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青龍国物語  作者: 瑞佳
第一部 「龍王の伴侶」
4/38

漁村


 藍は深い眠りの中で誰かが呼びかけられ意識が浮上する。


 『……』

 (誰だろう?)

 『……て』


 無視したいが徐々に大きくなる声に藍の意識は否応なしに明瞭となる。


 (僕は何処に居るんだろう……家? キャンプ場? それとも夢の中? もしかしたら天国? )


 まだ薄ぼんやりとした意識の中で、大沢や両親の事を思い出してしまう。矢張り目覚めたくないと思ってしまった藍は耳を塞ぎたくなるが腕が動かない。


 『目を…けな…い……』

 (起こさないで……僕はこのままズッと寝ていたい)


 目覚めさせようとする女性の声に必死に抵抗する藍だったが、無情にも脳が目覚めを促してしまう。次第に意識がはっきりとしてきて、もう眠れないと諦めるしかない。せめて目覚めた先が家のベッドで無い事を祈った。


 (あの現実と悪夢のどちらが辛いんだろう? あの悪夢の世界以外ならどこでもいい)


 覚悟を決めて瞼を開ける藍の視界に、ぼやけていたが緑の瞳の年配の女性が心配そうに覗き込んでいた。その女性を見た藍は、此処が悪夢の世界ではなく海に落ちて流れ着いた世界だと知り、変な話し不思議と安堵してしまう。


 「良かった。やっと目を覚ましたんだね」


 ふっくらとした体の茶色い髪を結い上げた緑の目の三十代の女性は、嬉しそうに微笑んで、優しく藍の頬を乾いた布で拭う。


 「まる二日も眠りぱなしで、このまんま死んじまうのかと気が気じゃ無かった。 それに様子を見に来れば泣きながら寝てるから、わたしゃビックリしたよ」


 早口でまくしたてるように話し始めるので驚くが、その内容にも目を丸くしてしまう。


 「まる二日!?」


 疑う訳ではないが人間が二日間も寝続けるなど不可能だと思い、つい大声で訊き返してしまうのは仕方ないだろう。


 「龍族様の血を引いてるなら大丈夫だと長老が言ったけど、その通り元気そうだ」

 「龍族?」

 「お前さんのことだよ」

 「はぁ……」


 さも当然のように言われた藍は、龍族が何なのか分からなかったが、日本人特有の曖昧な笑みを浮かべ聞き流す。今はあまり多くの情報を頭に入れる余裕が無い。それより今の自分の置かれた立場を知りたいと思ってしまっていた。


 辺りを見渡すと部屋は狭く土壁は薄汚れており、家具と言えば藍が寝ている木製の粗末なベットしか無い。敷布団に綿も入っていない硬い布が敷いてあるだけで、掛布団も布団と言うより荒く織られたブランケット一枚。

 女性の服装も着古された若草色のくすんだ無地の簡易な着物で膝丈しかなく、日本の帯では無く、細い紐を腰で結んだだけで、裕福な生活には見えない。現代日本では絶対にありえないと藍は確信したが、地球では無いとまでは言いきれなかった。


 だが日本語を話している違和感――人種が明らかに違うのに何故日本語を話せるのか不思議だった。


 「寝過ぎて、ボーっとしてるのかい? それよりこれを飲みな。さっき井戸から汲んだばかりで冷たいよ」


 考え込んでいた藍の目の前に突きだされた木製のお椀には水が入っていた。思わずゴクリっと喉が鳴る。水を見た途端に酷く喉が渇いているのを思い出した藍は無言で受け取ると、慌てて口に持って行き一気にゴクゴクと飲み干してしまった。


 「おやおや、すごい飲みっぷりだねー」


 女性は持っていた水差しから、おかわりの水を注いでくれると、今度はゆっくりと味わって水を飲む。すると藍は水の甘さに気が付く。水道水のカルキ臭さが無く柔らかい味。生れて初めて水が美味しいと感じた。


 「お腹も空いただろ。今お腹に優しい物を持ってくるから待ってな」


 水を夢中で飲む藍を見た女性は、余程空腹なのだろうと思ったらしく、慌ただしく部屋を出ていってしまい、ポツンと一人取り残されてしまう。


 藍は持っていた木のお椀を両手で包み込むように持つ。お椀は味噌汁を飲むお椀と大きさは同じだが、木をくり抜いたざっくりとした物で、何も塗っていない素朴な品。日本でなら捨てられしまうようなお椀だが、手に馴染んだ優しい風合いでちゃんと触れられる。


