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個展会場をあとにするとき、僕は沙紀さんに絵の感想を伝えた。とても良かった、と。特に波打ち際で女のひとが佇んでいる絵が個人的には気になったと伝えた。僕の感想に、沙紀さんは僕の顔を見ると、何かを言いたそうにして、でも、結局それは口にせずに、ただ淡く微笑んでありがとうございますとだけ答えた。僕は彼女が何を言おうとしていたのか気になったけれど、でも、僕のあとに池田くんや南さんが挨拶しようと控えていたので、そのままその疑問を確認することなく個展会場をあとにした。
個展会場をあとにすると、僕たちは四人で昼食を食べにいった。けれど、そのあいだもずっとさっき見た絵のことが思考なかにちらついてみんなとの会話に集中することができなかった。まるで海で泳いだあと夜眠るときになってもまだ体が海の波に揺られている感覚が残っているのと似ていた。僕の意識は微かに黒色の色素を含んだ冷たい青の色彩のなかで絶え間なく揺れていた。
その日の夜、家に帰ってから僕は武藤に電話をかけた。あれから家に帰ってからもなかなか絵のことが頭のなかから離れていかなかったので、直接武藤の妹さん、沙紀さんに絵について訊いてみたいと思ったのだ。
もちろん、僕は沙紀さんの連絡先を知らないので、まず武藤に連絡を取ることになった。武藤は妹さんと一緒に住んでいる。武藤の実家があるのは北海道の釧路で、だから、当然、妹さんがそこから東京の大学まで通学するのは不可能だということになる。はじめ沙紀はさんは大学の寮に入るつもりでいたらしいのだけれど、武藤がちょっとうどそのときたまたま引っ越しを考えていたようで、そういうことであればということで、兄妹で広めの部屋を借りて住むことにしたようだった。沙紀さんにしてみればやはり寮よりはアパートの方が何かと自由がきいて便利だし、武藤にしてみても両親から妹の部屋代としていくらか家賃を負担してもらえるようで得なようだった。確か三鷹の方にふたりで住んでいるという話だった。
僕が絵のことについて沙紀さんに訊きたいことがあると伝えると、武藤は何を勘違いしたのか困ったような声で言った。
「いや、俺はお前のことはいいやつだと思うし、沙紀にも紹介してやりたいところだけど、でも、妹はもう他に付き合ってるひとがいるんだよ。たがらさ、悪いけど・・・」
違う、そういうことじゃない、と、僕は電話口で強く武藤の誤解を指摘した。
「確かに武藤の妹さんは可愛かったけど、べつに好きになったとか、付き合って欲しいとか、そういうことじゃないんだ」
と、僕は説明した。
僕の言葉の続きを待つように武藤は黙っていた。
僕は説明を続けた。
「今、俺、絵にまつわる小説を書いてるんだよ。それでさ、妹さんの描いた絵にすごく触発されたっていうか、インスピレーションを受けたっていうかそんな感じでさ、できればもっと色々今日会場にあった絵のことについて妹さんに訊いてみたいんだ」
僕の科白に、武藤は考えるように少しのあいだ黙っていた。
「なんかそれも妹を口説くための口実のようにも聞こえるけどな」
と、武藤はしばらくして口を開くと可笑しそうに軽く笑って言った。
「でも、まあ、わかったよ」
と、武藤は言葉を続けた。
「今、妹が家にいないからなんともいえないけど、あとで帰ってきたら話しとくよ。俺の友達が絵について取材したいって言ってるって。べつに怪しいやつじゃないから安心していいって」
「取材っていうほど大げさなものでもないんだけど」
僕は微苦笑して言った。僕はまた連絡を待っていると言って電話を切った。
その後、武藤から連絡があり、沙紀さんと話をするのは二日後の夕方に決まった。その日、沙紀さんは大学の授業が三限目で終わるらしく、夕方からなら時間を作ることができるという話だった。
僕が待ち合わせ場所の吉祥寺の駅前で待っていると、程なくして沙紀さんはやってきた。この前個展会場で会ったときと同様、沙紀さんはふわりとやわらかそうな素材の服を着ていた。
「わざわざ呼び出してごめんね」
と、僕はまず謝った。すると、沙紀さんはにっこりと笑って首を振ってくれた。
「逆に、わたしなんかの絵に興味を持ってくれてありがたいです」
僕は彼女の科白を耳にして、なんて良い子なのだろうと感心してしまった。武藤にはああ言ったけれど、油断すると好きになってしまいそうな気がしたので、僕は気を引き締めることにした。
「そういえば武藤は?」
