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 それから何日間かを僕は沙紀さんが話してくれたことを考えながら過ごした。沙紀さんがその友達と過ごした時間や、話したこと。そして友達と一緒に見たであろう景色・・・たとえばまだ夜が完全に明けきらない海辺の景色・・・ひんやりと澄んだ空気の感触、波打ち際に打ち寄せる波の音・・足に波が触れたときの冷たくて、でも優しい感触・・・それから友達の死…大切なひとがこの世界から消えてしまうということ・・・それらは僕の意識のなかに小さな気泡を放ちながらゆっくりと沈んでいった。沙紀さんが話してくれたことは、僕のなかにバラバラに沈んでいる物語の断片をひとつに繋いでくれるような感触があった。あともう少しで物語の全体図が見えてくるような手ごたえを僕は感じた。そしてその手ごたえをより確実なものにするために、僕は再びあの図書館の絵を観に行ってみることにした。この前、図書館で見たあの青色の花の絵のことついて何かわかれば、今ぼんやりとした白い膜に包まれている物語の象がはっきりするような気がした。



 図書館に行こうと思って家を出ると、雨が降り始めた。もともと雲行きは怪しかったのだけれど、やはり降り始めたか、と、少しうっとおしく思った。いっそ今日は出かけるのは中止にしようかと思ったけれど、せっかく準備をしたので、無理にでも出かけることにした。それに、そろそろこの前借りていた本の返却期限が迫っていた。僕は一度締めた玄関のドアを開けると、透明のビニール傘を取り出した。そしてまた玄関のドアを閉めると、図書館に向かって歩き出した。



 雨は土砂降りでこそないものの、雨だぞと主張しているような感じの降り方で、僕のさしているビニール傘の表面を雨音が跳ね回る音が断続的に聞こえた。それから、道路を走る車がアスファルトに浅く広がった水を蹴散らしていく音。雨が地面を打つ音、街路樹の葉が雨に濡れていく音。そしてそれに交じってピアノを弾く音も微かに聞こえた。近所の子供がピアノを練習しているのだろうか。いくらかたどたどしい弾き方ではあったけれど、でも、それは趣のある、どこか懐かしくて優しい気持ちにしてくれるようなピアノの音色だった。僕は昔好きだったひとのことを少し思い出した。



 やがて図書館にたどり着くと、僕は早速絵を観に向かった。この前、偶然見かけ青色の花を描いた絵。


 絵は以前と同じ場所に、どちらかというとひっそりと飾られていた。僕はじっとその絵を観てみた。一輪の青色の花を描いた絵だ。花は星の形を細長くのばしたような形をしていて、その花の中心部は淡い桃色の色彩がにじむように広がっている。僕は花の種類ついては明るくないのでなんていう名前の花なのかは皆目見当もつかなかった。あるいはまったくの想像で描かれたものなのかもしれなかった。花の色彩は雨に濡れたようにしっとりした感じがあり、やわかい感触があるのと同時に、ほんの少し悲しい感じもする。相変わらず、絵の名前も、作者の情報も何も記されていなかった。



 僕はしばらくその絵を眺めていたあとで、図書館の返却コーナーに向かった。そしてそこに借りていた本を置いた。すると、図書館の司書のひとが僕が本の返却をしたことに気が付いて「ご返却ありがとうございます」と、声をかけてくれた。比較的まだ若い、二十代後半から三十代前半くらいの、穏やかな感じのするショートカットの女性だった。僕はその女性の顔を見ると、少し躊躇ってから声をかけてみた。すいません、ちょっと訊きたいことがあるんですけど、と。女性は怪訝そうな顔で僕の顔を見つめた。


「いや、大したことじゃないんですけど」

 と、僕は微笑して弁解するように言ってから、実は図書館に飾られている絵のことについて教えてもらいたいのだと告げた。すごく綺麗な絵で前から気になっていて、もしわかるのであれば誰が描いた絵なのか、絵のことについてわかる範囲でお聞きしたいと。図書館のひともその絵のことついては何も知らなかったようで、ちょっと確認してきますねと僕に向かって困ったように微笑みかけると、奥の事務室らしき場所に入っていてしばらくのあいだ戻ってこなかった。