 (やっぱりアッチが夢だったんだ……)


 リビングの夢の時は両親に触ることも認識すらされていなかったが、こちらは会話も触ることも出来る。それなら今が現実で藍が存在する世界だと分かるが、此処の人たちは藍が知らない人種だ。白人系の顔立ちに少し浅黒い肌に茶色の髪に緑の目、なのに使用言語が日本語はおかしな話しだった。


 でも今はっきりと言えるのは、直ぐ家には帰る事が出来ない事だった。


 「これからどうしよう……」


 突如現実感が湧き上がると、自分が見知らぬ土地で無一文な事に気付いてしまい、これからの事を考えて暗たんとしていまう。 お椀を見詰めて思い詰めているとバンッと大きな音と共に扉が開けられ、大きなお椀を手に持ったおばさんが入って来る。


 「!!」


 吃驚して顔を上げた藍の目の前に、水と時と同様に大きなお椀を突き出して来た。


 「ほら!ミルク粥を持ってきたから、温かい内にお食べ」


 お椀の中には白いどろどろとしたモノが湯気を立てており、木のスプーンが添えられていた。


 「あ、有難うございます。」


 水を飲んだせいかお腹は空いていなかったが、迫力に押されおずおずと藍はお椀を受け取る。

 

 「良いてことさ、困った時はお互い様だよ。 わたしのことはカイリンと呼んどくれ」


 「はい。僕は――」自分の名前を名乗ろうとしたが「あっ! そうだった! あんたが目を覚ましたら村長を呼んで来なくっちゃ!」しまったとばかりに、カイリンは藍の名も訊かずに再び部屋を飛び出して行ってしまった。


 「にぎやかな人だな」


 呆気に取られた藍だったが、折角の好意なのでスプーンを手に取り、お椀をかき回すと何かの穀物をミルクで軟らかく煮たおかゆだった。恐る恐るお椀に入っている木のスプーンで一口すすってみると甘く優しい味が口に広がる。


 「初めて食べるけど、美味しい……」


 見た目は今一だが自然な味わい。食べている内に食欲が出て来た藍は、少しずつ胃に流し込み、普段より量が多かったが、なんとか食べきった。


 「温かいお母さんの味だ」


 藍は母の味を知らない。料理を一切しない母親で、我子が風邪で寝込んでいても看病も家政婦に任せっきりな状態で、リンゴの皮一つ剥いて貰った事が無かった。

 それが見ず知らずの自分を心配して温かなミルク粥を作ってくれたのに残すなど出来なかった。


 そして母親と比較してしまい、つい悲しくなる。


 先の悪夢は、まるで現実を見せられた様にしか思えてならない藍――何時の間にか目に涙があふれ頬に伝い流れ落ちた。


 (母は笑っていた…僕が居なくなったのを喜んでいた。何故僕を産んだんだろう? いらないなら、最初っから産まなければ良かったのに……)


 息子が行方不明になって喜ぶ母親が存在するはずが無い。藍はアレは夢だと思い込もうとするが何故か涙が止まらなかった。 


 「なぜ……お母さん……うっうう……」


 両手で顔を覆い涙を止めようとするが、涙は次から次へと目から溢れ汚れた体操服の袖で拭っていると、またしてもバンッと乱暴に扉が開き、驚いた藍は思わず肩が飛び跳ねてしまった。


 「ヒクッ!!」

 「あんた! また泣いてるのかい!!」


 大声でカイリンがいきなり入って来ると、今度はガバッと藍の細い体を力いっぱい抱きしめてしまった。すると藍の頭がふくよかな胸に埋まる形になり、その柔らかな感触にドギマギしてしまい慌てるが「余程辛い目にあったんだね……」そう言いながら優しく背中をさすられて、なんとも言えない気持ちになってしまう。


 (温かい……)


 本当の母親にさえ抱きしめて貰った覚えが無いので、母親に抱き締められているようで切なくなる。カイリンから伝わって来る温かさに涙も止まったが、徐々に顔が腕と胸に押しつぶされて息苦しそうで顔色が赤から蒼白になって来る。


