龍王の出奔 ―顛末― シャオチンロン
僕はシャオチンロン。龍族で徐州の州知事の嫡子でありながら、この州都の宮殿では、疎んじられた存在で、宮殿の敷地の片隅に建てられた朽ちた小屋で母と暮らしていた。
嘗て祖父が存命の時は、僕も離宮を与えられ沢山の女官や侍女にかしずかれていたが、父上は、生まれた時から僕に無関心で名すら呼んでくれなかった。身分が低かった為に、側室にも迎えられなかった母上も、僕と会う事が許されず祖父が住む宮の片隅で静か暮らしていた。
幼い頃から両親の温もりを知らない僕。
そもそも父上と母上が関係を持ったのも、侍女をしていた母上を気まぐれに無理やり犯した一回きりだったらしく、そんな二人に愛は無く僕は望まれない子供だった――時折、祖父に隠れて僕を折檻する時に祖母が教えてくれた。
祖母は恐ろしい人で、人間から産まれた僕を酷く憎んでいた。
もし祖父が母の妊娠を気が付かず祖母に知られていたら、人間を嫌悪する祖母の手によって僕は葬られていたかも知れなかった。
だから祖父には非常に感謝している。とても厳しく厳粛な人柄で、僕の教育には容赦なく、朝から晩まで勉強をさせられ、何度も辛く泣いた。でも祖父だけが僕を気に掛けてくれ、頑張れば褒めてくれ優しく抱きしめてもくれた。今思えば恵まれた生活をしていた。しかし祖父が十四歳の時に亡くなると状況は一変する。
学問に励んでいた僕の部屋に突如乱入して来た祖母は、凄い形相で僕を何度も何度も叩き、意識朦朧とする中で、祖父の死を告げた。
「あの男が漸く死んだわ! これからは私と息子のチェンチュウロンがこの徐州を本当の意味で支配出来るの。その手始めに汚らわしい人間から生まれたお前など龍族なんて認めない! この宮殿からとっとと出てお行きなさい!」
その時初めて祖母が祖父と正式な婚姻を結んでいなかったのを知る。命の契約を結んでいれば祖父が亡くなれば祖母も一緒に天命を全うして龍石になったはずだ。推測だが若い祖母は、年のいった祖父と婚姻を結び、寿命を減らすのを疎んじたのだろう。一緒に亡くなっていれば、僕の境遇も確実に変わっていたと思う。
祖父の死を悲しむ間もなく、ぼろ雑巾のようになった僕は、衛兵によって門から叩きだされたが、祖父の重臣の年老いた龍族タンチェンロンがコッソリ僕を助け、同じように追い出された母上と共に匿ってくれた。そしてタンチェンロンが父上に掛け合い、なんとかこの宮殿の隅の小屋で暮らす事が許されたのだった。
初めて会った母は、茶色い髪に緑の目をした取り立てて美しくも無い三十歳ぐらいの女で、僕を見ると涙を流しながら抱きしめてくれた。嫌だったが突き放す力もない僕は身を任すしかなかった。そして精神的も衝撃を受けて神力が弱り自らの傷を癒す事が出来ず、僕は酷い打撲のせいで熱を出す。初めての熱で意識が朦朧とする中で、これが僕の母なのかと落胆した。
そして粗末な小屋で母上二人での貧しい暮らしが始まったが、王宮の贅沢な暮らしから一転した粗末な衣食住に、僕は暴れ母上に当ってしまう。このみすぼらしい女を母とは思えず、下女の様に扱い、お前など母では無いと何度も言葉で罵ったり、叩いたりもした。
一番荒れたのが、自分が王宮で出された残飯を食べさせられていたのを知った時だった。
母が何時も宮殿から食料を貰ってくるのだが、気まぐれでコッソリ後を付けると、下働きが使う出入り口のごみ置き場から食べれる物を拾っている母を見た時だった。
頭に血が上り、そのまま母を引きずりながら小屋に戻り、何度も叩き残飯を食べさせた事を詰り、漸く気が治まると、床に倒れ顔を赤黒く腫れさせ、出血した母を見た。その時、僕の大っ嫌いな祖母と同じ事をしている事に気付き、自己嫌悪に堕ちいった。
だけど素直に母に謝る事は出来なかった。
それどころか小屋を飛び出し、父の住む本殿に向かい年に数度しか会っていない父上に、元の生活に戻れるよう頼んでみようと思い立った。
以前祖父に教えて貰った秘密の抜け道を知る僕は、衛兵に見付からずに父の部屋に入ると、まだ日も傾かない内から、酒の匂いの充満した部屋で、何人もの裸の女と睦み合う姿を見てしまい声も出なかった。流石に間が悪く引き返そうとするが、父が僕に気が付いてしまった。
「何だ、お前は! この狼藉者め! 誰かこのガキをつまみ出せ!」
