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 さて小説を書こう。そう勢いづいてパソコンを起動させたのはいいものの、何も良いアイデァが浮かばなかった。さっきからかれこれ三十分近くワードの画面は空白のままである。うーん。


 やっと念願だったらいくらでも小説に集中することができる時間を手にすることができたというのに、これでは何の意味もない。僕は軽くため息をついてからパソコンをシャットダウンした。


 気分転換にコーヒーでもいれることにする。廊下に備え付けられている格好の狭いにキッチンに行き、コーヒーをいれる準備をする。


 紙のフィルターに既に牽いて粉にしてあるコーヒー豆をいれる。それからコーヒーメーカーにコップ二杯ぶんくらいの水をいれてスイッチをいれる。少しの沈黙のあとにコーヒーメーカーが水を吸い込んでいく音が聞こえはじめ、やがて蒸気が噴出する威勢の良い音ともに抽出されたコーヒーがサーバーに少しずつたまっていく。僕は腕組しながらぼんやりとそのコーヒーが溜まっていく様子を眺めた。


 僕は昨日づけで勤めていた会社を辞めた。何故かというと、仕事があまりにも忙しすぎたからだ。僕が勤めていたのは派遣会社で、仕事内容は営業だった。電話で色んな会社に片っ端から電話をかけてアポイントを取り、なんとかアポイントを取ることができたそのた会社に出向いて営業をするといった仕事内容。付け加えて自分の会社に登録しているスタッフの管理と契約してもらっている会社との連絡係り。登録しているスタッフは突然休みたいと言い出すし(休まれると代わりに働いてくれるひとを見つけなければならないし、そんなに急に代わりのスタッフはみつからない。本来来ることになっているはずのスタッフが来なければ当然クレームになる)、契約している会社は会社で急な変更を当たり前のようにしてくる。ほんとうにもうくたくただった。毎日毎日イレギュラーの連続。週に二日もらえるはずの休みは一カ月に一回か二回程度しかもらえず、しかも毎日のように夜遅くまで残業が続いた。残業代は出ないに等しい状態だったし、意味のない規則(たとえば自分がその日どういった仕事をしたのかの細かい報告書、明日の行動予定)や、体育会系のノリが好きになれなかった。全ては本人のやる気、意識の問題にあるのだといった考え方。そういったもろもろが嫌で僕は会社を辞めた。あるいはひとによっては根性が足りないとか、もっと頑張って続けみなければわからないとか色々思うのかもしれないけれど、とにかく、僕はもう限界だった。それに僕の本来のやりたいことは小説を書くことなのだ。



 僕は大学の頃から小説を書き始めていてずっとプロの小説家になりたいと思っていた。ほんとうは大学を卒業したあともアルバイトをしながら小説を書くつもりでいたのだけれど、周囲の人間に猛反対されて(フリーターだと将来のことが不安だし、そもそもプロの小説家になんてなれるわけがないだろうと言われた。まあそうかもれしないけど、でも)、仕方なく、まあ、一度くらいは社会に出てみるのも悪くないと思ったので就職した。でも、結果はさきに述べた通りである。就職したばかりの頃はまだ比較的休みも取れていたし、その休みの時間を使って小説を書くこともできていたのだけれど、そのうちに仕事に忙殺されるようになっていて小説どころではなくなってしまった。たまの休みの日は疲れ切っていて際限なく眠ってしまう。


 というわけで僕は会社を辞めた。そして念願だった小説を書く時間を手にいれた。それなのに、なのに、なのに、書けない。全くといっていいほどアイデアが浮かばない。ここしばらく小説を書いていなかったからだろうか。

僕がそんなことを徒然と考えていると、いつの間にかコーヒーは出来上がっていた。僕は出来上がったコーヒーを赤いマクガップ入れると、それを持って部屋に戻りソファーに腰かけた。


 口に含んだコーヒーは大変よくできましたと花丸をつけてたくなるくらいの出来栄えだった。僕は下戸でお酒を全く飲むことができないので、唯一の楽しみがコーヒーを飲むことだったりする。コーヒー豆の専門店に行っては色んな豆を試している。今のところ個人的に一番美味しいと思うのはマンデリンだ。


 いつの間に降り出したのか、部屋の外に雨が降る音が聞こえた。激しく降る雨ではなく、世界をやわらかく濡らしていくような感じのする雨音だ。僕は聞こえてくる雨音に耳を澄ませた。そしてそうしているうちに意識の中心に何か物語の原型のようものが浮かんでくるのを感じた。薄く白い靄のなかに卵のような形をした物語の姿が見える。僕はその卵に手を伸ばそうとした。でも、その瞬間に、卵は濃い霧につつまれて僕はその居場所を見失ってしまった。携帯の着信音が鳴ったのである。


