出鱈目を言うでない! そんな事があろうはずが無かろう。余は捨てたのだ。拾った者がそれを嵌めたとて只の指環だ」
龍王は立ち上がると珍しく感情をむき出しにし声を荒げる。それを見たユンロンは目を瞬かせ驚く。何しろ会話らしい会話を龍王と交わすなど稀で、何時もユンロンの一方通行が常だった。
「私は確りこの目で、契約の形に変化した指環を確認しました」
「天帝の契約の詞も無く結ばれるはずが……」
信じられない表情が、僅かに顰められた眉によって伺える。どうやら龍王と伴侶は、龍王の意志とは関係無く契約が成されてしまったのは本当だったと知り、これは拙いとユンロンは思い始める。
なにしろ龍王とは長い付き合いで、このまま素直に花嫁を受け入れる筈が無いと確信していた。
「取り敢えず三日後には花嫁をお連れ致しますので、その時陛下の眼で指環をご確認くださいませ」
「……」
ルェイロンは返事もせず冷たい眼差しをユンロンに注いでいたが、直ぐに興味を失くしたように目を閉じ椅子に座り直してしまった。これ以上の反応を期待できそうも無く、ユンロンは必要な報告は済ましたので、このまま宿に戻ろうとしたが、一言言わなければならない言葉を思い出してルェイロンの前に恭しく頭を下げる。
「陛下、おめでとうございます。この度は花嫁をお迎えになられ、お祝い申し上げます。臣下として大変喜ばしく!」
ルェイロンはユンロンの言葉が終らぬ内に凄まじい神力を凝縮した光の刃を放つ。
次の瞬間、爆音と共に白い粉塵が巻き起こり、部屋の壁がガラガラと崩れる音が続いた。しかも幾つもの部屋の壁を貫き王宮を貫通していた。普通ならユンロンは無残な死体になっていただろうが、そこには壁に大きな穴が幾つも開いただけだった。
「忌々しい……何が契約の指環だ。余にとって呪いでしかない」
ルェイロンにとって指環を所有する人間など全く興味も無く、それより指環をどう処分したものかと思案にくれるのだった。
――宿屋
アオイの寝ている隣の部屋では、ユンロンが寝台に静かに横たわっていたが、突如飛び跳ねるように起き上がる。その顔は些か青ざめ冷や汗も出ていた。
「死ぬかと思いましたよ……あの方を揶揄するのも命がけですね」
先程まで龍王と話していたのは幽体を王都に飛ばして会話していたのだ。あれだけの神力をぶつけられては、幽体でも堪らない。幽体が傷つけられると本体もかなりの障害が起きる。最悪そのまま死に至ってもおかしくなった。
「それより、このままではアオイ様がどういう扱いを受けるやら……経緯はどうであれ、待ち望んだ花嫁が現れたのですから、何とかしなくてわ。それと王宮の修繕費は陛下の私財から出させないといけませんね。まだまだ財政は余裕が無いのに、頭の痛い事ばかりですよ」
ユンロンは青龍国の復興に尽力して心身共に疲弊して来たが、近年では、その努力が報われて国土は富はじめ、人間の生活も余裕が出て来たばかり。そして最近の一番の心労は、龍王が一向に王妃たる伴侶を迎え無い事。周囲は次期龍王を望んでおり、せめて後宮に側室でも迎えれば安心なのだが、それさえ拒んでいるのが現状。
ここ数十年、ユンロンを筆頭に重臣たちが再三婚姻を勧めて、酷く疎まれているのは知っていたが、まさか契約の指環を遠い異界の地に捨てるなど、流石のユンロンも考えが及ばなかった。
「あの方の暗い性格は、どうにかならないんでしょうか。先ずは、アオイ様に頑張って貰いたいが、あの陛下に対抗するには余りにも心もとない」
容姿的に可憐で愛らしいが、目を見張るものでも無い。だがこの世界では稀な艶やかな黒髪に深淵の様な黒い瞳は引き込まれる魅力があった。ユンロンでさえ、あの漆黒の瞳に見つめられた時は思わず見惚れてしまい、その体を抱きよせたくなった程だった。
(性格もおっとりとして可愛らしく好感が持てる。何より私に決して媚びないところかいい)
