5年後 -残酷な幻影ー
――藍がこの世界に来て五度目の新年を迎えていた。
狭い結界での生活は毎日が単調だったが、藍には年月が経つのが地球にいた頃よりも早く感じていた。
「もう五年か……僕も二十二歳過ぎてるなんて実感が湧かないや」
藍は掃除の手を止めて居間にに掛けられた新しい暦表を眺めながら呟いた。
青龍国でも新年は地球と同様にお祝いをする。新年は天帝様が誕生した祝いの日でもあり四神国中が盛大に祝い天帝様を祀る。一般の家庭では玄関に赤い提燈を灯し花で飾り立てて、晴れ着を着てご馳走を食べて三日間続けて祝うのが習わしだ。そして青龍国中の龍族たちは王都に集まり龍王に参賀し、王宮にある天帝廟に全龍族が参詣して盛大な祝宴が行われる。
本来なら藍は王妃として龍王の横に座して、多く新年の儀に出席しなければならないが、藍の存在を知る者は極僅かで秘匿されていた。新年もオウロン達とささやかに祝っただけだが十分楽しい雰囲気をあじわえた。なにしろ日本での正月は一人で過ごすのが常で家政婦が用意したお節を食べながらテレビを観る寂しいものだった。それに弟のようなソンの存在も大きく毎日が楽しかった。
(おじいちゃん達との何気ない生活が家族の絆の薄かった僕の心を癒してくれるから、年月が経つのを早く感じるのかな)
五年の年月の中で藍にとって一番の大きな変化と言えば、サンジュンロンとフェンロンが付き合いだし恋人になった事だろう。藍とサンジュンロンは文通を通して親交を深めていた。手紙の遣り取りで、藍は色々な事を教えてもらったり、悩みを相談したりして、今では兄のように慕っている。そしてフェンロンと付き合いだしたのを知った時はオウロン共々驚いた。
特にオウロンは『フェンロン様などとんでもない!! 絶対に許さん』と猛反対。若い頃、フェンロンさんの副官をしていたので女性遍歴を色々と知っているらしく、大事な息子が遊ばれているのではないかと心配したらしい。
藍としては女癖より男同士という方に引っ掛かるが、龍王の伴侶になった自分も男だったが普通に受け入れられた。この世界では同性の恋愛は普通なのかと思った。
結局、フェンロンからの手紙を貰ったオウロンは、渋々認めているのだったが未だに心配らしい。
(確かにフェンロンさんは、初対面でキスされそうになったし、真面目なサンジュンロンさんには似合わない軽そうな人だった。でもサンジュンロンさんが好きなら仕方ないよね)
藍にも想いを焦がす相手がおりサンジュンロンの気持ちが良く分かる。
居間の掃除が終わった藍は台所にいるモンに声を掛けた。
「掃除が終わったよ」
「ありがとう。次は鶏小屋の掃除をお願い」
「うん」
モンに言われ、そのまま藍は外に出ると裏庭でオウロンがソンと剣の稽古が行われていた。
ソンはオウロンに剣を仕込まれて逞しく成長し、片腕ながら剣の腕前は凄まじく、藍を遥かに凌ぐ力量だった。
ソンは既に大人の猿に成長し、直立すると藍の肩まである。食べ物が良かったのかソンと同じ種類の猿の1.5倍はあり、知能も高く身体能力も高かった。オウロンが手加減しているといっても、ソンは十分に渡り合っていた。あの可愛い頭に乗っていた子猿は見る影も無く、逞しいオス猿になってしまったのがチョッと残念だった