「なに?」

 僕は多少むっとした声で電話に出た。せっかく良いアイデアが浮かびかけたというのに台無しである。


「何?機嫌悪い?」

 僕に電話をかけてきたのは大学からの付き合いである武藤正弘だった。同い年で、ゼミが一緒だったことから親しくなった。大学を卒業してからもときどき定期的会っている。


「今、やっと調子がでてきたところだったんだよ」

 僕は抗議して言った。

「良い小説のアイデアが浮かびかけたところだったんだ」

「わりい。わりい」

 武藤はあまり悪いとは思っていない口調で謝った。


「お前さ、もう会社辞めてんだろ?」

武藤は続けて言った。僕は以前武藤と話したときに会社を辞めてしばらく小説に集中することにしたことを話していた。僕はそうだけどと頷いた。

「今さ、吉祥寺にいるんだよ。それでさ、ばったり大学のときの友達と会ってさ、喫茶店で話してるんだけど、良かったらお前も来ない?」


「友達って?」

 僕は確認してみた。すると、武藤は池田雄介だと告げた。

「池田くんか」

 僕は懐かしく思った。池田雄介とは大学のときにやはりゼミが同じだった。プライベートで遊びにいったりするほど仲が良かったわけではないけれど、大学の構内で会えばいつも話をしていたし、それなりに親しくしていた。大学を卒業してからはすっかり疎遠になってしまっていたけれど。


「わかった。今から行くよ」

 僕は言った。それから僕は武藤と池田くんが居る喫茶店を確認するとまたあとで言って電話を切った。



 僕は急いで着替えを済ませると傘をさしてバス亭まで向かい、やがてやってきたバスに乗って吉祥寺まで向かった。雨のせいかバスはいつもよりもかなり込み合っていた。


 吉祥寺は雨だというのに混雑していた。喫茶店までの道のりを歩きながらそういえば今日は祝日だったと今更のように気が付いた。


 僕が指定された喫茶店に入り、ふたりはどこにいるのだろうと周囲をきょろきょろと見回していると、どうやらさきに武藤の方が僕のことを見つけたようで「こっち。こっち」と、こちらが恥ずかしくなるくらいの大声で武藤が僕のことを呼んだ。声の聞こえた方を見てみると、奥のソファー席に武藤と池田くんの姿があった。それからひとりの女性の姿も。


 誰だろうと思ってよく見てみると、それは南さんだった。南理恵さん。僕は彼女の姿を一目見た瞬間、鼓動が早くなるのを感じた。南さんともやはりゼミでクラスが一緒だった。これは誰にも言っていないことだけれど、僕は密かに南さんに憧れていた。僕はお世辞にもハンサムとはいえないし、はっきり言って持てるタイプではない。だから、もし僕のような人間が南さんのことを好きだなんて言ったりしたら身の程を知れとみんなに笑われると思うけれど(南さんは僕とは不釣り合いなほどかわいい)でも、感情は自分の意志ではどうにもならないし、それに密かに憧れているだけなので問題はないだろう。僕にだって誰かを好きになる権利くらいはあると思う。