その言葉で父は僕が誰か分からないのを知ると絶望するが、僅かの望みを託して呼びかける。
「父上。貴方の息子のシャオチンロンです。どうか僕を宮殿に戻して下さい」
「息子? 私の息子なんぞおらん。早くこの者殺してしまえ!!」
全てを否定され、泣きながら僕は駆け付けた衛兵達の隙間を縫い逃げだす。まだ五、六歳の体だが、龍族の身体能力に人間が着いては来れないので、何とか逃げ切り小屋に戻る事が出来た。
顔を赤黒くさせた母は、僕が戻ると嬉しそうに抱きしめるが、突き飛ばし粗末な寝台に潜り込み泣き続けた。もう僕には、このみすぼらしい母しかいないのかと思うと惨めで堪らなくなる。
その夜に、年老いた龍族のタンチェンロンが訪れ僕を嗜める。
「シャオチンロン様。もう王宮に来ては成りません。今回は何とか命が助かりましたが、次は命の保証は出来ません。私にもっと力が有ればよいのですが…これがぐらいしかできないのです。生きていれば何時か貴方様の時代が来るのですから、此処は辛抱するのです」
それだけ言い、幾らかの金子と食料を置いて行ってくれた。
後から知ったのだが、タンチェンロンは僕の命乞いをする為に全財産と地位を強欲な父上に返上していたのだ。
そんな事情も知らない僕は諦めきれず、嘗て僕に頭を下げていた龍族の重臣たちに助けを求めたが、殆どの者が蔑むような目で見やり、酷い言葉を浴びせ暴行を加える者までいた。
多くの者は、大人しくしているよう忠告してくれたが、それだけで何もしてくれなず、タンチェンロンだけが僕たち親子を細々と助けてくれたのだった。
母は、そんな僕を静かに見守り、怪我をすれば手当てをしてくれ、熱を出せばつききりで看病してくれた…食事も僕には市場で買った物を調理してくれたが、自分は相変わらず宮殿から残飯を貰ってくるようだった。家事の全てをする母は、手も次第にあれ髪も結わずに後ろで結ぶだけ。辛い筈なのに何時もニコニコ笑っていた。
「こんな生活で何で笑ってるんだ。お前のせいで僕はこんな惨めな生活を強いられてるんだ!」
僕の不条理な言葉に、母は悲しそうな顔をしなが言う。
「申し訳ありませんシャオチンロン様。だけど私は貴方様と暮らせて嬉しいのです。生まれた貴方を直ぐに取り上げられ、会う事すら禁じられていました。だけど今はこうして貴方の世話が出来るのが嬉しいのです。独りよがりな幸せでしょうが……」
「お前は馬鹿か! 無理やり犯した男の子など、どうでもいいだろう! 本当は宮殿の奴らが僕を見放した様に、僕なんか捨てて街に出たいと思ってるんだろう!」
ここの生活より街で暮らした方が楽に決まっていた。しかも母は人間では美しい方で、幾らでも相手を見付けて結婚するのは簡単だったはず。僕のような我儘な子供の世話など面倒に違いなかった。
何時の間にか泣いてしまった僕をやさしく抱きしめる母。
「漸く戻って来てくれた我が子を、如何して捨てられましょう……どうか私を許して、お側に使えさせて下さい」
母の懐に抱きしめられ、初めて祖父以外の心の温かさを知った。宮殿ではチヤホヤされ上辺だけの優しさと微笑みにしか知らなかったのだと知った時だった。本当は少し前から、この人を母親と認めていて母上と呼び甘えたかったのに、変な自尊心が邪魔して呼べなかった。
だけど今なら呼べそうな気がして、母の胸に顔を埋め勇気を振り絞り声を出す。
「母上……ゴメン……ごめんなさい……ヒック…うひぇーんん…」
その時の母の顔は見れなかったが、かなり驚いた様子だったろう。
「私を母と呼んでくれるのですか……」
母は僕を強く抱きし二人で泣いたのだった。それからは僕も素直になり、苦しい生活は相変わらずだが、思いっきり母に甘えるようになった。結局僕は傲慢な龍族の何も出来ない子供だった――父親と同じで人間は龍族がいなければ何も出来ないと馬鹿にしていた。でも役立たずは僕だった。
僕はただの子供なのだと自覚した。
それから親子二人の生活は、何時しか宮殿の生活より幸せを感じるようになっていた。
しかし十数年が経ち、突然王宮から呼ばれ衛兵に連れて来られた部屋には、あの祖母が待ち構えており、親子ともども酷い暴行を受ける。
「汚らわしい親子め!息子に世継が出来れば、お前など直ぐにでも殺してやるのに!忌々しい!!」
