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そのとき、僕は吉祥寺の近くにある比較的大きな公園のベンチに腰掛けてぼんやりとしていた。季節は五月の初めで青々とした木々の葉が目に涼しく感じられた。気温は暑くもなく寒くもなくて気持ちが良かった。僕の目の前を何人もの家族連れや、老夫婦や、若いカップルが歩いていった。真上を見上げると、木漏れ日の光がいつかの優しい記憶のようにやわらかく目を打った。
あれから僕はようやく小説を書き始めた。ヒントを与えてくれたのは、この前図書館で見かけた花の絵だった。今度の物語は絵にまつわる物語にしようと思った。具体的な物語の筋はまだ何も決まっていない。まだ物語の最初のシーンを書いただけだ。僕はいつも大抵考えながら物語を作っていく。物語の主人公である藤崎花はやはり僕と同じように図書館で偶然観たことのない、でも、綺麗な花の絵を見つける。それから、彼女は・・・。
「藤田くん?」
ふいに思考の外から声がしみ込んできた。
「藤田くんじゃない?」
僕が空想の世界から外の世界を覗いてみると、そこには南さんが笑い出しそうな笑顔で立っていた。僕はまだ自分が想像の世界のなかにいるんじゃないかと自信が持てなくなった。
「南さん?」
僕は声の聞こえてきた方向に顔を向けると、驚いて言った。
「こんなところで何してるの?」
南さんは言った。
「いや、ちょっと散歩。いい天気だし」
僕は南さんの突然の出現にいくらか戸惑いながら弁解するように答えた。
「南さんこそどうしたの?」
僕は訊ねてみた。どうしてこんなところに南さんが居るのだろうと不思議だった。
「わたしもちょっと散歩」
と、南さんは小さく微笑して言った。
南さんが隣に座ってもいいかと訊くので、僕はもちろんどうぞと答えた。思いかけない展開に僕はかなり緊張していた。
「でも、南さん、今日は仕事は?」
僕は隣に腰掛けた南さんの方を振り向くと訊ねてみた。今日は平日だった。だから、僕としては単純に気になったのだ。平日の昼間の時間にどうしてこんなところにいるのだろう、と。まあ、僕は無職なわけで。
「わたしサービス業だから不定休なの」
南さんは僕の顔を見ると、にっこり笑って答えた。
「この前みたいに祝日に休みが取れることもあるけど、でも、基本的には平日が休みの日が多いかな」
「なるほど」
僕は納得して頷いた。
「そういえば、南さんって今なんの仕事してるんだっけ?」
僕の問いに、南さんはアパレルショップの店員をしているのだと教えてくれた。
「通りで、おしゃれなわけだ」
「べつにおしゃれじないよ」
南さんは笑って言った。
「仕事はどう?楽しい?」
僕はなんとなく訊ねてみた。すると、南さんは少し思案するように視線を斜め上にあげて、
「うーん。どうなんだろう。楽しいときもあるけど、でも、結構大変だなぁっていうのが正直なところかな」
と、苦笑するような笑顔で答えた。
「やっぱり目標とかあるしね・・・洋服を見たりするのは好きだけど、でも、それだけじゃやっていけいない部分も多いから・・・まあ、仕事なんてどこの世界も同じなんだろうけど」
僕は南さんの科白に耳を傾けながら、ついこのあいだまでのサラリーマン生活を思い返していた。
「色々大変なんだね」
僕は言った。
「まあ、それなりにやりがいもあるし、楽しいことは楽しいんだけどね」
南さんは僕の顔を見ると、仕方ないと諦めて受けいれているような笑顔で言った。
それから、南さんがお腹が空いたと言って、僕たちは公園から少し歩いたところにあるオムライス屋さんに入って一緒に昼食を取ることになった。僕はこれじゃまるでデートだなとそわそわとして落ち着かなかったけれど、南さんは全くそんなことは気にならないようだった。平日のお店は比較的に空いていて、僕たちは奥の窓際の席に通されて向かい合わせに腰掛けた。
「どう?あれから小説は進んでる?」
注文を取った店員が厨房に戻っていくと、南さんはふと思いついたように訊ねてきた。
「うん、まあ、ぼちぼちってところかな」
僕は曖昧な返事を返した。それから、テーブルのうえのお冷やを手に取って一口飲んだ。窓の外には、公園の、まだ生まれたてのやわらかな緑色をした木々が風に吹かれて気持ち良さそうに揺れているのを眺めることができた。
「どんな話を書いてるの?」
僕は南さんの顔に視線を戻した。
「どんな話かぁ」
と、僕は呟くように言ってから、この前図書館で偶然見かけた絵のことを話した。そしてその絵を見ているうちに物語の原型のようなものが浮かんでそれを書いていると説明した。まだ書き始めたばかりでこれからどんな話になっていくのか僕自身もよくわかっていないのだ、と。