僕は武藤の姿が見えないので気になって訊ねてみた。当然、武藤も保護者という形でついてきているのかと思ったのだけれど。
「お兄ちゃんですか?」
沙紀さんは僕の顔を不思議そうに見ると言った。
「お兄ちゃんなら仕事だと思いますけど」
「ああ、そうか」
僕は苦笑して頷いた。そういえば今日は平日だった。仕事を辞めてからすっかり曜日の感覚が麻痺してきている。武藤は家具関係の会社に勤めていて、当然今のこの時間帯は会社で仕事をしているはずだった。
「とりあえずどこかお店に入ろうか」
僕は微笑みかけて言った。
「そうですね」
と、沙紀さんは微笑して頷いた。
そのあと僕たちは街を少し歩いて、落ち着いて話をすることができそうなカフェに入った。僕はアイスコーヒーを注文し、沙紀さんはアイスのカフェモカを注文した。デザートとか食べ物も欲しかったら頼んでいいよと言ったのだけれど、沙紀さんは遠慮しているのか、結局、カフェモカしか注文しなかった。
「藤田さんって小説書いてるんですよね?」
僕が運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップとミルクを注いでいると、沙紀さんが遠慮がちな口調で訊ねてきた。
「うん、まあね」
僕は沙紀さんの顔に視線を向けると、微苦笑して答えた。きっと武藤が言ったのだろう。
「まだ全然素人だけど」
「でも、すごいですね。わたし、小説を書いてるひとにはじめて会ったかも」
沙紀さんは何か誤解しているようで興奮した口調で言った。
「いや、でも、まだ素人で、有名とかそういうのじゃないから」
僕は申し訳ない気持ちなっていくらか強張った笑顔で言った。
「わたし、芸大に通ってるから、それこそ周りに写真とか、デザインとか、ピアノとか色んな表現してるひとがいるけど、でも、小説書いてるっていうひとには会ったことないかも」
「へー。そんなものかな」
と、僕は相槌を打つと、ストローでアイスコーヒーを軽くかき混ぜた。それから、一口飲む。でも、そういえば確かに周りで小説を書いているという人間に会ったことってないよなと思い当った。よく新人賞の応募総数を見ると、千人以上のひとが応募していることになっているけれど、ああいうひとたちは一体どこにいるのだろうと不思議な気がした。それともただ単に小説を書いていることをみんな秘密にしているだけなのだろうか。
「どんな話を書いてるんですか?」
僕が小説家志望のひとたちのことについて思いを巡らせていると、沙紀さんは更に訊ねてきた。
「どんな話かぁ」
と、僕は困って言った。
「でも、どちらかというと文学よりなのかな」
と、僕は言った。
僕の言ったことがよくわからなかった様子で、
「文学?」
と、沙紀さん説明を求めるように僕の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「ほら、よく国語の教科書とかに載ってる小説があるでしょ?」
と、僕は上手く説明できるかどうかいまひとつ自信がなかったけれど、とりあえずという感じで解説を試みた。
「SFとかサスペンスとかそういう娯楽小説じゃないタイプの。ひとに何かを考えさせたり、その物語を通して何かを表現しているような小説。僕の小説はまあ、正直そこまでそんな高尚なレベルには達してないと思うけど、でも、方向性としはそういうのを目指してるつもり、なのかな」
「そっか。すごいですね」
僕の説明に、沙紀さんはますます誤解を深めたようで、尊敬するような眼差しで僕の顔を見つめてきた。
「いや、そういうのが書きたいと思ってるだけで、まだ実際に書けたわけじゃないからね」
僕は困って笑って言った。
「でも、すごいですよ」
と、沙紀さんは微笑んで言うと、
「それで、藤田さんは今、絵に関係する小説を書いてるんですよね?」
と、訊ねてきた。
僕は沙紀さんの問いに頷いた。
「まだ書き始めたばかりで、どんな話になるかはわからない部分もあるんだけど、とにかく、絵をテーマにした小説を書きたいと思ってて・・・それでこの前沙紀さんの絵を見てたら、自分でも説明がつかないんだけど、強く興味を惹かれてね。詳しく聞いてみたいなって思ったんだ。沙紀さんが描いたあの海辺の絵について。あの絵について知ることによって、自分の物語が動いていくような感じがしたっていうか」
「なるほど。そうなんですね」
沙紀さんは僕の説明を聞き終えると、思い出したようにアイスのカフェモカを一口ストローで啜った。