。
藍は足を止めてオウロン達の練習を眺めた。
「ソン、頑張れ!」
押され気味のソンに応援を送る。
片腕の無いソンだが、おじいちゃんの打ち込む剣を、確実に自分の剣で受けてもバランスを崩す事は無い。隙あらば素早く打ち込む姿は、とても猿には思えず、まるで人間だ。
しかも瞬発力と体の柔軟性が凄く、オウロンの剣を避けるさまは、まるでアクロバットで、剣をあらゆる体制から打ち込み曲技は見物だ。それを軽々と避けるオウロンも凄く、まるで中国の特撮映画の剣技を見ているようで、藍は思わず興奮してしまう。
「そこだー、行けっソン!!」
高く飛び上がったソンが一直線にオウロン目掛けて剣を振り下ろすが、オウロンが簡単に剣でなぎ払うと握力の強いはずのソンが呆気なく剣を弾き飛ばしてしまう。
「ガハッハッハー、まだまだ猿には負けんぞ!」
「キッ― キッ― !」
悔しがるソンは、藍に抱きついてくるが、支えきれず押し倒されていまう。そして甘えるように、すりすりと顔を藍の胸にす擦りつけて来るので結構押されて圧迫感で苦しくなる。
「こら! ソン止めて! 苦しい」
藍が苦しがっていると、ガッコ―ンと音がすると、ソンが飛び去り両手で頭を押さ蹲っていた。
「このバカ猿、アオイにサカるんじゃない!」
(サカるって……猿が人間に発情するとは思えないんだけど、しかも僕男です…)
オウロンの言葉に苦笑しながら藍は立ち上がり、ソンの側に行く。
「大丈夫、ソン?」
ソンの頭を見てみると大きなタンコブが出来ており、どうやら剣の柄でやられたらしい。
「今、冷やしてあげるから待っておいで」
「キッキー」
要らないとばかりに鳴き声をあげたソンは、おじいちゃんを睨みつけ、剣を拾うといじけたようにそのまま森の中に消えて行った。
ソンは最近森で暮らすようになっていた。体も大きくなり剣を扱えるソンは強い。元々野生の猿なのだから、徐々に森に帰し仲間の中で暮らす方がソンの為だと言って、オウロンがこうやって、剣の練習がてら追い払っている。
「おじいちゃん、やり過ぎだよ…ソンが可哀想」
藍が抗議するがオウロンは反対にたしなめる。
「アオイ、ソンは野生の猿なんだ。それに剣も使え既に一人でも森で生活が出来て、ある程度の妖獣なら渡り合えるほど強くなった。このままわし等と暮らすより、猿の群れに帰り家族を持った方がソンの為だ」
「うん…」
ソンは確かに強くなった。まさかこれ程剣が使えるように成るとは藍も思ってはいなかった。。
藍にとってソンは可愛い小猿の頃から知っていた弟のような存在。そんなソンが大人に成長して家を出て行くのに、藍はは成長が止まったまま身長も顔も変わらない。だが髪だけが腰の辺りまで伸びて、今では自分で三つ編みをしている。
龍王の伴侶である為に藍の体は年を取るのが緩やかで数十年はこの姿のままだとオウロンに教えられていた。だが実際に五年経っても十七歳のままの自分の顔を鏡で見て漸く実感するのだった。
「それよりどうだアオイ、久しぶり手合わせんか?」
