藍
初夏の涼やかな夜風が海から流れ込む松林の中を、数人の少年たちが走り抜けていた。
先頭の少年の顔は必死で、その数メートル後ろを5人の少年たちが追いかけていた。
はぁー、はぁー、はぁー、と荒々しい呼吸を繰り返す少年は、今にも苦しくて倒れそうだが、それでも走るのを止められず懸命に松林を走り続ける。
後方からは、そんな少年を追い立てるように同級生たちの喚き声が追って来た。
「藍!! お前みたいな薄野呂が逃げ切れるわけないだろ」
「そうそう、大人しく俺らのサンドバックしてれば良いんだよ!」
「馬鹿が逃げんじゃねえよ~」
「藍ちゃん出ておいでー」
藍は猟犬に追い詰められるウサギのように我武者羅に林を走り進むが、徐々に迫る声の恐怖で足がもつれてスピードが落ちてしまう。このまま追い付かれて捕まれば、酷い目に合うのが分かり切っているので必死に逃げるしかなかった。
(どうしよ……、逃げ切れない……。 やっぱり、サマーキャンプなんか来なければ良かった……)
藍は走りながら思うのは後悔ばかりだった。
藍がこんな状況に追い込まれたのは一人の同級生の一方的な想いから始まる。
水城藍は17歳のごく普通の高校生だったが、高校2年の春になった途端、クラスメートの不良グループの虐めの標的になってしまた。
藍の身長は170㎝で平均だが、男子にしては筋肉の無い薄ぺらな体に色白な肌、顔は地味ではあるが整っている。サラサラの黒髪は清潔感にあふれ時折見せる柔らかい微笑みは、男女共に好感を持たれ嫌われる要素は少なかった。
そんな少年が何故目を付けられてしまったのかクラスメート達も不思議がる。何よりも、藍より標的にされそうな少年がいたのに、実際苛められたのは藍だった。
始まりは藍が新しいクラスに慣れた頃、仲の良い友達と話していると強い視線を感じ、何気なくフッと顔を向ける。そこには、制服を着崩し髪を明るく染めた集団がおり、その中でも背が高く大柄で目立つリーダ格の大沢と視線がかち合ってしまう。
その瞬間、大沢が鋭い目つきで見返して来たので、藍は思わず怖くて思いっきり顔を反らしてしまった。次の瞬間、ガッタン! と机が蹴られた音と共に大沢が出て行ってしまったのだ。
クラス中が驚き静まり返り藍もビックリしたが、その時はまさか自分の行動の所為だとは思わなかった。
それ以来、事あるごとに藍は大沢たちに絡まれるようになる。
最初は、からかわれる程度が徐々にエスカレートし、最近では集団で暴行を受けるようになってしまった。今では制服の下は赤黒い痣が消えずに残り、周囲にばれない様に夏だというのにカーディガンを羽織って痣を隠す始末だ。
その上、最近大沢の態度がおかしかった。
殴るのは何時も仲間にさせて、それを眺めるだけの大沢だった。だが暴行が終わると無言で優しく立たせてくれたりする様になり、性的な意味合いを含んだような手付きで藍の服の上を撫でまわした。最初は気のせいかと思ったが、先日、大沢は耳元に顔を寄せて周囲に聞こえない様に囁く。
「俺の物になるららイジメを止めてやる。どうする?」
藍は手下になれと言う事かと思ったが、大沢が更に「俺の女になれ」と誰にも聞えないように囁いた。
女と言われ漸く自分を性的対象として見られているのに気付きゾッとした藍は、慌てて首を横に振るしかない。
「選ぶのはお前の自由だ」
拒否されても気にする風でも無く、大沢は踵を返し離れるが「何時までもつかな」そう言い捨て仲間と去って行った。それからは大沢のグループから逃げ回り、なんとか1学期は乗り切ったが、夏休みの初めには学校のサマーキャンプがあった。
大沢に目を付けられたせいで藍は友達に倦厭され、多額の寄付金を納入している大沢の行為に対し教師も見て見ぬふりの状態。誰も大沢たちを諌めないのでは、無事にキャンプを終えるのは不可能な状況だった。
きっと何かされると確信があった藍は両親にいじめを打ち明ける決心をする。
休日の朝に珍しく両親が揃っていたので、勇気ほ振り絞って学校でいじめにあっている事を話し、不参加を訴えたのだが予想以上に反対されてしまった。