 「おいおい、坊主が苦しがっているぞ。カイリン」


 突然カイリンの背後から、やはり茶色の髪で緑の眼の大柄の四十歳くらいの男が現れ野太い声をかけて来た。浜辺で見た男たちと同じような粗末な服装だが立派なあごひげを生やしていて貫録がある男――カイリンが呼びに行った村長むらおさだった。


 「あらあら、ゴメンよー」カイリンは謝りながら腕を離す。藍は解放されて大きく息をして「大丈夫です」と真っ赤になりながら俯いてしまった。


 「まったくー、気絶しちまったら話が聞けないだろが……。 坊主、俺はこの村の長のパンチェという者だが、体が大丈夫ならお前の事を色々聞きたいんだが良いか?」


 物珍しいモノでも観察するように藍を繁々と見下ろしてくるバンの目には嫌なモノを感じず、この人からなら自分の状況が分かりそうだと感じた。藍は「はい……僕も色々聞きたいのでお願いします」とお辞儀し、何を聞いても冷静でいようと覚悟した。


 ( こ こ は 何 処…… )


 「先ずお前さんの名前と出身地は何処なんだい?」

 「水城藍。 国籍は日本です」

 「ミズシロアオイ……変わってんなー 名前はミズシロアオイで良いのかい?」

 「いいえっ ……アオイでいいです」


 姓が無い国らしいので名前だけを伝え直した。


 「それより国籍てなんだ?? ニホン? 聞いた事が無いが、俺が知らないだけなのか?」

 

 日本は世界でそれなりの知名度はある筈だが、発展途上国など教育が行きとどいて無い国なら有り得るかもしれない。藍は嫌な考えを払拭する為にも大国の名を上げてみる。


 「それなら大国ではアメリカ・ソ連なら分かりますか?」


 バンは益々怪訝そうに考え込む。


 「知らねえ国ばかりだ……この大陸は天帝が治める天領区を中心に、東に青龍、南に鳳凰、西に白虎、北に玄武が治める四国しかないぜ。因みに此処は青龍国だ。知ってるよな?」


 如何にも常識とばかりに反対に尋ねられ、藍としてはよくある中華風ファンタジー設定を聴いている気分に陥る始末。


 「――すいませんが、聞いた事がないです」

 「それじゃあ、どうやって此処に流れついたんだ?」

 「誤って崖から海に落ちて、気づいたら此処の砂浜で目を覚ましただけなんですけど……」

 「船から落ちたんじゃないのか?」

 「崖です」

 「うーん……ますます分からん。 もしかして海か来たのかと思ったんだがな」


 崖から落ちて流れ着いた事にバンは難し様子で考え込んでいる。バンにとってこの小さな村と海と近くの大きな街が全て。広大な青龍国が三十六州から成り立つ事も知らず、隣国の事など名前しか知らなかった。


 だが漁師として海の知識は豊富なバンは、この海岸線の砂浜が隣国まで続き崖のような切り立った海岸線は反対側の隣の州側にある。だが海流的にそこから落ちたとしてこの浜には流れ着かなかった。

 この不思議な少年が嘘を言っている風にも見えず、きっと隣国の玄武国から奇跡的に流れ着いたのだろうと思う事にした。何より黒い髪に瞳の人間など生まれて初めてで、茶色の髪と緑の目以外の色持ちは神族の血を引くから特別だ。そして少年の指にある金の指環は如何にも訳ありだと納得した。


 一方の藍は、嫌な予感が当たってしまい未だに信じられずにいた。昔読んだことのあるファンタジー小説の異世界トリップなんだろうかと考えると辻褄が合う気がしてならない。まさか現実にあり得ない現象を自分が体験している事に愕然とする。『ここは地球じゃない』とうっすらと思っていた事が現実だと知ってしまった。


 「学の無い俺が考えても切りが無いしな。二・三日後には街の役人が来るからそれまでゆっくりしな」


 不審な人間が居る場合は近隣の街の役所に届けるのが通例だがあまり届ける者はいなかった。色々と手続きが煩雑で半日待たされる事もざらにあり、しかも街まで歩いて二日掛かる場所。今回は藍が色持ちだったのもあり、届けるのを迷っていた。