オウロンが珍しく剣の練習に誘う。最近ではソンを鍛えて藍は放置されていた。なので素振りを一緒にするぐらいの藍では、オウロンの練習の相手にもならないはずだが、どうやら不完全燃焼の様子。
「あっゴメン! 鶏小屋の掃除しなくっちゃ」
剣の相手などしたら一日寝込んでしまうと藍は慌てて逃げるように鶏小屋に向かう。
オウロンが建てた鶏小屋には十羽の鶏と八羽のヒナがいて、世話は藍の仕事になっていた。
「外に出て良いよ」
小屋の扉を開けると、一斉に飛び出して思い思いに餌を取りに辺りに散っていくが、危険な森の中に決して行かない。
藍は小屋の中に入り、先ず卵を探して籠に入れていくと五個集まる。次に敷いてある枯れ草を集めてゴミ捨ての穴に捨て、新しい枯れ草を敷いて掃除は終わり。後は水桶に新しい水を入れ替えてやってから、飼料を撒くと鶏達が集まりひよこ達も餌を啄みとても可愛い。
ふわふわの黄色い羽毛の雛を思わず手に取りたくなるが、あくまで鶏達は家畜でありペットでは無いので藍は見るだけにしている。情を持ってしまうと肉として絞めるのが出来なくなるからだ。最初は育てた鶏が食卓にのぼった時はショックで食べれ無かったが、今では美味しく食べてる。
鶏の世話が終わり、卵の入った籠を持って台所に行く。そして料理の下ごしらえをしているモンに声を掛ける。
「今日は五個も産んでいたよ」
「有難う。そこに置いておいて。それから鶏を一羽絞めといてくれる? 夕飯に使うから」
「えっ…、分かった」
藍は嫌な仕事を請け負ってしまい、一気に気分がヘコンデしまう。食べる為とはいえ命あるモノを殺すのは気分が良いものでない。慣れたとは言っても、矢張り最初に首を落とす瞬間だけは好きになれず、ソンがいた時は代わりにやってもらていたが、今ではズルが出来ないので自分でするしかなかった。
仕方なく鶏のいる庭に戻り一番年寄りの雄鶏をを暴れないように足を縛る。せめて頭を葉で隠して思いきって包丁を振り下ろす。ダンッ!と言う音と共に首が落ちた。
「うっ…、美味しく食べるから許して」
思わず手を合わせて拝んでしまう。
首を切るなんて残酷だが、地球で食べていた肉もこうやって動物を殺し肉を捌く仕事を誰かがしていたのだと藍は鶏を締めるのする様になって理解した。
次に、そのまま木に吊るし血抜きをする。オウロンに教えて貰った通りに羽を取り捌くのは慣れてしまうと簡単だった。
「慣れって怖いな」
初めてした時は卒倒してしまったのを思い出す。後かたずけをしてから、捌いた肉をおばあちゃんに届けてからお風呂に入る事にした。
藍は好きな時に入れる温泉が気に入っていた。
温かい湯につかりながら、ゆっくり寛いでいると、森の茂みがガサガサと音がしたと思うと猿が出て来た。
「!?」
藍は一瞬だけ身構えるが危険な獣はこの結界に入れないのを知っていたので直ぐに警戒を解く。見れば大きさはソンの半分しか無いが、足に怪我をしているようで右足を引き摺っていた。猿は僕を気にする風でも無く、温泉に入り気持ちよさそうだ。何故か分からないが藍が入っていると怪我をした動物達が、温泉に入って来て以前から不思議だった。
(まさか森の動物達の間で、僕と入ると怪我が治るとか噂にでもなってるのだうか?)