「あの絵のなかに描かれてる女の人ってモデルになったひととかいるのかな?」
僕はアイスコーヒーを一口飲むと訊ねてみた。
沙紀さんは僕の問いに、少し緊張したような面持ちで僕の顔を見つめた。
「あの絵は友達がモデルなんです」
と、沙紀さん少し躊躇うような間をあけてから短く答えた。
「高校のときの」
そう続けて言った沙紀さんの声はどことなく悲しそうにも響いた。
「・・・ちょっと重い話になっちゃうかもしれないけど」
沙紀さんは軽く眼差しを伏せるようにして言った。
「わたし、高校に入ってからアトリエに通って絵のことを本格的に勉強するようになったんです。もともと絵を描くのが好きだったんですけど、高校に入ってからますます将来は絵のことついて勉強したいと思うようになって。美術大学に進みたいって思うようになったんです。それで美術大学に進むためもあってアトリエに通いはじめたんですけど」
沙紀さんはそこで言葉を区切った。
僕はちゃんと話を聞いていることを示すように相槌を打った。
沙紀さんはまたストローでアイスのカフェモカを少し飲んだ。
「それで、その友達とはそのアトリエで知り合ったんです」
と、沙紀さんは再び口を開くと言った。
「長い黒髪の、肌の白い、結構綺麗な娘で・・・わたし、この娘だったら芸能人になれるんじゃないかって感心したくらい」
沙紀さんは友達の姿を思い出しているのか、軽く目を細めるようにして言った。
「どこの学校に通ってるのってわたしが訊くと、その娘はわたしの住んでいる隣町の学校に通ってるって答えました。歳も同い年で。わたし、すぐにその娘と仲良くなりました。アトリエから帰るとき一緒のバスに乗ったりとか、学校が休みの日に一緒に買い物にいったりとか」
僕は沙紀さんの話に耳を傾けながら、沙紀さんとその娘が楽しそうに話したり、笑ったり、一緒に絵を描いている姿を想像した。
「でも、あるときから急に、その娘がアトリエに来なくなっちゃったんです。最初のうちにはあんまり気にしてなかったんですけど、でも、二週間くらい経ってもずっと来ないから、ちょっと心配になってメールしてしみたんです。そしたら、今体調を崩して入院してるって返事が返ってきて。わたしびっくりしてその娘が入院してる病院を教えてもらってお見舞いに行きました。そしてそこではじめて友達の病気のこと知ったんです。その娘はもともと生まれつき心臓が悪くて、これまでも何回も入退院を繰り返してるっていう話でした。わたしが心配になって大丈夫なのって尋ねると、彼女はいつものことだし、またもうちょっとすれば良くなると思うからって明るい口調で言って・・・」
沙紀さんは少し顔を伏せるようにして話続けた。
「でも、それから更に二週間くらい経っても彼女がアトリエに姿を見せることがなくて。メールしたら、ごめん。今回はちょっと長引くかもしれないみたいな返事が返ってきて。わたし心配だったからまたお見舞いに行ったんです。わたしが訪ねていくと、彼女はいつもと変わらない明るい感じでわたしのことを迎えてくれました。それから、彼女は今度手術をすることになったって教えてくれました。今回はいつもよりも症状が重くて、だから、どうしても手術をする必要があるんだって」
「手術?」
と、僕は沙紀さんの科白を復唱した。
沙紀さんはそれまで伏せていた眼差しをあげて僕の顔を見ると、軽く頷いた。
「その友達、これまでにも何回か手術を受けてるみたいで・・・それで今回の手術は心臓の弁をいじる、いつもよりちょっとだけ難しい手術なるようなことを言ってました」
「それで、手術は上手くいったの?」
僕は気になって訊ねてみた。
僕の問いに、沙紀さんはいくらか難しい顔つきで頷いた。
「手術自体は上手くいきました・・・でも、術後の経過があまりよくなくて彼女はなかなか退院することができませんでした・・・それどころかちょっとずつ彼女は弱っていって・・・わたし、このまま友達が死んじゃうじゃないかって心配なったくらい」
沙紀さんは今まさに友達を失おうとしているような辛そうな表情で話した。
「でも、それから少しして、彼女は体調を持ち直して元気になったんです。まだもうちょっと様子を見る必要はあるけど、一時退院できるっていうことになって」
僕は沙紀さんの科白を聴いていくらかほっとした。
「それで、あの絵なんですけど。藤田さんが一番印象に残ってるって言ってくれた絵」
僕は沙紀さんの言葉に頷いた。この前僕が展示会場で見かけた絵。ひとりの女性が海辺に立っている姿を描いた絵。
