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青龍国物語  作者: 瑞佳
第一部 「龍王の伴侶」
15/38

もう一匹の家族

 藍はユンロンへ手紙を書くために字の練習を始めるのだったが、字の上達はあまり芳しくない――なにしろ三、四日寝て一日起きているという周期の繰り返しで一向に進んでいなかった。


 しかも藍としては一刻も早く字を憶えたいのだが、オウロンが家の中ばかりで健康に悪いからと剣の稽古が今日から始まってしまった。しかも初めての練習で、いきなり本物の剣を持たされた時の藍は、重い剣を持つだけで精一杯の状況で、素振りなんてとんでもない事。一振りだけでも肩が抜けそうだった。


 「アオイ、本気でやっておるのか……」


 藍のへろへろの剣の振りを見たオウロンは唖然として呟いた。


 「うっ……本気」


 剣の刃はつぶされているが、本物の鉄で造られており軽く5kg以上はある代物。だがそれは子供用で細身の物だ。一方オウロンの剣は三倍はある大剣で、それを軽々と振りながら美しい型を藍に披露していた。

 

 「木で造った剣なら振れると思うんだけど……」


 剣道のような竹で作った竹刀か木刀なら数十回は振る自信が藍にはあるが、いきなり鉄の剣は無理だと訴える。


 「そうか……」


 オウロンはガッカりと肩を落とす。藍の剣の振りを見る限りこのままでは体を鍛えるどころか、反対に体を壊してしまうのは明らかだ。これは基礎体力から始めるしかないと考え直すしかなかった。


 「今日は無理だから、字の勉強をしようよ」

 「そううするかの……」


 諦めざるを得ないオウロンは仕方なさそうに答える。武人だったので藍にもう少し男らしくさせたかったが、人には向き不向きがあるのは二人の息子で理解していた。どうやら藍は次男のサンジュンロンと似通っているのを感じた。


 「それじゃー僕は字の練習の用意をしておくよ」

 「わしは少し汗を流してから行くから、前回の字の練習をしててくれ」

 「はーい」


 喜び勇んで家に戻って行く藍をやれやれと見送るとオウロンは剣を振り回し始め、久しぶりに剣の鍛錬に励んだ。その剣さばきはとても老人のモノとは思えず鋭い。かつてはフェンロンの副官を務めたほどだったが、人間のモンと婚姻を結んだために、半分近くの命が削られてしまい老いも早かった。軍に入った当時はフェンロンより若かったが、今ではフェンロンは変わらない若さを保っているが、オウロンの方が逆転し」老人になってしまっている。これが命の重さの差であった。

 しかしオウロンに後悔の念は無い。

 ただ今は藍の事が気懸りで少しでも長く生きたいと願を掛けながら剣を振るった。





 藍が一足先に家に入り居間に行くと掃除をしていたモンが少し驚いた顔をする。


 「早かったのね?」

 「やっぱり、字の練習する事にしたんだ」

 「そうなの?」


 優しいモンは、それ以上突っ込まないでおいた。夫が藍に剣を教えるのをはりきっていたのを知っていたので、大体何があったか予想は出来てしまう。そして藍の字の練習の邪魔をしないよう居間の掃除を諦めて、そっと台所に行って昼食の下ごしらえをする事にした。

 藍は、いそいそと手本、筆と紙を棚から取り出し用意する。早く字を覚えてユンロンに手紙を書けるようになるのが今一番の楽しみだった。

 それから一人でオウロンが書いてくれた手本の字を書き写し練習する。日本語と違い母音と子音も多いが漢字やひらがな、カタカナが無いから覚えるのは楽だけど一つ大きな問題があった。