そんな馬鹿な事を考えてしまっていた。
そして入って来た猿をよく観察すると、ソンと一緒の種類のよう。やはり猿でも色々な種がいるようで、天狗のように長い鼻のもいれば赤毛の綺麗な物もいた。大きさからいうとソンの母親を思い出すので、メスなのかと考えていると、また茂みから何かが飛び出して来る。
それは森に帰った筈のソンだった。
「ソンもお風呂に入りに来たの?」
最初ソンは僕の方に寄って来て入ろうとしたが、反対側に居るもう一匹の存在に気付くと、湯には入らず、小さな猿の側に回ると、クンクン臭いを嗅ぎ始める。
「グゥウーーウッウ」
何故か小さな猿を威嚇するように唸りだし、今まで見た事のない反応をする。小さい猿は大きなソンに怯えているようだ。
「ソン、こっちにお出で! その子が怖がってるよ」
見兼ねた藍が呼び寄せようとするが、何時もなら言う事をきくソンが無視をしてその猿から離れようとしない。藍は怯える小さな猿に近づき、手を差し伸べてみる。
「怖くないからお出で」
すると怯えている所為か猿は恐れる事無く藍の手を取り抱きつく。その途端にソンが怒ったように、キ―ッキ―ッキと叫び威嚇するので、猿は更に怯えてしがみ付く。
「駄目だよソン! この子は怪我をしてるんだから優しくしなさい」
(ソンは僕がこの子に構うのが嫌で怒っているのだろうか? 今まで他の動物が入って来ても怒った事は無いのに……)
とうとうソンは、温泉に入って来て立っている僕達に近付くと、警戒する様に猿の足の傷を見る。次に匂いを嗅いで何か確かめるようにすると、傷口を舐め初めたのだった。
「変だよソン、お前?」
小さな猿の方も傷口を舐めてくれるソンに安心したのか、次第に体の力が抜けて行くのが伝わって来る。
もう大丈夫そうなので、藍もいい加減に抱き上げているのも重いので、お湯に降ろすと、二匹で仲良く浸かっていた。
最初は、あんなに怒っていたのか不思議なくらいに肩を寄せて、まるで恋人同士のようだ。藍は二匹の邪魔にならないように静かに風呂をあがり、服を着て家に入った。
そして夕方、藍はモンと一緒に夕飯の支度をしていると、勝手口を開けたソンが外から呼び掛けて来た。
「キーキュウキー」
大きくなってしまったソンは、オウロンが人間と獣は生活は分けた方が良いと言うので以前から家には入らない様しつけてある。家に入るとオウロンの鉄拳が飛ぶが、偶に窓から藍の部屋に入れて一緒に寝たりしていた。
「どうかした?」
ソンの処に行くと、さっきメス猿を確り抱っこしていて微笑ましい。だが良く見るとメス猿はグッタリとして辛そうだ。
「この子を見て欲しいの? 待ってておじいちゃん呼んでくるから」
藍は慌てて居間に居るオウロンを連れて来てメス猿を見て貰う。
「うむ、どうやら足の傷のせいで熱が出たんだろう。どうも妖獣にやられ毒が回ってしまったんじゃろ。わしが傷を神力で治してやるから明日には元気になるはずだ」
オウロンは、メス猿の足の傷に手をかざし神力を流し込むと、怪我があっという間に治ってしまう。心配そうにソンが、メス猿の顔をぺロぺロと舐めるて労わっていた。
「良かったねソン。おじいちゃんが治してくれたから、もう大丈夫だよ」
「キィ~~~」
ソンは嬉しそうにメス猿を抱え森に帰って行くのを見たオウロンは、背後からとんでもない事叫ぶ。
「ソン! 傷が治ったばかりだから、今夜はさかるんじゃないぞ~~」
「おじいちゃん! 変な事言わないでよ!」
「アオイは分かっておらんな。ソンのあのメスを見る目は、やる気満々だったぞー」
オウロンはガハハッハと笑いながら言う。
「本当に? でも最初にソンはあの子を威嚇していたのは、なんでだろう……」
藍が不思議がっているとオウロンが答えてくれる。