 「役人が来るんですか?」

 「俺も面倒だから役所に知らせるのは嫌だったんだが、村の長老が龍王様の指環をしているから直ぐに知らせろって煩いんだよ」


 長老とは藍が初めて言葉を交わした老人。村で一番の年寄で物知りで、翌日運ばれた家に様子を見に来た長老が藍の指の金の指環に気が付いて騒ぎ出したのだ。


 「龍王様の指環?」

 「お前の左手の指に嵌っているのが、そうだとよ」


 バンチェに金の指環と言われた藍は自分の左手を見ると、何時の間にか記憶にない金色の指環が、左手の人差し指に嵌っているのが目に入るり目を見張った。


 「えっ?? 何時の間に指環が? これ僕のじゃありません!! 記憶にないです!?」


 藍は急いで指環を取ろうとするが、キッチリ嵌り、力一杯引っ張っても抜けず、指が痛むだけだった。外すのを一旦諦めてバンチェにこの指輪について聞いてみる。


 「この指環って何なんですか?」

 「う~ん……俺も良く分からんのだが……龍の意匠を模った物を身につけられるのは龍族だけなんだ。アオイは龍族様の血を引くんだろ?」


 龍族が何を意味するのか分からない藍は慌てて否定する。


 「ちっ、違います! 僕は普通の人間です!! それに龍族って何ですか??」

 「えっ! そうなのか、困ったな……」

 「何がですか?」

 「人間が身につけたのが分かったら間違いなく死罪なんだが……アオイの髪は黒だし、てっきり龍族様の血を引いてると思ったんだ」


 藍は漠然と龍族と言う人種がこの国を治める支配階級なのだろうとあたりを付けた。


 「まー、役人が来るまでに抜ければ大丈夫ろ」


 バンは呑気に言うが、藍は死罪と聞いて血の気が引き、顔色も真っ白になっていた。そんな様子を見てバンは気にせず「まっ、後はカイリンに指環が抜けないか見てもらえ。俺はこれから漁に出るから夜にまた顔を出す」と言って部屋を出て行ってしまった。


 どうしてい良いのか分からず藍はカイリンに救いを求めるように見上げた。するとカイリンは二コリと笑いながら、「さ~頑張って抜くよ!わたしゃ結構力があるから安心おし!」と頼もしく請け負った。


 「カイリンさん、お願いします」


 その後カイリンさんに力一杯引っ張って貰ったり、油を塗り滑りを良くしてみたが無駄で、人差し指が赤く腫れただけだった。


 「抜けないね~、最悪指を切るしかないよ」


 力に自信のあったカイリンも、なかなか抜けない指環を遂に諦めてしまい、笑えない冗談を藍に言う。


 「そっ、そんな―! 指環を切れば良いんじゃないですか?」

 「滅相もない!! そんな事したら龍王様のお怒りを買っちまう」


 藍にしごく真っ当な抗議だったが、反対にカイリンに咎められてしまった。


 「死罪も嫌だけど指を切るなんて無理です」


 悲壮な様子の藍に流石に言い過ぎたと思ったらしいカイリンは笑いながら誤魔化すように言う。


 「冗談だよ冗談。夜に村長がまた来るからもう一度相談すればいいよ。それより体を拭く物と着替えを持ってくるから、チョッと待ておいで」


 体を綺麗に出来ると聞いて藍は少しだけ気分が浮上する。


 「はい」


 藍にはとても冗談には聞こえなかったが、それだけこの指環が大変な物など感じた。改めて金の指環を観察すると金の龍が指に巻きつくようになっていて、鱗の細部まで判る精巧な細工が施されていた。一体何時からこの指環を嵌めていたのか記憶に無い。だが海に落ちて気を失う前に金色の光を見たのを思い出し、それを必死に掴んだ記憶が蘇って来た。


 「もしかしてあの光は、この指環?」


 次々に起こる不思議な出来事は、この指環のせいのような気がし始めた。


あの時この指環を掴まなかったら、あのまま溺れ死んでいたのかもしれないが、今の現状はこの指環の存在が首を絞めていた。

 指環が抜けなければ最悪死罪だと言うとんでもない指環だ。


「なんとか抜かなきゃ……僕はこれからどうなるんだ?」


 指環がこのままなら、とても明るい未来では無い事は間違いないだろう。もう一度自分で抜けないか試してみるが、抜こうとした途端に孫悟空の輪のようにきつく締まって動かない。矢張り普通の指環でないのを痛感するだけだった。