 ――発音が良く分からないのだ。


 藍にしたら全部日本語に聞こえてしまい酷く混乱してしまう。微妙に違う発音する文字が幾つもあり、何度聞いてもそれらがが同じに聞こえてしまい厄介だ。字を覚えるなら初めから言葉が通じない方が理解出来て早かった気がした。言葉が通じるのが指環のお陰だと知って初めて感謝したけど今はそれが障害になって、やっぱり迷惑な指環だと思ってしまう藍――だが指環に文句を言っても仕方が無かった。


 この際発音は無視して単語で字を覚えて行くしか無い藍は手本の横に日本語を書いて自分用の辞書を作っていく。それを見ながら何度も字を書き練習に励んでいた。


 「がんばっとるな~アオイ」


 懸命に文字を写していると一汗かいてお風呂に入ったオウロンがやって来る。


 「なかなか難しいかも」


 この世界には鉛筆やペンが無く全て筆を使う為にその段階で悪戦苦闘は否めない。書き間違いが許されず、その上に筆を使い慣れていないので手やテーブルは墨だらけになってしまう。藍はつくづく鉛筆が欲しいと切実に思ってしまった。


 「それじゃあ新しい言葉を書くから、写して行くんじゃ」

 「はい」


 藍は筆を改めて持ち直して集中して字を書いて行く。学校の勉強でもこれ程真剣にしなかったかもしれない。それから昼食をとってから午後からも一人で字の練習をしオウロンは露天風呂の屋根取り付けに勤しんだ。そして何時の間にか日が傾き始めるとオウロンが居間に戻って来る。


 「熱心じゃな藍。だが今日はこれまで。手を洗ってこい」

 「はーい」


 もう少し練習したかった藍だったが、オウロンに言われ仕方なく紙や筆などを片付けてから台所に行く。


 「アオイ、夕飯の支度を手伝って」


 モンが声を掛けて来る。

 藍は最近は少しづつ家事の手伝いを始めていた。何時までもお客様のように何もしないのは嫌で、オウロンの手伝いは体力的に難しいが、モンの家事の手伝いは結構楽しい。


 「うん。分かった」


 台所の水場のポンプを漕ぐと勢いよく水が出てきて最初に手を洗うと真黒な水が流れ落ちていく。


 「あらあら、相変わらず真黒ね。手が洗い終わったらこちの野菜を洗ってね」

 「いいよ」


 渡された野菜を藍は次々と洗っていくが地球の野菜に似ている気がした。考えてみれば、元の世界では調理された物しか見ななかったので、この世界との野菜の違いが分からないのだ。それなりにお坊ちゃまだった藍はスーパーなど入った事も無い。そもそも母親がキッチンで料理している姿など見た事が無く、お手伝いさんが作って置いた料理を温めて一人で食べる毎日。食べる事に余り興味も無く野菜など教科書の写真なので見たり、家庭科の調理実習で数度触ったぐらいだった。

 今洗っているのはイモの様なゴロゴロした物である。


 「これは何にするの?」

 「これはテンと言うイモで、皮を剥いてから千切りにしてお肉と炒めると美味しいのよ、剥いてみる?」

 「やってみる」


 最初の頃は怖々とした危ない手付きだった包丁さばきも少し慣れて来たところで、漸く皮の厚さを薄く剥けるようになった。最近では結構料理を面白く感じ、向こうでも少しやっておけばと後悔している。そうすれば向こうの料理を二人にも御馳走出来たのにと思ってしまった。調理したモノしか知らない藍には、材料に何が使われていたか想像できないのだ。


 (僕にでも出来る物はないかな?)