「あの絵は、友達が退院して、友達の家に泊まりにいったときに描いたんです」
と、沙紀さんは言った。
僕が沙紀さんの顔に視線を向けると、彼女はアイスのカフェモカを少し飲んでから話はじめた。
「友達が退院してから一週間目くらいに、その友達に誘われて友達の家に泊まりに行ったんです。お泊り会やろうって話になって。友達の家に遊びにいったら、友達のお父さんもお母さんも優しくて美味しい料理を出してくれてもてなしてくれて。友達も病気なんかしてなかったみたいに明るくて元気で。その日は夜遅くまでふたりで夜更かしして色々話ました。それで明け方になって、急に絵を描きにいかないって話になって盛り上がったんです。その娘の家のすぐ近くに浜辺があって、朝の海は気持ちがいいからって。それで、ふたりで自転車にのって海辺の景色を描きにいったんです」
沙紀さんはそこで言葉を区切った。
「お泊り会か」
僕は微笑んでいいながら、自分も過去に何度かそういうことをやったことあるよなと懐かしい気持ちになった。
「朝の海はほんとうに静かで気持ちが良かったですね」
沙紀さんはその当時見た光景を思い出しているのか、目元で微笑んで言った。
「夜が明ける前の青みかがった透き通った光に包まれてて。そこでお互いにポーズを取り合って、スケッチをしたんです。そして絵が出来上がったら一緒に個展やろうとかって話になって」
沙紀さんは懐かしそうな寂しそうな笑みを浮かべながら話した。
「・・・それから、三カ月くらいはまた一緒にアトリエに通ったり、買い物にいったり、楽しい日々が続きました。でも」
話ながら沙紀さんの顔からは花が萎れていくように笑顔が失われつつあった。
「でも?」
と、僕は気になって訊ねてみた。
沙紀さんはちらりと僕の顔を見ると、それからすぐに逃げるように目を伏せた。
「・・・また友達、心臓が悪くなっちゃったんです。アトリエで一緒に絵を描いてるときに、急に心臓が痛くなったみたいで、倒れて」
と、沙紀さんは何かを堪えているような表情で話した。
「友達、そのまま緊急入院したけど、でも、結局・・・助からなくて。・・・二週間くらい昏睡状態みたいなのが続いて・・・それから息をひきとりました」
僕は沙紀さんの言葉に何か言おうとしたけれど、予想以上に深刻な事実に適当な言葉を見つけることができなかった。
「でも、一度だけ」
と、沙紀さんは僕が言葉を見つけられずにいると、小さな声で続けた。
「その娘が意識を取り戻したことがあったんです。ずっと意識の不明の状態が続いてたんですけど、でも、わたしがお見舞いにいったときに・・・その娘から倒れてから一週間くらいが経ってからかな?たまたま彼女の意識が戻ったことがあって」
僕は沙紀さんの顔を見つめた。沙紀の顔を見つめながら、自分がその友達の枕元にいて、その友達がふっと目を覚ますところを想像していた。
「その娘、わたしのことに気が付くと、わたし、また倒れちゃったんだって、まるで他人事みたいに言ったんです」
沙紀さんはその当時の状況を思い出しているのか、悲しみを含みながらも可笑しがっている表情で言った。
「それでそのとき、友達、夢を見たって言ったんです。わたしと一緒に個展を開いた夢。開いた個展が大反響で、良かったねってお互いに言い合ってる夢だったって・・それから、あの海辺の絵は順調に進んでるって話になって。わたしがなんとか頑張ってるって答えたら、わたしも退院したら頑張って完成させるから、絶対個展やろうねって話になって・・・でも・・・」
沙紀さんは泣き出しそうなのを堪えている表情で言った。
僕はもうそんなに無理し話さなくていいよと言おうとしたのだけれど、沙紀さんは僕か声をかける前にまた口を開いて言った。
「・・・それで友達が亡くなってから、四年近くたってから、やっとあの絵を完成させたんです」
と、沙紀さんは言った。
「はっきり言って友達が亡くなってからもう悲しすぎてあの絵の続きを描く気になんてなれなくてずっと放置しままになってたんですけど、でも、この前の春休みに実家に帰ったときに、久しぶりにあの絵を取り出して観てたら、なんかまた描きたくなって・・・描かなくちゃって思って・・・それで描きあげたんです」
「・・・きっとその友達も、沙紀さんが絵を完成させて喜んでるんじゃないかな」
と、僕はどうコメントするべきか少し迷ったけれど、彼女の顔を見ると、微笑みかけて言った。すると、沙紀さんは僕の顔を見て、
「そうだといいんですけどね」
と、安心したような、微かに哀しみを含んだような透明な笑顔で言った。