「多分、妖獣の匂いがしたからだろう。あの傷は負ったばかだから襲った妖獣の匂いでもしたんだろう」
「そっか―」
未だに妖獣を見た事が無い藍は、あの森にそんな危険な生き物がいるのが実感出来なかった。ソンも腕に怪我を負い、腕を切り落とさなければならなかった。その原因が妖獣に襲われたせいでソンはその事を覚えていたのだ。
「あの子はソンのお嫁さんになちゃったの?」
「そうだろう。ソンはもう立派なオスで、群れを作りメスを何匹も持っていてもおかしくない年頃だ。きっと一年も経たずに子供を連れてくるんじゃないか」
「そっか…ソンに家族が出来るんだ。良かった」
(あの小さかったソンが父親か……ドンドン取り残されていくようで淋しいや……)
藍は暫く二匹が消えて行った森を眺め複雑な思いに囚われるのだった。
夜になり藍は自分の部屋に籠り手紙を書く。
オウロンに、新しい机と椅子を作って貰ったのだ。店で売っている様な立派なものではないが、確りとして頑丈で結構気に入っている。
手紙の相手はサンジュロン。ユンロンとは年に一度しか手紙のやり取りが出来ないので寂しいが、オウロンの息子サンジュンロンとは、度々手紙の遣り取りをしていた。何回も手紙を交わす内にとても気が合い親しくなっていった二人。そしてオウロンには内緒で、こっそりとユンロンの様子を教えてもらうようになっていた。
藍は自分ひとり悩むのに耐えれなくなり、思い切ってサンジュンロンに自分の好きな人を打ち明けてしまったのだ。自分の立場を考えると初めは随分悩んだが、誰かに打ち明けたい衝動に駆られ、相手の迷惑も考えず、つい書いてしまった。サンジュロンも当初は途惑ったらしいが、藍の想いを優しく受け止めてくれ、親身に相談に乗ってくれ慰めてくれるようになった。
サンジュンロン自身もフェンロンと付き合っており、お互い恋愛について書きあい、まるで女子高生の交換日記のようになってしまっていた。藍がこの世界に流れ着き、知り会った人は少ないが、龍王以外は人に恵まれているのを実感するしかない。
手紙には今日、ソンにお嫁さん候補が出来た事を知らせる手紙を書き終わり、そのまま台所の戸棚に納めるべく部屋を出ると、既に二人は寝てしまったのか居間に居なかった。窓から射す月明かりを頼りに、台所に行き手紙を戸棚に入れる。そのまま寝ようかと思ったが、あまりに明るい月の光に誘われて、外に出て夜空を眺めたくなった。
藍は恐る恐る外に出る。考えてみれば一人で外に行くのはあの雨の晩以来だった。
「うわぁー、綺麗な夜空」
そこには数億の星が瞬き降り注いでくるような錯覚に陥る。そして夜空の中心に青白く輝く満月が幻想的に浮かんでいた。
(まるでユンロンさんのように清廉で綺麗だ)
サンジュンロンの手紙には、ユンロンは独身で未だ恋人もいないらしく、仕事一筋で休日も無しで働き恋愛をする暇もなさそうだと書いてあった。
(でも、王宮には綺麗な人が沢山いるだろうし、何時かは結婚してしまうのだろうか…)
藍はそう思うと悲しくなり目頭が熱くなる。
せめてあの月のように、遠くから眺めるだけでいいのに、それすら出来ない現実に藍はとうとう涙が溢れてしまった。
時折、此処での生きるだけの生活は、取り残されてしまったようで酷く寂しさが湧き上がる。
(今はおじいちゃん、おばあちゃんが一緒に居てくれるけど、何時かは僕が一人此処に取り残されてしまう)
そう考えると恐怖で居た堪れなくなってしまった。
(この結界を通り抜けれたなら、森を抜けてユンロンさんに会いに行けるのに)
無駄だと分かっていても藍は森に出ようと結界に近づく。
暗い闇が広がる森に出ようと足を踏み出すが、幾ら進んでも元に位置から一歩も移動していなかった。
改めて自分がここに閉じ込められているのを思い出す。