ユンロンは藍を思い出し自然と微笑みを浮かべた。大概の者はユンロンの地位と美貌にすり寄って恩恵を望む者が大半だが藍にはそれが無かった。それどころか抱きあげれば恥ずかしげに身を縮め、緊張で身を固くするのが何とも保護欲を誘った。
龍王が最も嫌う派手で高慢な美女とは真逆な存在の藍。龍王が一目あの漆黒の瞳を見れば心を傾けるかも知れないと思った途端、ユンロンの胸が少しキシッと痛んだ。
「なんだ……?」
ユンロンは胸を押えてみるが既に痛みは消えていた。
どうやら些か陛下の相手で疲れたのだろうと床に入る。明日は早く起き藍の為に相応しい衣装を用意し、食事も栄養面を考えて作らせようと思いを馳せるとユンロンの心が湧き立ち、心地良い眠りに就いた。
そして龍王とは違い、直ぐに安眠を貪るユンロンだった。
翌朝、寝台の藍は、すやすやとあどけない寝顔で心地よい布団に未だに包まれていた。その傍ではユンロンが付き添い、目を覚ますのをじっと待っている。ユンロンは藍の寝顔を飽きずに眺めており、その表情はどこか甘く昨夜の龍王に対す態度に比べ温度差が天と地ほどの隔たりがあった。
そんな視線を感じたのか、それとも十分睡眠がとれたせいか、黒く長いまつ毛が微かに揺れる。そしてゆっくりと開く瞼が開き黒い瞳が現れると、そこに微笑むユンロンが映りこむ。
「お早うございます、アオイ様」
すかさずユンロンが朝の挨拶をするが、目覚めたばかりの藍にとっては心臓に悪かった。
「ヒィッ! おっ、お早うございます……」
起き掛けに美しすぎるユンロンの顔は心臓に悪く、藍は胸の動悸が治まらなかった。
「昨夜はゆくっりと眠れましたか?」
藍は胸を押さえながらコクリと頷きながら体を起こす。
ユンロンも立ち上がり側のわき机に用意された茶道具でお茶を手際よく淹れ始めた。
「どうぞお飲み下さい」
「ありがとうございます……」
差し出されたお茶はジャスミン茶のようにさわやかな香りがし、寝起きに最適で清涼感もあり美味しい。しかもベットの上でのお茶は、まるで優雅な貴族になった気分になる。すると藍は側にいるユンロンに対し執事服の姿を連想してしまった。
(カッコいいかも……)
一人妄想してしまい藍は頬を染める。
「顔が赤いですが、どうかされましたか?」
「なっ、何でもありません。お茶、美味しかったです」
変な妄想を慌てて打消した藍は、飲み終わったカップをユンロンに返すと、それをユンロンは優雅に受け取り片付ける。その姿は執事そのものだが、本来ユンロンは青龍国の丞相――龍王に次ぐ権力を持ち、大勢に傅かれる立場の龍族。しかもこれまでに人の世話を甲斐甲斐しくする姿など誰も見た事が無く、ユンロンを知る者が見れば、驚愕して我目を疑うだろう。
ユンロンの藍に対する態度は、未来の王妃に対するモノなのかそ、れとも別なものから来るのか本人すら分からないのだった。
次にユンロンは「朝食の前に湯あみをされますか? それとも朝食になさいますか?」と藍に訊ねた。
「お風呂ですか! 入ります」
海に落ちてからカイリンに体は拭いて貰っただけの藍は嬉しそうにその提案に飛び付く。
そして自分が一週間近くもお風呂に入っていない事に気が付いた藍は血の気が引く。
今思えば、汚れた体で寝てしまい、綺麗な布団や枕を汚してしまい申し訳ない気分に陥る。更に追い打ちを掛ける事に気が付いてしまった。
(どっ、どうしよう……)
昨夜はユンロンの体とかなり密着状態で、仙鳥の上でも、お姫様抱っこの時にも藍の頭上にはユンロンの顔があり、結構匂いを放っていたのを藍は容易に推察出来た。
臭くって、この美しい人に不快な思いをさせてしまったかと藍は羞恥心と申し訳なさで一杯になり、そのまま動けなくなってしまった。
「ではこちらに。 ――どうかなさいましたか?」
湯あみが出来ると喜び勇んでいた藍が、突然俯いたままで全く寝台から下りようとしない藍をユンロンは訝しむ。
「すいませんでした……」
「なにがでしょう」
「あの…僕匂ったでしょう。長い間お風呂入って無かったし…… ゴメンなさい」