 それでも諦めず何度もチャレンジしていると、カイリンがお湯の入った桶と衣類を手に戻って来た。


 「さあさあ、そのおかしな服を脱いでおくれ、体を拭いてあげるよ」


 着ている体操服を変な服と言われたが、それよりも拭いてあげるという言葉に慌てる。


 「自分でします!」


 慌ててそう言うが「子供が遠慮しなの~」と取り合わず、問答無用で着ている体操服を脱がされてしまう。必死に抵抗しようとするが、非力な藍は力負けしてカイリンの手馴れた感じで上も下も脱がされてしまう。


 「うわぁーー! それだけは止めて下さい……」


 カイリンが最後のパンツを脱がそうと手に掛けようとするので、涙目で必死に訴えて何とかそれだは阻止した。そして裸にされた瞬間、イジメを受けて痣だらけなのを思い出したが、不思議な事に痣どころか染み一つ無い体になっていた。酷い痣は十日間は消えないのにと繁々と自分の体を見る。


 (何故?)


 「しかし、なんて軟らかくって肌触りの良い生地だい。絹とも違うし、丈夫そうで高そうな品だね」


 カイリンは服を畳みながら体操服の布や縫製を見てひとしきり感心した。自分たちが普段着ている着物は植物の繊維をよって織ったモノだが目が粗く薄い。この辺りは年中温暖でその方が適しているが珍しい布に興味津々だった。それからお湯の入った桶に布を入れ硬く絞る。


 「先ず背中からだねー、後を向いて」


 服を脱がされた時点で精根尽きた藍は、無駄な抵抗を止めカイリンに言われるまま背を差し出す。


 「お願いします……」


 カイリンは手慣れた手つきで体を丁寧に拭いていく。藍は恥ずかしさで顔を真っ赤にして緊張する中、こうやって母親に体を拭いて貰った記憶のない所為か酷く心を揺さぶられる。


 「しかし羨ましいくらいに綺麗な肌だね。色も白いし手も荒れてない力仕事一つしていない手だ。 きっと裕福な家だったんだろ」

 「まあ……」


 藍は頷くしか無かった。体を拭いてくれるカイリンの手はお世辞でも綺麗とは言えず、カサカサで皮が厚くなった仕事をしている手で自分の方が恥ずかしく感じてしまう。


 「きっと親御さんも心配してるだろうね」

 「多分……でももう帰る家はありません」


 何故か嘘を言ってしまい自分自身困惑した。だが帰る手段が分からないのだからあながち嘘ではない。


 「終わったよ、この服を着ておくれ。ところで、幾等なんでもアオイは痩せ過ぎだよ。村の女の子より細いんじゃないかい。こんなんだから直ぐ気を失っちまうはずだ。夜は御馳走を作るから、しっかり食べるんだよ」


 女の子より細いと言われて少し傷つくが、それよりも小食な藍は夜ご飯を沢山作ってもらっても残してしまいそうで断りをいれる。


 「ありがとうございます。でも……出来れば量は少なめにして欲しんですが」


 だがその希望はカイリンがニッコりとほほ笑みながら「食べるよね~」と言われれば「はい、頂きます」としか答えられないのだった。


 体を拭き終わり用意された服は綿のようで、元は紺色だったような剥げた青色の着物。袖口が筒状のハッピに近く、前で掛け合わせ紐で結び、驚いた事にパンツはなく簡易なズボンを穿くだけだった。着心地は体操服に比べ涼しいが、ごわごわする上にパンツを穿いていないのが一番違和感があり履き心地が悪かった。


 「これで良いですか?」

 「丈は丁度だけど、掛け合わせがこんなにあるなんて女物の方が体に合いそうだよ」


 笑いながら、さらりと酷い事を言われるが、藍は日本人としては普通より痩せてるぐらいのはずだと思っていた。カイリンは女性ながら藍と背丈が変わらず、恐らく人種的体格差だと思ったが心の中で反論するしかない。