「出れないよ……」
藍はその場に座り込み静かに泣くしかなかった。
「ユンロンさん……会いたいよ…… 」
ただ好きな人に一目だけでも会えれば、それだけで良かった。しかしそれさえも許されないのが辛くて、止めどもなく涙が流れた。
そしてどれくらい泣いたのだろうか、突然辺りが真っ暗になる。雲で月が隠れてしまい藍は暗闇に包まれたのにも気付かず泣いていた。
「…ァォィ様 …… アオイ様」
森から突然、藍の名を呼ぶ声が聞こえる。しかもそれは今一番会いたかった人の声だった。
「ユンロンさん! ユンロンさんなの!」
藍は思わず大声を張り上げ暗闇を見渡すと、3m先の森の中にボーっと光る人影が見えてくる。それは段々確りとした輪郭が浮き上がらせ、ユンロンの姿を模っていった。
それを信じれない思いで藍は凝視し続けて何度も瞬きをした。
「ユンロンさん…本当にユンロンさんなの?!」
結界の向こうには、以前と変わらず綺麗に微笑むユンロンがいた。
(信じられない…何故此処に? ……幻なのだろうか)
「アオイ様…此方に来て下さい」
それは間違いなく記憶にあるユンロンの声に藍は本物だと確信し、言われるままに駆け寄る。結界に阻まれて進めない境界に行くとユンロンも目の前に立つ。
藍は嬉しさのあまり抱きつこうとするが、目の前にガラスの壁が存在するかのように二人の間を阻まれて触れる事も出来なかった。」
それでも藍は良かった。
「会いたかった……」
触れられ無くとも、声が交わせるだけでも幸せだった。
「アオイ様、私も貴方にお会いしたかった」
暗闇の中だが、何故かユンロンの姿は仄かに光っていたので、藍は夢心地にうっとりと見詰める。
「貴方に触れたい、どうか中に入れて下さい」
ユンロンは焦れたように藍に懇願する。
「えっ…僕にはこの結界を消せないんだ…御免なさい」
「では此方に出て来て下さいませんか」
「それも出来ないんだ……」
ユンロンは微笑むが何処か人形のように無機質だ。
「私に会いたかったのでしょ?」
徐々に苛立つユンロンの声。
「そうだけど…」
藍も段々と違和感を感じて来る。
(この人は本物? でも僕の名前を知っているし……でも)
「早くアオイ様に触れたい」
目の前で切なげにユンロンに言われて藍はドギマギしてしまう。違和感を感じるがユンロンの姿にあがなえず、誘われるように手を伸ばしユンロンさんに触れようとするが矢張り無理だった。
結界がそれを許さない。
「やっぱり駄目だよ…結界は越えられない」
「チッ、使えないガキだ」
「エッ!?」
藍は突然のユンロンらしかぬ口調に驚き、顔を見るとグニャリと歪んだ。
「ユンロンさん?」
藍は思わず後ろに一歩下がると、ユンロンの姿は徐々に禍々しく歪んで行く。美しい顔はそのままだが、水色の髪も消え失せて体中が変化していった。
「私に抱いて欲しいのだろ、クックックックック この体に組み敷かれ、アラレモ無い声をあげるのを毎夜夢見ていただろ、さあー抱いてやるから結界を解くんだ、アハッハッ、ヒヒィーヒーッ」
突然の変容と酷い言葉を投げつけられ、頭が真っ白になる。
「だっ…誰…なの?」
既に顔はユンロンでは無く、口が赤く裂け、目も赤く吊り上がり、凄まじい形相になり、狂ったように笑い続けて恐ろしくなる。
藍は後に後ずさり逃げようとするが、尻もちを付いてしまい、恐怖で体が動かなくなってしまった。
「酷いですよアオイ様、貴方の愛しのユンロンをお忘れですか…キッヒーキッキー」
声も別人で耳障りなだみ声になった。
「…違う……」
「ケッケッケッケ~~ サッサと中に入れろ! 私がほしいんだろー!この盛りのついた雌犬が!!」
自分を恥かしめる言葉に耳を塞ぎ、その存在を否定っする。
「消えろ、消えろ、お前なんかユンロンさんじゃ無い!消えろー!」