 僕は三人が座っているソファー席まで歩いていくと、空いている席に腰を下ろした。思いがけず南さんがいて嬉しく思う反面、すごく緊張した。


「休みのところ、急に呼び出してごめんね」

 池田くんは僕の顔を見ると、久しぶりと言ってからにこやかな表情で言った。

 僕は池田くんの科白に曖昧な笑顔で首を振った。

「どうせ暇で退屈してたところだから」

「そうだよ。どうせこいつ今無職で暇なんだよ」

 武藤が茶化した。


「藤田くん、無職なの?」

 武藤の隣の席に腰かけた南さんがもともと大きな目をさらに大きくして僕の顔を見た。僕は苦笑してつい最近会社を辞めたことを説明した。

「こいつ小説家目指すんだってさ」

 武藤が頼んでもいないのに言った。僕はこれまで自分が小説家になりたいと思っていることはごく親しい身内の人間にしか打ち明けていなかった。


「すごいね」

 池田くんが驚いたいというよりは感心した様子で僕の顔を見た。

「藤田くん、大学のとき、小説書いてるなんて言ってなかったよね?」

 南さんもすっかり感激している声で言った。僕はみんなに大きな誤解を与えてしまったようで申し訳ない気持ちになった。


「いや、まだ目指してる段階で、小説家のしょの字もない状態だからね」

 僕は赤面して言った。

「いや、でもすごいよ」

「わたし、サインもらっとこうかな」

 南さんも僕が困っているのをすっかり楽しんでいる様子で言った。


「だけど、今日はどうしたの?」

 と、僕は話題を変えて訊ねてみた。

「南さんがいるなんて知らなかったらちょっとびっくりしたけど」

「久しぶりだよね」

 南さんは僕の科白ににっこりと微笑んで言った。

「大学を卒業してからだから四年ぶりくらい?」


「ああ、言ってなかったけ?池田と南さんが一緒にいるところに俺がばったり会ったんだよ。それで久しぶりだし、話してでもしようってことになってさ」

 武藤がなんでもなさそうに言った。

「なるほど」

 僕は注文取りに来たウェイトレスの女の子にアイスコーヒーを注文した。


「わたし、最近までイギリスに旅行に行ってて、戻ってきたらその旅行の写真を池田くんに見せる約束になってたの。それで今日会う約束してたんだけど、そしたらそこで武藤くんとばったり会って」

 南さんが補足して言った。


「へー。イギリス」

 僕は感心しているふりをしながら、プライベートで会っているなんて池田くんと南さんは付き合っているのかなと少し嫉妬の交じった悲しい気持ちで思った。でも、池田くんはなかなか整った顔立ちをしているし、オシャレだし、全然不自然じゃないなとも思った。


「実は俺も来月イギリスに旅行に行く予定なんだ。だから、南さんに色々イギリスのこととか教えてもおうと思って」

 池田くんが南さんの言葉のあとに続けた。


「だげと、池田と南さんがそんな仲良かったなんて知らなかったよ。なに?ふたりは付き合ってるの?」

 武藤がからかような口調で言った。


 すると、池田くんと南さんのふたりは顔を見合わせると笑って否定した。なんでもふたりが説明してくれたところによると、ふたりは大学のときに同じサークルに所属していて、大学を卒業してからもときどき会ったりしているようだった。


「ちなみに、南さんには大学のときから長く付き合っている年上の彼氏がいるよ」

 と、池田くんは南さんの顔を見ると、微笑して言った。

「背が高くてなかなかカッコいいひとだよ。もしかしたら近いうちに結婚するかもしれないって」


「そんなにべらべら喋らないでよ」

 と、南さんは顔を赤らめて言った。

「へー。結婚かー」

 僕は南さんの顔を見て言った。思った通りではあるけれど、やはり南さんにはちゃんとした恋人がいたのだ。しかも、結婚を目前に控えたひとが。僕は南さんと付き合うための努力を全くしていないのにこんなことを思うなんてバカバカしい話ではあるけれど、でも、かなりのダメージを受けた。自分の身体が暗闇のなかに沈んでいくような感覚を感じた。


「まだ全然正式に決まったわけじゃないから」

 南さんは僕の顔を見ると困ったような笑顔で言った。

「でも、結婚できるといいね」

 と、僕は落胆を隠して言った。それに南さんが幸せになれれば良いと思ったのは本当のことでもある。南さんは僕の科白にほんの少し口角をあげた。でも、それはどこか寂しそうな笑顔にも思えた。


「だけど、結婚かー」

 それまで黙っていた武藤がしみじみとした口調で言った。

 僕はやっと運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れてかき混ぜ、一口飲んだ。


「俺たちも今年でもう二十六歳だからね」

 池田くんが言い含めるような口調で言った。

「地元の友達はもうほとんどのひとが結婚してるよ。俺の地元って田舎だから。みんな早くて」


「でも、自分がまさかほんとうに二十六歳になることがあるなんて思わなかったけどな」

 武藤は腕組みするとつくづく納得できないという表情で言った。

「ほんとに」

 池田くんは武藤の科白に可笑しそうに軽く笑った。

「確かに内面的な部分って大学の頃とほとんど何も変わってない気がするもんね」

 南さんも口元を綻ばせて言った。


「池田も結婚とか考えてるの?」

 と、武藤は池田くんの顔を見ると唐突に訊ねた。

「いや、まだ結婚は考えてないよ」

 と、池田くん困ったような笑顔で答えた。

「今、つき合ってるひとのことは好きだけどね」

 池田くんは弁解するように付け加えて言った。僕は池田くんの科白を聞きながら、やはり池田くんにはつき合っているひとがいるんだと軽い劣等感を感じた。


「そういう武藤くんはどうなの?それに藤田くんも?近いうちに結婚したりとか?」

「まさか俺たちにそんなことがあるわけないだろ」

 と、武藤が代表して答えた。僕はすぐにでもその武藤の科白を否定したかったけれど、残念ながらそれは事実だった。


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