 皮を剥きながらそんな事を考えているとフッとオニギリが頭に浮かぶ。


 「おばあちゃん、此処にはお米って無いの?」

 「オコメ?」

 「雑穀の仲間で白い粒々でお水と炊くとふっくらして甘いんだ」

 「うーん……もう少し分かり易く教えて」


 しどろもどろになりながらお米について何とかイメージを伝えるとモンは考え込む。藍は、この世界は中国に似ており、お米がありそうな気がした。だが今まで食卓にのぼった事は無いので無いのかもしれない。此処で出される穀類はどれもパサパサで、小麦粉を使った料理が多く、お米のしっとりさと粘りもある食感が恋しかった。


 「それに似たような物を白虎国の国境近くにある州に、旅行に行った時食べた事があるわ。確かミイルとか言ってかしら…」

 「それって注文しても良いかな?」

 「大丈夫だと思うけど、他に欲しい物は無いの?何でも頼めるんだから」


 モンは、初めて欲しいものを言われて嬉しかったが、もっと贅沢な品を言って欲しかった。


 「別に無いよ」


 藍にすれば生活に不自由はしていないので不満は無い。最初は電化製品の無い生活で戸惑ったが、慣れれば何でも無かった。だが、これも二人が色々してくれるからであって自分一人だったら苦労したのは十分理解し、感謝していた。これ以上望むのは贅沢とさえ思っていた。


 「藍は無欲ね」


 モンはふっふっと笑うが、オウロンはお酒、モンはお茶意外の贅沢をしていのを藍は知っている。しかも裏庭には畑を作り何時の間にか作物を植えて育て、家の修繕や露天風呂に屋根を自ら建てるなど、人生をリタイヤした人間が長閑な田舎暮らしを楽しむ庶民のような生活。てっきり龍族は貴族のような優雅な暮らしをしていると考えていた藍は意外。すぐにその疑問を訊いてみると、龍族の中でオウロン達が特殊な存在らしく「私達は王都でも変わり者で有名だったのよ」と笑ってモンが教えてくれた。

 

 次に藍は肉団子を丸めてモンが油で揚げているとオウロンが匂いで誘われたのか台所を覗きに来る。


 「おっ、良いにおいだな~わしの好物の肉団子か!、酒はアレにしてくれ」

 「はい、はい、分かってます」


 二人の側に来ると油で揚げている肉団子を一つつまんで口に放り込んでしまう。


 「あなた、つまみ食いなんて行儀が悪いですよ。もうすぐ出来ますから待ってて下さいな」

 「おじいちゃんだけずるいよ」


 不満そうに藍が言うと


 「なに~アオイも食べたいのか?」


 そう言うと手に挽肉が付いた藍の代わりにオウロンは揚げたての肉団子を摘まんで口元に持って来るので、藍はパクリと食べると熱い肉汁がジュワっと口に広がり火傷するかと思うほどだったが、とても美味しかった。


 「アオイまでなんですか」


 呆れたように言うがモンの目は優しい。


 「ごめん。でもとっても美味しいよ」


 初めてするつまみ食いだが、藍は食べる事が楽しいなんて思いもよらなかった。家族になってくれた二人のお陰で何時の間にか、この閉じられた小さな世界に馴染んで本当の家族と暮らしているのに幸せを感じた。そして、むしろ前の世界の方が孤独で味気無かった……両親とはまるで同居する他人の様で、迷惑を掛けないよう良い子でいようとした藍は、自分を抑えていたせいか、友達ともそれほど深い付き合いが出来なかったように思う。


 ――藍は今さらながら戻りたいとは思っていないのに気付く。


 両親も自分など忘れ、それぞれの道を進んでいる気がし、自分の戻るべき場所は向こうには既に無いのをなんとなく感じられる。

 ここに閉じ込められる時は帰りたいと思ったが今は嘘のようで、変な話ではあるが、このオウロン達と暮らす家が僕の居場所だと思うようになっていた。


 (だけど…それがほんの一時なのを僕は知っている……)


 「どうしたのアオイ? さあこのお皿を持って行って」

 「うん。今夜は何だかお腹が空いたから一杯食べれそう」


 藍はニコニコ笑ってお皿を受け取る。


 「あらあら。今晩の藍のお皿には沢山入れなきゃね」

 「え……が、がんばるよ」


 どうか一日でも長くこの幸せが続くのを心の底から願うのだった。





  藍が字と剣を習い初めて六ヶ月になるり、字はそれなり書けるようにはなって来たが、剣の方はからっきしで、才能が無いとしか言えない有様。だがオウロンは体の鍛錬は必要だと自ら木材を削って木刀を作った。始めは素振りを数十回でばてていたが、今ではオウロン相手に打ち込みをしていた。