 やがてさっき僕が声をかけた司書のひとが、自分よりも年配の、少しふっくらとした体形の眼鏡をかけた女性を伴って戻ってきた。

「お待たせしてすいません」

 と、若い女性のひとは申し訳なさそうに言った。

「いえ、僕の方こそお忙しいのに、すいません」

 僕も恐縮して言った。



「絵にご興味がお有りなるんですって?」

 それまで黙っていた、少しふっくらとした体形の眼鏡をかけた女性が、僕の顔を見て言った。


「ええ。すごく綺麗な絵だなぁってちょっと前から気になってて。それでどういう経緯であの絵がこの図書館に飾られることになったのか、誰が描いた絵なんだろうとかちょっと気になって」


「・・・でも、あの、ほんとにただ興味があって訊ねてるだけなので、もし、ご迷惑だったりとか、分からないようでしたら、それはそれでべつに全然構わないんですけど」

 僕は苦笑して付け加えて言った。


「そんな全然迷惑なんかじゃありませんよ」

 眼鏡をかけた四十歳くらいの女性は穏やかな笑顔で言った。

「むしろあの絵に興味を持って頂けて嬉しいです」


 眼鏡をかけた女性は、自分の名前を佐藤洋子と名乗った。僕も慌てて自己紹介した。佐藤さんはこの図書館の館長をしているようで、自分は今ちょうど休憩中なので、良かったらなかで絵のことについて詳しく説明させてもらいますと申しでてくれた。僕は少し迷惑かなとも思ったけれど、ありがたく佐藤さんの好意に甘えさせて頂くことにした。何しろ僕は図書館の絵の詳細について知りたくてやってきたのだ。



 僕は佐藤さんに促されて、図書館の事務室のような場所に通された。二十畳ほどのスペースに四つほどの机が並び、そこにはデスクトップパソコンや資料が並んでいる。一番奥は職員の休憩するスペースになっているようで、いつくかの椅子とテーブルがあり、そこに僕は案内されて、佐藤さんとテーブルを挟んで向い合せに腰かけた。さきほどのショートカットの女性が気を利かせてくれて僕と佐藤さんのために麦茶を出してくれた。僕は苦笑してすいませんとショートカットの女性に頭をさげた。ショートカットの女性は何も言わずににっこりと微笑んでまた仕事に戻っていった。



「でも、絵に興味がおありになるっていうことは、藤田さんも絵を描いたりとかなさるんですか?」

 佐藤さんはショートカットの女性が運んできてくれた麦茶を口元に運びながら何気ない様子で訊ねてきた。僕は苦笑して首を振った。それから僕は簡単に事情を説明した。自分が小説を書いていて、その小説が絵をモチーフにした小説であること。そういう関係もあって今回図書館に飾られていた絵について興味を覚えたこと。



「へー。小説を書いてらっしゃるんですね」

 佐藤さんは感心したように僕の顔を見て言った。

「といっても、まだ全然素人ですけど」

 僕は苦笑して言った。

「わたしも昔小説を書きたいなと思ったことがあります。でも、いざ書こうとすると何も書けなくて挫折しましたけど」

 佐藤さんは微苦笑して言った。

 僕は曖昧な笑顔で頷いた。

「藤田さんはぜひ頑張ってプロの小説家になってくださいね。わたし楽しみにしてますから」

「頑張ります」

 僕は小さく笑って言った。



「それで、なんでしたっけ?あ、そうそう、あの図書館に飾ってある絵のことでしたよね」

 佐藤さんは僕の顔を見ると、改まった口調で言った。

 僕は黙って首肯した。



 佐藤さんはどう話すべきか迷うように口を閉じると、ふと何か答えを探すように窓の外に視線を向けた。僕もつられるようして窓の外を見てみた。すると、そこには図書館の外に植えられている緑の木々が見えた。まだ雨は降り続いていて、雨の日の青灰色の色素のなかで木々の葉も水気を含んでいつもより濃い緑に染まっているように感じられた。



「あの絵は、わたしの父が描いたものなんです」

 と、佐藤さんはやがて口を開くと言った。

「お父さん?」

 僕は小さな声で佐藤さんの言葉を反芻した。



 佐藤さんは僕の言葉に軽く頷くと話し始めた。

「父は公務員をしていたんですけど、仕事の合間をぬってよく絵を描いていました。父の趣味は絵を描くことだったんです。というか、若い頃、一時期は本気で画家になることを考えていたこともあったみたいですね」