藍がそう言い終わった途端に、ボタボタと涙が落ちて布団を濡らしてしまった。藍は昨夜から小さな子供みたいに泣いてばかりいて、ユンロンに呆られ嫌われたのでわと怖くなり、泣き止みたいのに涙が止まらなかった。
ユンロンはそんな藍の直ぐ傍に腰掛ける。だがそれを察した藍が距離を取ろうとしたがユンロンの手が藍の体を優しく抱き寄せる。
「!! 離れて下さい……。 僕は臭いから」
藍は泣き声でそう訴えながら必死に逃れようとする。
「アオイ様は匂いませんよ」
ユンロンは躊躇いも無く藍の頭に顔を付けて鼻を押し付ける。藍はその行為にパニックを起こす。
「だっ、駄目!」
両手をバタつかせる藍だったがユンロンは軽々と押さえてそのまま藍を抱き上げてしまった。
「離して」
「フッフフ…本当に匂いませんからお気にせずとも良いのです。そんなに気になされるなら早く湯に入りましょ」
ユンロンは昨夜同様に軽々と横抱きにして歩き出す。
「酷い…嫌なのに…」
藍は自分が情けなくなり、両手で顔を覆うとぐずぐず泣いてしまう。
「申し訳ありませんアオイ様。嫌な事はもう致しませんからお許し下さい」
ユンロンは狼狽えてしまい必死に許しを乞う。藍はその切ない声に驚いてしまい、顔を上げると心配そうに見詰める綺麗なアイスブルの瞳と視線が絡まる。ブワッと顔が瞬間沸騰したように熱くなり涙も止まる。
(なんて甘い目で僕を見るんだろう。何だが勘違いしてしまいそうだ)
ユンロンにそんな目で見られれば、藍でなくとも老若男女問わず恋に落ちてしまうだろう。
(そんな訳、絶対ない)
藍は勘違いしてはいけないと必死に言い聞かせた。そもそもこの態勢がいけないのだとユンロンに降ろしてくれるように頼む。
「あの…兎に角下ろして下さい。 一人で歩けますから…お願いします」
「そうですね…」
ユンロンは残念そうながら、藍の願い通りに引き返し寝台の上に藍を下ろした。
「それでは靴をお履きください」
跪いて藍のシューズを興味深そうに眺めてから、おもむろに藍の足を膝に乗せて履かせようとする。
「えっ!?」
まるで主人に仕える使用人のように履かせてくれるのを茫然としている内に終わってしまう。
(これは一体どういう扱い? もしかしたら相当僕の事を子供だと思っている?)
このまま子ども扱いは色々と心臓に悪いので、自分の年齢をはっきりさせておこうと思うのだったが、藍は言うタイミングを計れないまま浴室の脱衣場に案内されてしまった。
「それでは私は着替えを持って参りますので、ごゆっくりお入り下さい」
「有難うございます」
藍はユンロンが出て行くのにホッとした。もしかすると服を脱ぐのまで手伝うと言われたらどうしようかと思いたが、流石にそれは無かったので安心する。
そして、するすると服を脱いで備え付けのカゴに畳んで入れてから浴室の引き戸を開けると、お湯の張られた乳白色の陶器で造られた丸い浴槽が置かれている。床には切りだされた黒い石板が敷き詰められており綺麗だ。
湯船のお湯は適温で備え付けの木の桶で体に湯を掛けて綺麗にしてから湯に浸かる。
「気持ちいい……」
久しぶりの温かいお湯に浸かり自然と口に出る。十分広い湯船にリラックスして手足を伸ばす。日本では当り前のように毎日入っていたが、結構贅沢な事だったのかも知れない。
湯気が立つ中で藍はボーっと湯に浸かっていると、何の前触れも無く戸が開いた。
「アオイ様、お湯加減は如何ですか?」
当然のようにユンロンが着衣のまま浴室に入って来て藍はぎょっとする。
「あっ! はい。 丁度いいです」
慌てて体を体育座りにして貧相な体を隠す。男同士で女の子じゃないんだから隠す必要いのだが、藍は何故か恥ずかしくて俯く。そしてユンロンはそのまま藍の傍まで来ると「体を洗うお手伝いを致しましょう」ととんでもない申し出をする。
「じっ、自分で洗えますから」
藍は冗談じゃないと断る。
「アオイ様はこれから多くの侍女に仕えられ、着替えも体を洗うのもそのもの達に任せなばなりません。今のうちに慣れておいた方がよりしいですよ」