藍は勇気を振り絞り叫ぶと同時に、雲に隠れていた月が顔を出し光が辺りを照らす。すると忽然とユンロンだったモノは消え、代わりに禍々しい妖気を発する一匹の妖獣がいた。
それが一目見て妖獣だと藍は分かり慄く。
狐の様な顔には、禍々しい赤い目が光り、鋭い牙が無数に突き出た大きく裂けた口、ライオンのように顔に周りには長いたてがみ、体は逞しい人間の様だが全身爬虫類の様な黒い鱗に覆われ、ライオンの様な尻尾が付いていたのだった。
妖獣は結界内に入ろうと体当たりを始めるが、藍は恐怖で金縛りにあったように体が動かない。
「お前を食わせろ!何て軟かそうな白い肌だ~、犯してからその肌を引きさき、骨までしゃぶって綺麗に食べてやるぞ~、ケッケッケッケッケッケッケッケッ――――――ッツ―――――?!」
突然、妖獣の体が真っ二つに胴体から離れ、青い血が辺りに飛び散る。
真っ二つにされた妖獣はそれでもなお生きているようで手を使い這いずるように藍に近付くとにじり寄る。その異様な光景に藍は視線を逸らす事も出来ず恐怖で震えた。
「グエ~~~~~~グッフ~~~~~」
すると、何者かが、妖獣の頭に剣を突き刺し止めを刺したのだった。
「ギャー――――――ツ」
凄まじい断末魔が森に鳴り響いた。
そして、妖獣を始末したのは、剣を持ったソンだった。
その顔は今まで見た事も無いほど、野生動物の鋭さを持ち興奮していたが、アオイを見るといっつもの顔に戻る。
「キュウーキー」
藍を心配するかのように鳴く。腰が抜けて動けない藍は、安心させる為にもソンに言葉をかける。
「ありがとう……ソン」
そこへ、騒ぎに気付いたオウロンが慌てて駆け付けてくる。
「大丈夫かアオイ!いったい何があったんだ!?」
座り込む藍を抱き起こし、怪我がないか体を見回す。
「妖獣が出たんだけど、ソンがやつっけてくれたんだ」
「何! 妖獣を!」
そこで漸くオウロンはソンの足元に倒れた妖獣を見つけて唸る。
「流石に、わしが剣を教えただけあるの~~。妖獣を仕留めるとは、たいしたもんだ!」
ソンはオウロンに褒められ嬉しそうに胸を張る。だが藍は未だに恐怖で震えて、立っていられずオウロンにしがみ付く。
「ううっー 怖かったー ううっうー」
するとおじいちゃんは僕を抱きしめ返して慰めてくれるが、お説教も忘れない。
「夜中に外に出るんじゃない、このバカ者!!」
「ゴメンなさい…まさか妖獣がいるとは思わなかったんだ……」
「多分、あのメス猿を襲った奴だろう。血の匂いを辿って来たのかも知れん。この結界に、ここまで妖獣が近付けたのはその所為だろう。…それより何か仕掛けられ無かったか?」
藍はユンロンの事はとても話せず口ごもってしまう。
「まあいい…妖獣が言った事は聞き流しておくんだ。奴らは人の心を覗き込んで、弱い部分をつき惑わすのが常とう手段だからな」
藍が頷くと今度はソンに声を掛ける。
「ソン、お前はサッサと風呂で妖獣の血を洗っておけ、穢れるぞ」
「キー」
ソンは、オウロンに言われ結界内に入ろうとした途端、弾かれてしまう。まるで、ガラスにぶち当たったかのように阻まれる。
ソンも不思議そうにするが、何度試みるが、入れないようだ。
「キッキー??」
それを見ていたオウロンが一人納得する。
「どうやら、ソンは妖獣を仕留めたせいで、妖獣並みと判定されたようだの~。今まで結界を出入りできた方が不思議かも知れん」
「そんな事あるの…」
藍は半信半疑だったがオウロンの言葉通りにソンは、それ以来二度と結界に入れなくなってしまう。
それでも時たま、ソンはメス猿と一緒に会いに来てくれた。メス猿は結界に入れるので、藍は寂しくはなかった。
それに、その内に可愛い子猿が見れそうで、楽しみにしているのだった。