 打ち込みと言ってもオウロンが構える木刀に藍の木刀を打ち込む一方的なモノで、他人が見れば遊んでいるようにしか見えなかった。

 だが藍にとっては真剣でしかない。


 「こら!アオイ、もっとちゃんと腰を据えろ」


 藍にしたら力一杯打ち込んでも、オウロンにはハエが止まったくらいにしか感じられず激を飛ばす。既に50回は打ち込んで汗だくの藍はへろへろと力尽きて地面に座り込んでしまった。


 「おじいちゃん、今日はもう許して……」

 「う~む……仕方無いの」


 オウロンは渋々許す。これが軍にいた頃なら弱音を吐く部下に凄まじい怒号を浴びせて、更なる訓練を課すところだが、孫に等しい藍には大甘だった。これまで文化部だった藍にしたら、かなりのスパルタで、体育の授業を三限も連続でしているかのような汗と疲労感だが、藍は急いで立ち上がりお辞儀をする。


 「ありがとう御座いました」


 オウロンの気が変わらない内にと急いで礼をしてお風呂に向う。露天風呂には立派な屋根が付けられ、青い釉薬が塗られた瓦が敷かれて立派な物で本職の大工の仕上がり。しかもちゃんとした脱衣所も建てられ、壁には格子に組まれた木が目隠しとして作られて凝っていた。衣服を置いておく棚や体を拭く布を掛ける場所もあり中々のもだ。

 藍は汗の付いた服をスルスルと脱ぎ捨てる。全裸になると以前に比べ筋肉の付いた細っりとした体が露わとなる。初めの頃は屋外で脱ぐなど抵抗があって一々顔を赤らめていたが今では平然と湯に入る。温めの湯は運動の後は格別で、ゆったりと四肢を伸ばしてから腕の筋肉を見てみる。

 以前に比べ筋肉が付き確りしてきたと思っていた藍だが、この間かねてからの約束通り、オウロンと初めて温泉に入った。だがオウロンは予想以上に細い体を見てショックを受けたらしく、それ以来食事のたびにモット食べろと煩くなってホトホト困っていた。

 藍としては、やせ気味から普通になったと思っていた。しかしオウロンの老人とは思えない筋肉隆々の体を見て、確かに子供と大人ほど体つきが違うのを自覚させられる。


 「もう少し太らないと駄目なのかな?」


 自分では大丈夫だと思い、オウロンをお風呂に誘ったのだが藪蛇になってしまった。


 (また何時か一緒に入れたら良いんだけど…)


 藍がそう考えているとポチャリと誰かが温泉に入る気配がして、音の方に顔を向けると湯けむりの中に一つの小さな影を見付けた。


 「あ……また来たんだ」


 前回目覚めた時、四日前にも藍が温泉に入っていると、怪我をした子猿を連れた母猿が浸かりに来ていた。どうやら、この温泉は森の動物達が怪我や病気を治す湯治場の役割をしているらしく、時折怪我をした動物が時々やって来る。

 しかも此処の動物達は恐らく人間を知らないのか全く恐れず、藍がお風呂に入っていても平気で入って来る。やってくる動物は草食系で、時折は山猫のような中型の捕食獣が入って来るが、藍に危害を加える様子も無く気持ちよさそうに湯に浸かり帰って行った。

 この家の周りに貼ってある結界は、危険な力や、悪意のある獣や妖獣などは入って来れないが、小動物や昆虫など害の無い物は入れる仕組みらしい。


 ――だが藍は外には出れない。


 藍は最近になってやっと結界の存在を知った。

 切っ掛けは、オウロンに妖獣の森は危険だから出るなと言われていたが、風呂上りに耳が長い猫のような小動物が森に帰って行くのを少し興味本位で追いかけようと森に足を一歩踏み出してみた。