 「着替えたところで、今から村でも案内しようと思ってたんだけど大丈夫かい?」

 「少し休んでからでもいいですか」


 正直言って未だ頭の中は混乱しており、もう少し気持ちの整理をしたい藍は疲れていると言って断る。実際問題、体は酷く倦怠感があった。


 「そうかい、それじゃあ明日にでも村を案内しようかね。夕食が出来るまでゆっくりしてな」

 「ありがとうございます」


 カイリンは「用があったら呼んでおくれ」と言って静かに部屋を出て行った。一人部屋に残されるとどっと疲れてきてしまった藍はベッドに再び横たわる。


 「寝てばかりいたから体力がなくなったのかも」


 海に落ちてこの浜辺の漁村に辿り着いてから丸二日寝ていた藍は想像以上に体が弱っていたのか、暫く体を起こしていただけで立つのも辛い状態。明日までに体力を回復させる為にも休んで夕食をチャンと食べた方が賢明だ。

 藍はまだこの現実を全て受け入れた訳ではないが、元の世界に戻りたいという気持ちは薄れてる。

 あの悪夢を見て地球に戻る意味がない気がした。かなり以前から家にも学校にも居場所なんて無かったのだ。


 (この世界にやってきても誰も悲しまない。それに帰る手段も無さそうだし、ここで生きるしかないよね)


 しかし藍はここで生きる決心をするが指環が抜けなければ死罪。 だから生きる為にも役人が来る前に、この村を逃げるしかない。だが藍には全くこの世界の知識もお金も無いのに一人で生きて行ける自信が無かった。

 しかも役人が藍の存在を知ってしまっている。藍が逃げ出した場合に追手が掛けられ、カイリンやこの村の人たちが咎められる場合もあり、優しい藍には実行する事は出来なかった。


 既に藍には最悪の答えしか用意されていなかった。


「考えても無駄かな……」


 思考がグルグル回るだけで解決法なんて無い気がして、考える事も放棄してしまう。そしてボーっとしていると眠気が襲い、そのまま身を任せてしまうのだった。




 次に藍が目を覚ました時は矢張りカイリンの心配そうな顔が目の前にあった。


 「僕、何時の間にか寝てしまったんだ……起しに来てくれたんですか?」

 「良かった…死んじまうかと思ったよ」


 カイリンはそう言って少し涙ぐんで頬を撫でてくれるので訳が分からない。


 「どっ、どうしたんですか??」

 「あんた…あれからまた三日間も寝たままだったんだよ…」

 「えっ! 三日も!」


 そう言われ驚くが、自分では一時間ほど昼寝をした気分だった。


 「何処か体に不都合はないかい」

 「いいえ」

 「きっと海に落ちて体が弱ってたんだね。こんな村じゃ医者もいないし長老様も寝ているだけだって言ってたけど心配したよ」

 

 まるで我が子を心配する母親同然に心配されて、藍は心がジンとしてしまう。


 「心配掛けて御免なさい」


 本当の母親にだってこんなに心配された事が無いので、カイリンが母親なら良かったと本気で思ってしまうのだった。




 藍が再び目を覚ましたのはあれから三日後の昼だった。また寝てしまわないように運動がてらにベットを出て居間に案内された。居間と言っても、部屋の中心に木のテーブルと椅子が置いてあり、壁際にある棚には小物などが飾られいるだけの簡素な部屋。一番目を引くのは壁に飾られた大きなもりで二本あった。


 「これは旦那の銛で、沖にグエがやって来た時に使うのさ」


 銛を興味深げに見ているとカイリンが説明してくれる。


 「グエ?」

 「知らないかい? 山のように大きな魚で、年に一頭獲れれば村は大いに潤うんだよ」

 「へー見てみたいかも」

 「もしアオイがこの村にいるんだったら、グエを浜に上げるのは村のもん総出で引っ張るんだ。その時は手伝っておくれ」


 思いがけない突然の申し出に驚いてしまう。


 「カイリンさん……僕がここにいてもいいの?」

 「行くとこ無いんだろ。家なら食いぶちが一人増えても大丈夫さ」


 カイリンは安心させるようにポンっと大きな胸を叩いて満面の笑みを見してくれる。


 「だけど役人が来たら僕は引き渡されるんじゃ……」


 気になっていた事を口にするが


 「それがさー、折角届けに行った村のもんは、相手にされずに昨日帰って来ちまったよ。だから心配せずに家の子になりな」

 「!」


 藍は嬉しさのあまりその場で泣いてしまう。もしかして死罪になるかもしれないと覚悟していただけに嬉しさは一際だった。


 「ありがとう……うっう……」


 感極まって泣いてしまう藍をカイリンは優しく抱きしめる。


 「こんな可愛い子が増えて私も嬉しいよ」


 藍もそれに甘えるようにカイリンの胸にすがって泣き、初めて知った人の温もりを感じ、如何に自分が愛情に飢えていたか思い知る。日本で何不自由なく育った藍は、電気も水道も無く苦労しそうだが、元の世界には何の未練も感じなかった。