 佐藤さんはそこで言葉を区切ると、テーブルのうえの麦茶を取って一口飲んだ。僕も思い出したように麦茶を少し飲んだ。



「それで、最近になって父が亡くなったんですけど」

 佐藤さんは再び口を開くと言った。

「亡くなった?」

 僕は佐藤さんの言葉がいくらか唐突だったので、少し驚いて佐藤さんの顔を見つめた。


「風邪をこじらせて、それが悪化して・・・でも、父も歳でしたからね」

 佐藤さんはそう言って、僕の顔を見ると、いくらか無理に微笑んでみせた。

「そしてあの絵は、父が生前描いた絵のなかで唯一残っている絵なんです」

 と、佐藤さんは言葉を続けた。


 僕は佐藤さんの言ったことがよくわからなくて問うように佐藤の顔を見つめた。



「実を言うと、父は歳をとってから、それまで自分が描いてきた絵のほとんどを処分してしまったんです」


「どうしてですか?」

 僕は佐藤さんのお父さんがなぜそんなことをしたのか理解できなかった。


 佐藤さんは僕の問いに、いくらか悲しそうに首を振った。

「父はもう絵はいいって言ってました・・・たぶん、自分の描く絵に自信が持てなくなった、自分がなかなか思うように絵がかけないことに嫌気がさしてしまっていたんだと思います…最終的には絵を描く道具一式も全て処分してしまっていましたから」


 僕は佐藤さんが話したことにどんなふうにコメントしたらいいのかわからなかったので黙っていた。でも、一方で佐藤さんのお父さんが自分の絵を処分したという気持ちもわからなくはなかった。僕もときどき自分の書いた小説を読み返して、そのあまりの出来の悪さに失望して、全てを破り捨ててしまいたくなるときはあった。


「じゃあ、佐藤さんのお父さんは、亡くなる直前は、晩年は、全く絵を描いてなかったんですか?」


「そうですね。晩年はいつもぼんやりとテレビを見ていることが多かったですね。絵を描いていない父はちょっと無理をしているというか、意地を張っている感じがして寂しい感じもしましたけど」


 僕は佐藤さんの言葉に耳を傾けながら、頑なに自分から絵というものを遠ざけようとしている佐藤さんのお父さんの姿を想像した。


「父が亡くなって」

 と、佐藤さんは話続けた。

「父の遺品を整理しているとき、もう父の描いた絵は一枚も残っていないんだろうと思っていたんですけど、でも、あの絵が、図書館に今飾ってあるあの絵ですね・・あの絵が一枚だけ見つかったんです」

 僕は佐藤さんの言葉の続きが気になって佐藤さんの顔を注視した。



「実を言うと、あの絵は、父が母にプレゼントしたものなんです。まだ父が若い頃、本格的に画家を目指していた頃に、母に、お金がなかったら、誕生日プレゼントの代わりに渡しものらしくて・・・わたしの母はわたしが二十歳のときに病気で他界してるんですけど、母は結婚してからもずっとその絵を大事にしてて・・・だから、父もさすがにその絵までは捨てることができなかったんだなぁって悲しくなりました」



 目の前に見えている視界に重なるようにして、さきほど目にしたばかりの花の絵が浮かんできた。そしてその絵の色彩は僕の意識のなかで溶け出して僕の意識は花の絵の少し冷たいような淡い青色の色彩に染まっていった。



「それでというわけでもないんですけど」

 と、佐藤さんは言葉を続けた。

「職場に父の描いた絵を飾ってみようと思いついたんです」

 佐藤さんは僕の顔を見ると、苦笑するように口元を綻ばせた。



「実は前々から図書館の出入り口付近が殺風景だから何か絵でも飾ろうかっていう話があったんです。といっても予算はないですから高い絵なんかは買ったりできないですし、コンクールみたいなものをやって応募を募ろうかとも考えたんですけど、でも、そこまでするほど大げさなものでもないしと思いまして。そしたらああだったら父の絵があるなと思いついて」


 佐藤さんはそこまで語ると、また麦茶を少し飲んだ。そして手に持っていたグラスをまたテーブルの上に戻すと、

「父としてはそんな間に合わせみたいな感じで俺の絵を飾ってくれるなって不満に思ってるかもしれないですけどね」

 佐藤さんは冗談めかして言うと少し笑った。


 誘われるようにして僕も微笑しながら、

「きっと自分の描いた絵が娘さんの職場に飾られることになって嬉しく思ってるんじゃないですかね」

 と、言ってみた。


 すると、佐藤さんは

「そうだといいんですけどね」

 と、少し悲しみを含んだようなやわらかい笑顔で言った。



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