「女の人に洗われるなんて…無…無理。それになんで僕に沢山に侍女が付くんですか」
「アオイ様は陛下の花嫁。そしてこの青龍国の王妃として後宮で、多くの女官や侍女に仕えられて暮らすのです」
藍は王妃と聞いて驚く。確かに龍王の花嫁なら王妃になるのは当然の話しだった。
「嫌です! 僕は王妃になんてなりたく無い。 そもそも顔も知らない男の人と結婚なんて受け入れられません。それに僕は男だ」
藍は幾らなんでも男同士なんて無理だと断固として拒否する。
「契約の指環がある限り王妃になる運命は変えられません」
「それならこの指環を外して。 そうすれば王妃にならなくて済むんでしょ」
藍は指環の嵌った左手を差し出すが、ユンロンは困ったように顔を曇らせる。
「……申し訳ありませんが、私にはこの指環を外す力は御座いません。 外せるのは唯一この世界を治める天帝様しかおられ無いのです。異世界のアオイ様には理解できないでしょうが、天帝様はこの世界を統る最高神。定めた理に逆らう者は容赦なく滅ぼします。その契約の指環は天帝様が王に与えた神器の一つ。その神器に選ばれたアオイ様は天帝の意志によって選ばれた伴侶なのです。受け入れ難いとは思いますが、私が誠心誠意お仕えいたしますから……」
ユンロンの話を聞いていた藍は、逃れられない運命だと言われ絶望感が襲い、何時しか頬に涙が流れてていた。ユンロンは藍の涙に一瞬息を飲むが、優しく指で藍の涙を拭う。
「どうか泣かないで下さい」
「……」
「髪を洗っても宜しいですか」
「……」
ユンロンが優しく語り掛けるが藍は今の話で一杯一杯で返事も出来ずにいた。
「それでは、失礼します」
藍の返事が期待できないと思ったのか、ユンロンは藍の頭を洗い出す。先ず湯船に浸かる藍の頭に手桶で優しく湯をかけ、泡立てた石鹸で丁寧に髪をマッサージする様に丁寧に洗いだす。泣いていた藍は思いの外、心地よさに少しだけ心が癒える。
「アオイ様、徐々にで良いですから今の立場を受け入れて下さい」
「……」
(僕の立場って何? 王妃になる事? こうやって人にかしずかれる生活? そんなの望んでいない)
藍はいくら考えても王妃になるなど受け入れられなかった。突然この異世界に流れ着き、カイリンの家族に受け入れられた矢先、王の花嫁だと、男の身でこの国の王妃になれと言われて素直に了承する方が無理な話だった。
藍は目の前のこの人が悪くないのは分かっているが少し恨んでしまいそうになる。
「アオイ様がお嫌ならば、最低限の人数でお世話申し上げます。望む事は全て私にお申し付け下さい。決して貴方様を不幸な目に遭わせません」
ユンロンのその言葉を聞いた藍は心が動く。
(この人も僕を王妃にしたい訳じゃない。僕がこの指環をしているから王妃に選ばれただけ……)
藍は、そう思うとユンロンを困らせているだけで、自分が酷く我儘に感じてしまった。
「僕は逃げられないんですね……だけどやっぱり嫌だ。 少し時間を下さい」
藍は俯いたまま陰鬱な声で言う。ユンロンは無言のまま藍の言葉を受け止め、別の瓶にある綺麗なお湯を何度も頭に掛け泡を流した。そして懐から布を出すと髪を丁寧に拭いた。
「今日の此処までに致しましょう。お体は自分でお願いします」
優しく声を掛けられ藍は黙って頷くと、ユンロンは静かに立ち上がり浴室出て行った。
湯船に浸かりながら途方に暮れてしまう。藍はこの右も左も分からない世界で、ココから逃げ出しても一人で生きる自信は無い。逃げれたとしても、この金の指輪がある限り、人目を忍んだ生活を余儀なくされるだろう。この運命を受け入れるしかないのかもしれないが、藍はもう一度指環を外すのを試してみる。
側にある石鹸を手にとり泡立て、指環の嵌った指に沢山塗りつけ廻してみると、クルクル回るので思いっきり引っ張る。
「うーん、うーん。……どうして抜けないんだ?」
指環は抜こうとすると、意思があるかのように指に食い込んで動かなくなる。