「虐めぐらいで学校の行事を疎かにするな! そんな事で社会に出てもやっていけない。男なら自分で対処する力をつけなさい!」
父親の叱責を受けた藍は、助けを求めように母親を見る。
「お父さんの言う通りにしなさい、藍」
母親は父親に同意し面倒くさそうに言い捨てる。
「はい……」
大人しい藍はそれ以上は親に逆らえず、そう返事するしか無かった。
両親は会社経営をしており、休日も無く仕事に打ち込み、あまり子供に関心を持たないタイプの親。子どもに対する愛情を示さずに、親としての最低限の義務とお金だけを与えた。だが世間体は気にしており、藍には自分の子供としての義務を厳しく求める。だから虐めで学校を辞めたりサボるのを許すはずも無かったのだ。
こんな両親を持った藍だが、横道に逸れる事も無く素直な優しい子供に成長したのは奇跡と言える。しかも何不自由無く生活出来るのは両親のお蔭であると感謝こそすれ、恨む気も無い少年だった。そんな藍だから仮病を装ったり、キャンプをサボり、貰いすぎている小遣いで何処かに泊まるという発想も無い生真面目さ。藍は泣く泣く親の言う通りにキャンプに参加したのだった。
キャンプ当日、大沢のグループの不参加を期待したが、バスに乗り込む大沢達を見た時は目の前が真っ暗になってしまう。バスに震える足で乗り込み最前列の方に座ったが、最後尾席に陣取る大沢の鋭い視線を感じ、バスから降りて逃げ出してしまいたいのを我慢するしかなかった。
藍は、なるべく大勢の傍に居て、一人になら無いように気を付けるしかなと、体を震わせながら自分自身に言い聞かせた。
バスで3時間のキャンプ場は海の近くで、海水浴場も併設された人気の場所。一般客の学生や家族連れも大勢混じっており、監視員やキャンプの管理スタッフもそろっていた。
いざという時は、助けを求めれば大丈夫そうだと胸を撫で下ろす。しかもバスから降りた途端に、大沢達は何処へ消えてしまい夕食にも顔を出さなかった。その所為か夜のキャンプファイヤーでは、以前の友達と話をしたり楽しい時間を過ごせた事もあり、藍はすっかり浮かれ油断してしまう。
そろそろ終わりを迎えるキャンプファイヤーを取り囲む人の輪の後ろの方で、ぼんやりと一人で座り込んでいると、後ろの林の方からガサリという音と共に後ろから口を手で塞がれ、そのまま体を抱え込まれると林の中に引きずり込まれてしまう。
「うっ!!? 」
その手からタバコの匂いが鼻孔につき、相手が大沢だと直ぐに気が付く。そのまま藍は、大沢に対する恐怖で体が強張り抵抗が出来ないまま松林の奥深くに連れ込まれた。そしてキャンプ場から離れた空き地にドンっと地面に叩きつけられた。
「うっ…痛…」
藍が苦痛で歪めた顔を上げると、上空から降り注ぐ満月の明かりの中に、何時ものメンバーがニタニタと嫌な笑いを浮かべ取り囲んでいたが、真ん中の大沢だけがギラギラとした目で睨みつけていて血の気が引く。
「藍、今日は徹底的に可愛がってやる。抵抗しなければ優しくしてやるがどうする?」
大沢の一言で、藍は何をされるのか悟ってしまう。男同士がどこを使うか性的知識の低い藍でも知っており、絶対に受け入れられない行為。
「いっ、嫌だ!!」
藍は手が砂を掴んでいるのに気付き、咄嗟に砂を大沢達に向けて投げつけた。
「うわあ!!眼に砂が!!」
「っくそ!痛い」
全員が目に砂が入り怯んだ隙に、藍は直ぐに立ち上がり必死に走り出すが、動転していたせいでキャンプ場とは逆の方向に走っているのに気付けなかった。
どんどん人気のないい場所に逃げ込んでしまているのに途中で気が付いたが、後から迫って来る大沢達を振り切る為に走り続けるしかない。無我夢中で走る藍は更に迫る前方の危機に気付かずにいた。松林を抜けた先は海――しかも10mもの切っ立た崖だと言う事を失念していたのだ。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!)