 『あれ?』


 森に出る筈が何故か敷地の中に戻っている。何度しても同じで森には出れず回れ右をする様に敷地にでてしまい、いい加減諦めた。

 藍は、この不思議な現象を怒られる覚悟でオウロンに訊いてみるしかなかった。そして知ったのが龍王によって張られた結界の存在だった。


 『陛下が貼られた結界は、わしにも破る事が出来ん。言い出せなんだがわしらはこの狭い結界だけでしか生活出来ないんじゃ』


 オウロンは申し訳なさそうに答えた。


 『そっか……分かったよ』


 藍はニッコリと答える事しか出来なかった。内心は、そこまで念入りに、ここに閉じ込めて自分の存在を消したいのかと怒りが湧いた。それと同時に、一緒に閉じ込められている二人の事を考えると、やるせなく何も言えなかった。

 二人が居なくなった時には妖獣の森に出て死ぬ気で行けば、外に出れるかもと考えていた甘い考えは、無残に打ち砕かれてしまったのだ。


 (ユンロンさんに一目会いに行けたらと思っていたのに……)


 ここに来てからの何度目かの絶望感に打ちのめされるが、今更だと諦めてしまった。


 (結界なんて酷いよ……)


 藍は、この猿の親子のように結界を自由に行き来出来たらと羨ましく見ていると、子猿の様子がおかしいのに気が付く。前回は母猿にしがみ付いていたが、今はぐったりとしてピクリとも動かず、まるで死んでいるかのようだ。


 「大丈夫?」


 少し心配になって声を掛ける藍を母猿は威嚇するように「キーーッ」と声を上げる。


 「何もしないから、傷を見してくれないかい」


 今までは驚かせないように声を掛けた事は無かったが、今回は仕方がない。成るべく優しく問いかけながら近づいてみる。

 母猿は小猿を隠すように抱き込みながら、しばらく藍の顔をジッと見詰める。


 「大丈夫、僕を信じて」


 すると言葉を理解しているかのように、抱きかかえる子猿をそっと僕の前に差し出す。


 「!!」


 間近で見る子猿の二の腕には酷い傷があり既に壊疽していた。しかも子猿はかろうじて息をしていて可なり衰弱している。


 「駄目だよ、こんなに弱ってたら温泉は良くない」


 藍は急いで湯から上げようと子猿に手を掛けようとすると母猿が怒り、抱きかかえ温泉がら飛び去って岩に乗る。藍はどうして良いのか途方にくれるが、このままでは子猿が死んでしまう。無駄かもしれないが母猿に話しかけてみる。


 「このままじゃ子供は死んじゃうよ。お願いだから僕に傷の手当てをさせて……」


 母猿は悲しげに「キィー! ウゥーッ」と唸りながら子猿を抱きしめる。


 「僕を信じて」


 藍が子猿を治療して治るかなんて分からないが、このままでは死を待つばかりだ。必死な呼びかけが功を奏したのか母猿は子猿をジーッと見つめると、諦めたかのようにオズオズと子猿を藍に差し出してくれるのだった。


 「ありがとう」


 藍は子猿を壊れモノを扱うように手に取る。掌に丁度納まるほど小さな濡れた体を乗せて脱衣場にある布で包み、急いでモンに診せようと駆け出して台所の勝手口に飛び込む。


 「おばあちゃん!傷薬ちょうだい!」

 「あら、あら、どうしたの?」


 モンは包丁で野菜を切るのをやめ振り返ると吃驚した顔をする。


 「アオイ。服はどうしたの??」

 「あっ!」


 お風呂から慌てて来た藍は、自分が素っ裸で此処まで走って来たのにやっと気付き、慌てて前を隠したかった。しかし手には子猿を抱えている為どうしようも無く、恥ずかしさで顔を赤らめるしかない。


 「おばあちゃん!ちょっと、この子見てて!」


 モンに子猿を預け、急いでお風呂に戻り着替える。ついでに母猿が居ないか見渡してみたがいない。


 (どうしたんだろう。森に帰ったのだろうか?)


