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絵といえば、小学校の頃、絵を描くのがすごく上手な友達がいた。その友達の名前は渡辺聡といって、家がすぐ近所だったし、クラスも一緒だったことから何かと一緒に過ごすことが多かった。
記憶のなかで何故か僕はいつも聡とふたりきりでいる。というのは、聡以外の友達がみんなテレビゲームに夢中になっていたからだ。学校が終わって遊ぼうという話になると、いつも決まって特定の誰かの家に集まってゲームをしているというパターンが多くて、でも、僕はあまりそういうのが好きじゃなかった。それは聡も同じで、だから、必然的に僕と聡のふたりだけで遊ぶ機会が増えていった。
ふたりでどういう遊びをしていかというと、それは公園でサッカーボールを蹴りあったりとか、学校の裏山に登って探検したりとかそういう感じだった。でも、雨が降るとさすがにそういう遊びをすることはできなくなるので、そんなときは家のなかで遊ぶことになった。大抵は聡の家に遊びにいった。というのも、僕の母親は他人が家に上がるのをあまり好まなかったからだ。その点、聡の家は両親が共働きで、気を使う必要がなかった。
最も、家で遊ぶといってもべつに大したことをするわけではなくて、漫画の本を読んだりとか、夕方放送のアニメをふたりで並んで見ていたりとかそんな感じだった。
そして僕がちょっとした発見をしたのは、そんなふうに雨降りの日に聡の家に遊びに行ったときのことだった。聡が飲み物を準備してくれているあいだ、僕は暇だったのでなんとなく聡の家の本棚を見ていたのだけれど、聡の漫画の本が並んでいる棚とはべつのところに結構厚みのある本が何冊かあるのに気がついたのだ。これはなんだろうと思って僕がその本に手を伸ばそうとしたところで、
「ああ。それ、画集だよ」
と、飲み物を準備して戻ってきた聡が僕の背後から言った。
「画集?」
と、僕は後ろを振り返ると、聡の言葉の意味かよくわらかなかったので反芻した。僕はその当時絵画を集めて掲載している本の存在を知らなかった。
「色んな絵が載ってるんだ。母さんが好きでさ、そういうの」
「へー」
と、僕はよくわからないままに相槌を打った。
「気になるんだったら、自由に手に取って見てくれて構わないよ」
と、聡は言った。
「ありがとう」
僕は礼を述べると、手を伸ばしかけていた本を手に取って広げた。パラパラとページを繰ると、目に飛び込んできたのは、不思議な、ちょっと怖いような感じのする絵だった。極端に単純化されていびつに傾いたようなひとの顔や、何を描いたものなのかさえもよくわからない色んなものがごちゃ混ぜになったような感じの絵が載っていた。僕はこれまでこんな絵を見たことがなかった。
「なんたが不気味な絵が好きなんだね」
僕は率直な感想を述べた。すると、聡は可笑しそうに笑って、
「それはピカソっていうひとが描いた絵だよ」
と、教えてくれた。それから聡は、
「じゃあ、こういうのはどう?」
と、言って、僕がさっき取り出した本棚から別の一冊を取り出すと、本を広げてページを繰り、僕に手渡してくれた。見てみると、それは金色の色彩を多用したすごくきれいな絵だった。僕は一目でその絵が気に入った。がけっぷちでふたりの男女が抱き合っている絵だった。男のひとの腕に抱かれた女のひとはうっとりしているような、それでいて悲しそうな表情をしている。
「綺麗な絵だね。でも、なんだかちょっと悲しい感じもするけど」
僕は絵に視線を落としながら言った。
「それはクリムトっていうひとが描いた絵だよ」
と、聡は言った。
「詳しいんだね」
と、僕はそれまで本のうえに落としていた顔をあげると、聡の顔を見つめた。すると、聡は、
「べつに母さんの受け売りだよ」
と、照れくさそうに口元を小さく綻ばせて言った。
「小さな頃から色々母さんが絵のこと教えてくれるんだ」
「へー」
と、僕は感心して頷いた。僕の両親は絵なんて全く興味がないし、たぶんこの絵を両親に見せても何もわからないだろうなと思った。
「母さん、ほんとうは絵描きになりたかったんだって」
と、聡はここ持ち寂しそうな声で言った。
「でも、色々あって絵描きになるのは諦めたって言ってた。今でも絵は描いてるけどね」
「ふうん」
僕は頷いた。
「聡も絵を描いたり観たりするのは好き?」
僕は聡の顔を見るとなんとなく訊ねてみた。
「好きだよ。わりとね」
「じゃあ、将来は絵描きになるの?」
「どうかな」
と、聡は困ったように小さく笑った。
「絵を書くのは好きだけどね」
「聡だったら成れると思うけどな」
僕は聡が図工の時間に描いた絵を思い出して言った。聡の描いた絵はクラスのなかで一番優秀な絵として選ばれて県の大会に出品され、そのなかでも認められて表彰までされていた。
「ありがとう」
聡は僕の言葉に苦笑して言った。
「でも、そんな単純なものでもないんだ」
聡は言葉を続けた。
「僕よりも絵が上手なひとなんていくらでもいるしね。それに良い絵を描いたからって必ずしも認められるわけじゃないから」
「そんなものかな」
僕は納得できない気持ちで頷いた。その当時の僕には芸術で成功することの困難さが全く理解できていなかった。
「でも、僕はやっぱり聡は絵描きになれると思うな。だってあんなに綺麗な絵が描けるんだものね。僕は少なくもとそう思うよ」
聡は僕の言葉に困ったように微笑んだだけで何も答えなかった。
小学校五年生の夏休みの少し前に聡は引っ越していった。聡のお父さんとお母さんが離婚することになって、聡はお母さんの実家に行くことになったようだった。
引っ越しの日、僕は聡のアパートまで見送りにいった。そのとき、聡は僕に自分の描いた絵をプレゼントしてくれた。僕が記念に聡の絵が欲しいと言ったのだ。僕の描いた絵なんてもらったって仕方ないだろうと聡は呆れるように笑って言ったけれど、僕がどうしても欲しいのだと言うと、聡もそういうことであればと言って描いてくれることになった。
聡が僕のために描いてくれた絵は、道端に咲いた淡い青色の草の花を描いたものだった。微かに金色の色素を含んだ日の光を浴びて、道端に咲いたその花は気持ち良さそうに花を咲かせている。少し強い風に吹かれて、その身体をいくらか寒そうに振るわせながら。
聡とは彼が引っ越していってから一度も会っていない。聡が引っ越してからしばらくのあいだは手紙のやりとりをしていたけれど、いつの間にか疎遠になってしまった。聡は今でも絵を書き続けているのだろうかと思う。聡が僕のために描いてくれた絵は今でも大切に持っていて、僕の部屋に飾ってある。何か上手いことがあって落ち込むことがあると、僕はその絵を眺めて時間を過ごす。