どうやら、邪魔な僕が殺されず宮殿内に留められている本当の理由を知る。州知事は基本世襲制であり、よほど傑出した龍族が現れるか、大罪を犯さない限り地位は引き継がれた。人間の血を引く僕に州知事を継がせるのは嫌だが、他の龍族に州知事の座を渡すのも許せないらしい。自分の血筋に固執する龍族は多かった。
そして祖母は自分の正統な血を引く龍族が生まれない不満を僕にぶつけていたのだ。一通り気が済むと宮殿からゴミの同然に放り出された。
既に十歳の体格になった僕は、それなりの体力も付き折檻にも耐えれるが、人間のしかも女の母は、立つ事も出来なくなり酷いありさまだ。僕は泣きながら母を背負い小屋に帰る道すがら、母の軽さに愕然としてしまう。母を守るのは僕しかいないんだと母を守る決心をする。
それ以来、年に数度こんな事が行われ、時には嘗て優しくしてくれた龍族の大人も加わり、面白そうに僕を嬲った。そんな中でも、なるべく母を庇うようにし酷い怪我は負わせないように気を付けた。神力もそれなり扱えるようになった僕は、母を治癒する事も出来るようになって来たが、年々年老いて行く母の老いは止められなかった。
――徐州は変わってしまった。
宮殿には父に従う者だけが残り、人間に対し特に女性を玩具のように扱われていた。敷地内には放置された嬲り殺された酷い死体をよく目にするようになり、常に血と酒の匂いが漂っている……子供ながら徐州がどうなって行くか心配になるが、今の僕は何もできない子供のままだ。だが百歳に成人の儀で僕は龍に転神して、王都に向かい龍王様に謁見し、この窮状を訴えようと思うようになった。
その為にも、僕は独学で勉強する為に、コッソリ宮殿の書庫に忍び込み本を読み漁る。こんな時に、祖父が叩きこんだ学習の基礎が役立ち、祖父に改めて感謝したのだった。
母は年々年老いて行き、もう老婆と言っても過言では無く、僕は相変わらず十歳のまま。こんな時に、龍族と人間の残酷な差を知ってしまう。僕が成人するまでに母は生きていない事実が悲しく、親孝行が出来ないのを謝ると母は相変わらず抱きしめてくれる。
「貴方をこうやって抱きしめられれば幸せよ」
しわがれてしまった声で囁く母に胸が一杯になる。
「僕も幸せです」
そうやって何とか静かに暮らしていたある夜、宮殿の外を掛け回る兵士達で煩いと思っていると、慌ててやって来る兵士達に無理やり連れ出され、王宮の大広間に母と連れて行かれる。そこには、多くの家臣が平伏して、数十年ぶりに見る父上が青い顔で右往左往していた。
そして祖母も顔を真っ青にし、僕を見ると睨みつけ言い付ける。
「漸くお前が役に立つ時が来たのです。父の代わりに、お前が罪をかぶり龍王陛下に討たれなさい」
訳のわからない事を言い始めるが、直ぐに龍王陛下がいらしゃるという伝令が来ると、龍族全ても跪いたので慌てて僕も跪くのだった。
――そして全てが変わってしまった。
僕の目の前で父と祖母、僕を苛めた龍族達が一瞬で死んでしまうなど、誰が考えただろう……。
血を分けた父と祖母を同時に亡くしても悲しくはなかった。それよりこれで母を楽にしてあげる方の喜びが大きかった。
僕の命を救ってくれたフェンロン様は、最初はふざけた感じで胡散臭い龍族と感じたが、このお方のお蔭で命を救われ、龍王陛下から直に臣下に加えられる栄誉まで受け、生涯掛けこの恩を返そうと心に誓った。
勿論龍王陛下にも。
噂にたがわず美しく、凄まじい神力を持つ龍王陛下は、公明正大な立派な龍王。こんな素晴らしいお方に仕えられるなど龍族に生まれた事を誇らしく思った。
今はフェンロン様につき従い、州知事になる為の勉強をしている。
でも時たま切なそうに僕の髪を触るフェンロン様。理由を聞くと王都に残してきた恋人が僕と同じ銀色の髪をしているそうだ。
僕にとっての大事な女性は、母上なので恋愛は良く分からない。でもこの髪で慰められるならと好きなだけ触って貰っているが、時たまフェンロン様が本当の父親の様に感じられ僕も嬉しい。
でも、フェンロン様が時々父上の様に侍女とコッソリ遊んでいるのを知っている……龍族の男性は不誠実な男が多いのだろうか?
僕はこの点だけは真似せず、一人の女性だけを愛するんだと心に誓う。
母の様な女性を作らない為にも……。
そして立派な州知事になれるよう日々精進するのだった。