 台所に戻ると子猿とモンの姿が無いので、居間に続く扉を開けると、子猿をかごの中に布を敷いて入れ、寝かしていてくれた。


 「どう?」

 「あの人を呼ん来てアオイ。私では手に負えないけど、あの人の力なら治せるかも知れない」

 「うん、分かった」


 藍はモンに言われ急いで家の前で今だ素振りをしているオウロンに説明もそこそこに、引っ張りながら居間に連れて行き子猿を見せる。


 「この猿がどうしたんだ?」


 怪訝そうにオウロンが言う。


 「腕に酷い怪我をしてるんだ!おじいちゃん治してあげて」


 しかし、オウロンは酷く渋い顔をして藍を見る。


 「アオイ、この猿は自然の中で生きている動物だ。この猿は弱いから自然に淘汰される命としてあるんだぞ。無暗に人間が助けるべきものでは無い。それに、この傷では、わしの神力をもってしても此処まで壊疽を起していては治せん。もう腕を切り落とすしかない。そうなったら、野生の猿が片腕では生きていくのは難しいぞ」


 諦めろとばかりにそう言う。オウロンの言葉は正論だと分かっている藍だが、目の前にある命を助ける手立てがあるなら見捨てられなかった。


 「でも、この子のお母さんに治してあげるって約束したんだ! お願い……」


 藍の頬に涙がつたう。自分でも泣くなんて卑怯だと思うが、どうしても助けてあげたい。母猿が必死に救おうといた子猿を、なんとかして生かしてやりたかった。


 「アオイ、情けを掛ける事が優しさでは無いぞ。その猿を助けたとしてその子猿が片腕で野生で生きていけると思うか?」


 藍の顔を真剣に見つめるオウロン。


 「思わない……でも助けたい……嫌なんだ!!死なせたくない!!」


  駄々っ子のような藍に、呆れる事無くオウロンは語り続けた。


「もし片腕を落とし助けたとして、アオイがずっと面倒を見たとしても、いずれその子猿が大人になり年老いて約十年ほどで死は訪れる……辛い別れは今より大きいかもしれん」


 オウロンに覚悟があるのかと問われた藍はすぐさま答える。


「それでも良い!!お願い」


 藍はオウロンの胸に綴り必死に懇願した。


 「あなた……」


 見かねたモンが声を掛ける。


 「はぁ~~、どうもお前はアオイに弱いようだ……」

 「あら? あなたもでしょう」


 モンが呆れたように言う。


 「分かった! 分かった! 助けてやるが腕は切り落とすぞ。アオイ、確り見ていなさい」

 「ありがとう! おじいちゃん」


 藍は喜びの余りオウロンに抱きつき、次にモンに抱きつく。


 「ありがとう、おばあちゃん」

 「アオイに抱きしめられるなんて、何度して貰っても年がいも無くドキドキするわ」


 その言葉で藍は人に抱きつくなんて二人が初めてかもしれないと、自分でも恥ずかしくなる。


 「それ、治療するぞ」

 「お願いします」


 藍が見守る中でオウロンは息絶え絶えの子猿の腕を取ると、驚いた事に手刀ですっぱりと何の躊躇いも無く切り落とす。子猿はビクリと体を震わせるだけで、声も出せないほど弱っていた。藍はその様子を見て血の気が引き真っ青になるが最後まで見届ける。

 生々しい傷後から骨が見え、次々と血が流れ出るがおじいちゃんが手を翳すと出血が止まり傷口もふさがり、ピンク色の膜を張るが片腕を失くした姿は、今にも息絶えそうな風情と相成って痛々しく映る。