 それからカイリンが作ってくれたミルク粥を食べながら、村の様子や家族の事を聞いた。この家は四人家族。旦那さんは、とても無口で無愛想だが、優しい人なんだよと惚気話のようだった。そして双子の男の子もいて今は父親の漁を手伝っていると教えてくれる。

 藍も体力が戻ったら漁を手伝うと言うと


 「まだ小さいんだから気を遣わなくてもいいよ。それより家の手伝いをしておくれ。 アオイが女の子なら息子の嫁になって欲しかったよ」


 本気か冗談か分からないように言うカイリン。藍は小さいと言う言葉に引っ掛かり、一体自分を何歳に見られているんだろうと不安になってくる。カイリンたちは白人の体型に近く、アジア人は若く見られがちだから勘違いしている可能性が高かった。だが態々年を言うのも変だと思いなおし、夕飯を作ると言うカイリンさんの手伝いをするが、魚もさばけず野菜の皮も剥けず皿を出すぐらいしかできなかった。


 そして日が暮れる頃に三人が漁から帰って来たので挨拶をした。


 「藍です。お世話になります。」


 居間に灯るロウソクの優しい明かりの下には大きな三人の男がいた。


 子どもと聞いていたが、藍より背が高く筋肉も確りと付いた大人と変わらない。だが同じ顔の二人が藍を興味津々で見る緑の目にあどけなさを感じ、案外少年という年頃なのかもと思わせた。そして背後にはまるでプロレスラーのような大男がいかつい顔で立っている。


 「こっちが、旦那のタオ、双子のマオとミンの十二歳でアオイとそう変わらない年だよ」


 (十二歳!?)


 まさかそこまで幼く見られていたなんてショックを受け、慌てて訂正する。


 「カイリンさん、僕十七歳なんですけど」


 思い切って言ってみると


 「十七歳! 嘘だー、こんなに小さいし、ヒョロヒョロじゃーん」

 「えーー! 男なのあんた! 寝顔で女の子だと勘違いしたぜ。チェッ、女の子が良かったのに」


 年を言った途端に双子の大ブーイングが始まり呆気に取られてしまった。それより自分の寝顔を見られ女の子と間違われいたとは思わなかった。


 「わたしゃ、てっきり十くらいかと…アハハ~」

 「十歳……酷い」


 藍は、矢張りかなり子供扱いされていたんだと思い知り落ち込んだ。

 それから双子は無遠慮に藍を取り囲むが、五歳も差があるのに年上の藍の方が子供のような体格差があり、どちらが年上か分からない。

 絶対に人種的差だ!と叫びたくなる藍だった。


 「黒い髪に目なんて初めて見る~、すげー」

 「肌も白いぞ~、可愛いのに男なんて勿体ね~」


 二人はベタベタと体を触り失礼な言葉を連発されるが、藍は二人の迫力に押されて固まるだけだった。


 「マオ、ミン、その子が困ってるだろ。席に付きなさい」

 「「はーい」」


 カイリンのご主人の一言で二人は大人しく座る。


 「さーアオイもこっちに座ってお食べ、沢山食べておくれ」


 それから、楽しい食事が始まり、双子は母親に似たようで話し好きで、カイリンも交え漁についての話や村の事など色々話して藍に煩いくらい構う。その横でタオが静かに酒を飲みながら、いかつい顔をにこやかにして聞いているだけだが、藍たちを優しい眼差しで見守っていた。

 食事は魚が主で焼いた物や、野菜と煮込んだスープがあり、ナンに似た穀物の粉を練って焼いたものにそれらを挟んだり、スープに付けて食べた。どれもとてもおいしかった。困った事は量的に多すぎてどうやって胃に治めようか悩んでしまうくらいだ。


 ――藍の理想の食卓がそこにはあった。


 出来るなら、この人たちと家族としてずっと暮したいと思う藍だった。








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