「何故僕なんかが…」
藍は、指に嵌る指環を恨みがましく見つめるしかなかった。
王妃になるなら綺麗な女性の方が相応しい。男で綺麗でも無い自分が王妃なんて、きっと王様だって嫌な筈。
「そう言えば王様はどんな人なんだろ? 僕と結婚なんて嫌じゃないのかな」
実際に龍王と自分は一度も会っていない。しかも同じ男と結婚など望んでいない可能性があり、藍が拒否される可能性が高い事に気が付く。
(そうだ! 僕を王妃にする訳が無い。側になんて置かない筈だ)
そう思うと少し気分が浮上して来て、折角のお風呂を楽しむ事にした。洗い場に出て石鹸と布で体を洗い、最後に綺麗なお湯で洗い流すとさっぱりとした気分になって来る。そして再び湯船に浸かった藍は存分に湯に浸かるのだった。
湯船に呑気に浸かる藍――確かに龍王も藍の存在を認めていないのだが、事はそう簡単ではない。 藍は未だに契約の指環の本当の意味を知らなかった。
長い風呂を終えた藍は脱衣場に用意されていた大きな布で体を拭いてから、置かれてあった綺麗に畳まれた服を見る。一番上にステテコに近い下着らしい物を発見し、取り敢えずそれを穿いた。
「パンツがあって良かった」
矢張り直接ズボンを穿くのは慣れない所為か違和感があった。
次に薄い一重の白い赤ちゃん用の下着のようなモノを着て三個所にある紐を結ぶ。だが用意された服はまだあり、中国の民族衣装のようで着方が分からず藍は戸惑っていると、ユンロンが見計らったようにやって来る。藍は気まずかったがユンロンに着せて貰う。手際良く次々と服を重ね着せられ、最後に腰に綺麗な金の細工が施された紐帯で留められる。
「やはり、アオイ様には白がお似合いですね」
満足そうに頷きながらユンロンは、うっとりと白い衣装に包まれた藍は見やる。
衣装はチャイナ襟に裾が膝まであり広がっていてワンピースのよう。光沢のある白い生地には銀糸で花の刺繍が施され、袖口は大きく折り返したカフスになっていた。ズボンはストレートのラインのシンプルなものだった。明らかに高級な服で、藍は着慣れないデザインのせいか違和感があって、ユンロンの言った通りに似合っているのか疑問だった。
(なんだか学校の劇の発表会の衣装みたいだ)
藍にとってカイリンがくれた服の方が気楽だった。
「もしかしてお気に召しませんか? それなら別の物をご用意致しますが」
藍の怪訝な様子を見てか、ユンロンは眉をひそめ申し訳なさそうにする。
「いいえ違います。あまりに高級そうな服なので僕には分不相応な気がして」
「そんな事ありません。とても可愛いですよ」
この歳で可愛いと言われても嬉しくない藍は拗ねる。
「可愛くなんてありません」
そんな藍の様子を見たユンロンはクスクスと微笑ましそうに笑う。藍はやっぱり幼く見られている気がして「これでも僕は十七歳ですから子供扱いしないで下さい」とそれとなく言ってみる。
「そんな心算は御座いません。私の態度が御不快でしたら改めますのでなんなりとおっしゃって下さい」
「分かってくれてるならいいです」
実年齢を言っても驚かれ無かったので子供扱いと言う訳ではないらしい。
ユンロンが自分に対する優しい態度や甲斐甲斐しく世話をしてくれるのは何故かと考える。答えは直ぐに、この金の指環をしているからだと答えが出てしまう。
(僕なんか、この指環がなければ視界にすら入れて貰えない、ちっぽけな存在なのだ)
そう思うと切なくて胸が苦しくなる藍。無自覚だがユンロンに対し淡い気持ちを持ち始めていた。
「それより別室に簡単な朝食を用意しましたので召しあがってください」
「はい」
(そう言えば、この人の名前はなんだろう)
藍は食堂に案内されながら未だに訊けない名前が無性に知りたくなった。
だが誰かが名前を呼ぶのを待つしかないと諦める。
(でもこの宿に僕たち以外がいるのかな?)
何故か廊下に部屋の扉が幾つも並んでいたが、何処からも他人の気配は感じなかった。食堂に行けば誰か他の人がいるだろうと期待する藍だった。