頭の中はただひたすら、真っ直ぐ松林を突き抜ける事しか藍は考えれなかった。
はぁー、はぁー、はぁー、と息を切らし藍の心臓も呼吸も滅茶苦茶で体が悲鳴をあげて限界が近い。そしてタイミング悪く月が雲に隠れてしまい辺りは闇が深まり、松林が切れかかった場所が崖なのに気が付かないまま踏み込んでしまった。
その途端に、足が地面につく感触が無いのに藍は驚く。
(えっ!!)
そのまま体が前方の真っ暗な闇底に落ちていくのを感じる。
(落ちてる??)
全力で走っていたため呼吸が乱れた状態では、悲鳴すら発せられず只落ちていくしか無い。
バッシャーーン! と言う衝撃。次に感じたのは全身を打ち抜かれる痛みで、息が止まる。
(なっ、何⁉)
体が水に濡れる冷たい感覚が襲い、海に落ちた事を理解した藍は、咄嗟に口に手をやり目を開けると真っ暗な空間しかなかった。
(どうしよう!早く水面に上がらなきゃ!!)
だが周囲は真っ暗で、自分が沈んでいるのか、浮上しているのか方向感覚が全くつかめない状態。
ゴッボ、ゴッボッボ……ゴッボ……と息が口を押える指の隙間から漏れて行く。
(苦しい…)
息が続かず口から徐々に息が漏れていくのを止めれなかった。
(このまま死ぬんだろうか…)
最後の空気を吐き出し酸欠で混乱した頭が反対に落ち着いていく。とうとう苦しくて口を開けると水が押し入って来るのを感じながら、目には真っ暗な映像しか映らない中で突然金色の光が見えた。
(?)
朦朧とする意識のままボーっと見つめていると金の光は近づいて来る。
(なんだろう……綺麗……)
意識が消え入りそうになりながら、藍は藁をも掴む想いで必死に手を伸ばすと何かが手に当たる。必死にそれを掴むと同時に真っ暗な海中の中に溶け込むように、その華奢な体は忽然と消えるのだった。
夜の海中を一頭のイルカが泳いでいる。
背びれに金の指環を引っ掛けたまま群れから逸れたイルカは、何かに操られたように陸の方向へ一心不乱に泳いでいた。すると遠くで何かが落ちた音を感じ、惹かれるようにスピードを上げて泳いで行く。
(クゥーィ??)
人間が海底に沈んでくのが見えると、イルカは慌てて近づき助けようと動き出す。
水面に押し上げようと人間の体の下に潜り込もうとするが、人間が少し腕を動かして背びれに触れたと感じた瞬間、人間の存在が消えうせる。
(??)
イルカは辺りを伺うように何度も旋回するが人間を確認する事ができず、その内になぜ自分は群れを離れこんな処にいるのか判らなくなった。
(?)
さっきまでの自分の不可解な行動と人間の事はすっかりと忘れ、イルカは仲間の群れに戻るべく沖に向かい泳ぎ始めるのだった。
――そして藍という少年は、この世界から金の指環と共に消えてしまった。