 「傷の治療は終わったが、かなり体力を奪われているようだ。後はアオイの頑張り次第だぞ」

 「本当にありがとう! おじいちゃん。僕がちゃんと育てる」


 再びオウロンに抱きつくと藍の頭を荒っぽくかき混ぜる。


 「ちゃんと責任と覚悟を持つんだぞ」

 「はい」

 「ところでアオイ、この猿どうしたんだ?」

 「お風呂に入ってると、母猿と入りに来てたんだ」

 「何!? 猿が入って来るのか?」

 「他にも来るよ」


 二人はかなり驚いた様子で、どうやら動物達は藍の時だけに入って来るようで、二人の時は姿を現さないらしく、時々誰もいない露天風呂で見掛けるぐらいだった。


 「それより母猿はどうしたんだ」

 「それが……子猿を僕に渡すと森に帰ったみたいなんだ。明日には子猿に会いに来るかな?」


 この子を引き取りに来たらどうしようかと迷う藍――片腕の子猿では母親にはしがみ付けずに森で生活するのは無理そうだ。どうせなら親子で住めばいいだろうと考えていると「それは無い。母猿は見捨てたんだろ」当然だとばかりにオウロンは言った。

 『見捨てられた』という言葉に藍の胸が痛む……藍も母親から捨てられたも同然の存在。行方不明になった時の母親の清々した様な態度を思い出してしまった。必要無くなった子供など簡単に捨てられるのかと、悲しくなる。


 「子供ってそんなに簡単に捨てられるものなの……」


 藍が低い唸るような声で呟く。


 「そうだな……、猿の世界の掟は厳しいから、あの子猿が怪我をした時点で母親に見捨てられた可能性の方が高い。だが母猿は危険を承知で群れから離れ、此処で治そうとしとったんだろう。しかし自分ではどうにも出来ないと悟り、きっとアオイに託して群れに帰ったんじゃ」


 「森ってそんなに危険なの?」


 藍は森の危険性や過酷さを実際に知らない。妖獣と言う化け物が居るとしか聞いていないので漠然としか分からないのだ。


 「此処には危険な妖獣や獣は入ってこれないが、一歩外に出れば獰猛な妖獣が支配する世界だ。猿などの小動物は群れを作り自衛するしかない。だが手負いの者がいれば、血の匂いで妖獣や肉食獣を呼びよせてしまうんじゃ。正に厄介者だ。しかしその母猿は勇敢にも一匹で此処まで来て、懸命に治そうとしたんだろう。藍に託した時もきっと辛かったに違いない」


 最後に見た母猿は縋るような目で藍に子猿を渡してくれたのを思い出す。


 そしてオウロンの言葉で、好きで手離したのでは無いと素直に思えた。


 「そうか……それなら良いんだ」


 かごの中で弱々しく呼吸する子猿を見ると、寒いのか小刻みに震えているのに気付く。


 藍が急いで抱き上げるとモンが懐に入れたらいいと勧められた。その通りに子猿を服の中に入れ人肌で温める。余りの小ささに抱きつぶしそうで怖い。


 「暫らくそうやって温めているといいわ。果物の果汁を作るから待っていて」

 「うん。有難うおばあちゃん」


 藍は子猿に衝撃が行かないように、そっと椅子に座り、オウロンに妖獣について詳しく聞いてみる。


 「妖獣って、どんな生き物なの」

 「アオイを怖がらせないように、もう少し慣れたら言おうと思ったんだが、ようは醜い姿の化け物――神力に等しい妖力と強い身体能力を持っておる。わしら龍族でさえ、沢山の妖獣に襲われては叶わない相手だ。しかも厄介な事に中にはわし等と同じくらいの知能が高い妖獣もおるんじゃ。姿形はばらばらで共通するのは異様な風態としか言えん。人の姿に近い物もいれば、色々の生き物を掛けあわせたような醜悪な姿もおり、どうやって生まれて来るのかも、その生態も分からんのだ」