「へー。面白そう」
僕の話を聞き終えると、南さんは僕の顔を見てにっこりとして言った。ほんとうに面白そうだと思っているような表情だった。
「まだ書き始めたばかりだしね、上手くいくかどうかわらかないけど」
僕は苦笑して言い訳するように言った。
そして僕がそう言い終えるのとほぼ同時に、僕たちの注文した料理が運ばれてきた。僕は大盛りを注文したのだけれど、その量が想像を超えて多かったのでびっくりした。こんなに食べれるかなぁと僕が呟くように言うと、南さんは笑って食べれる食べれると言った。
「絵といえば」
南さんはオムライスをスプーンで一口掬ってそれを口に入れて咀嚼して飲み込むと思い出したように言った。僕は口に入れたばかりのオムライスを咀嚼しながら南さんの顔を見た。
「おじさんがね・・・わたしのお母さんの弟にあたるひとなんだけど、そのひとが絵を描いてるの。一応、プロの画家を目指してたみたいで・・・といっても、全然有名とかそういうのじゃないんだけどね・・・で、そのおじさんが描いた絵が実家の玄関のところに飾ってあるの。海辺に咲いた、白い一輪の、微かに青色の色素を含んだ花でね・・・わたし、その絵が好きだったんだけど、さっきの藤田くんの話を聞いてたらそのことを思い出した」
南さんはそこまで話してからふと何か気がついたように黙ると、
「ごめん。だから何?って話だよね」
と、笑って言った。
僕は曖昧に微笑して首を振ると、
「その絵、一度見てみたいな」
と、言ってみた。
「うーん。見せてあけだいところだけど、その絵って実家にあるし、わたしの実家って福岡で遠いからね」
僕の言葉に、南さんは軽く眉根を寄せて真剣な表情で検討している様子で言った。
いや、べつにそんなにどうしてもっていうわけじゃないんだけど、僕が申し訳なくなって慌てて言うと、
「あっ、でも、お母さんにその絵を写メで送ってもらえるかも」
と、南さんは良いアイデアが浮かんだというように明るい表情で僕の顔を見て言った。
「で、それを藤田くんに転送すれば良いよね?小説のネタに使えるようだったら使って」
と、南さんは楽しそうに続けた。
「そうだね」
僕は曖昧に微笑して頷いた。そしてそれからまたオムライスをスプーンで掬って口に入れた。
「そのおじさんって今どうしてるの?まだ絵は書き続けてるの?」
僕はしばらくしてから訊ねてみた。僕の問いに、南さんはうーんと言ってから軽く首を傾げた。
「今でも描いてることは描いてるみたいだけど、でも、昔みたいにはそんなに熱心には取り組んでないみたい。今は大道芸の仕事の方が忙しいみたいで」
「大道芸?」
僕は南さんの口から出てきた意外な言葉に驚いて言った。南さんは僕のリアクションに可笑しそうに口元を綻ばせて頷いた。
「おじさんって変わってるの。三十代半ばくらいまでは絵描きになりたいって言って色んな国を周りながら絵を描いてたみたいなんだけど、ある日、日本に戻ってくると今度は大道芸人なるからって言って。急に。それからはずっと大道芸人やってる。九州じゃそこそこ有名になってて、テレビの取材とかも受けてるみたいだけど」
「かなり面白いひとみたいだね」
僕は微笑して言った。
「ほんとに」
南さんは僕の言葉に軽く笑ってからテーブルのうえのお冷やを手に取って少し飲んだ。
「でもね」
と、南さんは言葉を続けた。
「おじさん、今でも夏になると絵を描くの。普段は大道芸の芸を磨くことに一生懸命で筆を手にとることなんてまずないんだけどね、でも、何故か夏になると大道芸の仕事を少し休んで絵を描くの。いつも海の絵でね、わたしも何回かおじさんが絵を描くのについていったことあるけど、夏の夕暮れの空とか、すごく透き通った綺麗な絵
・・・で、その描きあげた絵をいつもどこかに送ってるの。わたしがどこにいつも送るのって訊いてもおじさんにやにやして教えてくれないんだけど、でも、たぶんあれはきっと女の人に送ってるんじゃないかな。おじさんって独身だし、だからはどこか遠く離れたところに好きなひとがいて、そのひとのもとに毎年に夏になると自分の描いた絵を送ってるんじゃないかなってわたしは睨んでるんだけどね」
南さんはそう冗談めかして言うと少し笑った。つられるようにして僕も笑った。
「でも、なんかそういうのいいね」
僕は微笑んで言った。
「毎年好きなひとのために絵を描くのとか」
僕は言いながら、夏の半透明のピンク色の夕暮れの空の下で、浅黒く日焼けした渋いおじさんが真剣な表情で絵を描いている姿を想像した。すぐ近くに潮騒の音が聞こえる。
「なんか話してたらわたしも無性におじさんのことが懐かしくなってきたな」
南さんは微笑して言った。
「また近いうちにおじさんの絵、写メで藤田くんに送るね」
南さんは僕の顔を見ると言った。