 「そんなに強いのに、此処には入れないのはどうして」

 「わしが調べたところ力が強いほど此処の結界は強く働くらしいの。だから力の無い小動物は全くの無力化するんだが、人間ほどの知性や力を持つものが、結界を抜けようとすると拒否される。だが妖獣が入って来れなくとも油断してはならん。もし結界越しに妖獣に遭っても無視するんだぞ。あ奴らは狡賢いから、言葉や、幻影を見せて惑わさせ心を闇に落す場合がある」


 「闇に? どうなってしまうの?」

 「ようは狂い死にするんじゃ。魂を喰っているとも言われておるが詳細は分からん」

 「怖いんだね……」


 丁度モンが戻って来た。その手にはスプーンの入ったお茶碗を持っていた。


 「欲しそうなら飲ましてあげなさい」


 藍に手渡されたお茶碗からは甘い匂いがして搾りたての果汁らしい。


 「ありがとう」


 テーブルの上に置いてから子猿を懐から出してみた。既に震えは止まっていて息ずかいも確りしているようで安心する。恐る恐るスプーンで果汁をすくい口先に持って行くと、鼻をヒクヒクとさせると目を瞑ったまスープ―ンを舐め始めた。

 それを数回繰り返すと目を開け周りを伺い始め「ききゅう~」と悲しそうに母親を呼ぶように暫らく泣くが、力がまだ戻らないのか諦めたのか又目を閉じ眠ってしまったようだ。


 「抱いてい上げた方が安心するわよ」

 「うん」


 藍はそのまま懐に入れ抱いてる事になり、オウロンは畑、モンは台所へ行ってしまい、僕は一人居間で寛いでいた。懐に居る子猿の体温を感じ、藍もホカホカとして温かくなって来る。赤ちゃんってこんな感じなんだろうかと考え、冷たい家庭で育った藍は、何時か誰かと結婚して子供を作り温かい家庭を持つのが夢だったのを思い出す。



 (今の僕には遠い夢になってしまったな……しかも好きな相手は男の人だし)


 その上、その人とは会う事すら出来ない自分の運命を呪いたくなる。


 藍は切ない気持を抱きつつ服の上から子猿をそっと抱きしめる。


 「お前は僕の側にずっといてくれる?」


 もしかしたら母猿が迎えにくるかもしれない――藍とは違い母親に愛されていた存在。


 (だけど僕を迎えに来てくれる人は一人もいない。今は此処が僕の居場所。此処に居るしかないのだ……。死ぬまでずっと……)


 暗い想いが噴き出そうとするが胸の中の温もりがそれを堰き止める。




 それからずっと藍は子猿を抱きしめたまま座っていると、剣の練習の疲れもあってか何時の間にか寝てしまい一緒に昼寝をしてしまった。モンに起こされ夕食を迎えると、少し元気になった子猿は、必死に藍にしがみ付き離れなくなってしまった。

 そのまま食事をし、小猿にはオレンジの様な果物の実を剥き与えると美味しそうに食べた。

 ずっと抱いていたせいか、大分慣れたようで怯えているようには見えないが、常に辺りを見回し母猿を探しているようだった。

 時折寂しげに泣いたが、頭を撫でてやると大きな目で藍をジッと見る。


 「母猿が来なくても僕と暮らそう」


 藍は心配ないよと語りかけて微笑むと、子猿はキーィと泣いて体を甘えるように擦りつけて来て可愛いさが増す。

 その夜、子猿が寂しくないよう母親代りになって抱いて寝るが、子猿を慰めると言うより反対に藍の心が慰められていた。



 (明日は名前を付けてあげよう……)



 小猿の名前を色々と考えながら藍は眠りに就いた。






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