表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

短編集Ⅲ

やわらかく落ちていく

作者: 有里

「……秋彦、……俺、もうダメかも」

 留守番電話に残された声が、頭から離れなかった。

 尾崎秋彦は、何とか定時で仕事を切り上げると、ユニフォームも着替えずに荷物を引っ掴み、慌てて車に飛び乗った。鍵を回してシートベルトを付けながら、携帯電話を取り出してコールを鳴らす。しかし何度鳴らしても、電話には出ない。秋彦は舌打ちを漏らして、携帯電話を助手席に投げ付けた。

 赤信号と横断歩道を渡る人たちを交互に見詰めながら、じとりと背中に汗をかくような、嫌な予感でいっぱいになる。月初めは落ち着いていたけれど、ここ一週間は明らかに躁状態だった。それがうつ転したのだろうか。留守電の、焦点が定まらないような弱々しい声が、不安を煽る。ODしていなければいいけれど――…ハンドルを握り締めたり離したり、指先を頻りに動かしながら、秋彦は前方を睨みつけていた。

「――眞也!」

 アパートの古い階段を駆け上がって、突き当たりのドアに鍵を差し込んで、転げるように部屋に入る。リュックや上着などは玄関を入ってすぐに床に放った。騒々しく大きな物音を立てながら、秋彦は寝室へ飛び込んだ。

 ベッドサイドの灯りが、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。クローゼットやデスクの引き出しなど、全てが開かれていて、床にはあちこちと物が散乱していた。それらを見渡し、探したんだな…と冷静に思いながら、セミダブルのベッドに横たわる人物を見詰める。秋彦は息を整えながら、静かに、その傍へ近寄った。

 呼吸はしている。脈拍も正常だ。バイタル上は問題はない。顔色もそう、悪くはない。足元や枕元に散らばった薬の包装袋の数では、救急車を呼ぶ必要はないだろう。そう判断して、秋彦は背負っていた重い荷物を下ろした時のようにほっと、脱力した。緊張がぷつりと切れて、その代わりにひどい疲労感が、体中を巡る。

 その場にへたり込むように腰を下ろすと、秋彦はベッドに肘をついて、まるで心配事も何もなかったかのように眠るあどけない男の表情を眺めた。いまは瞼で覆われているが、目元が印象的な、綺麗な顔をした男だ。

 赤茶の髪を撫でつけて、彼の頬にそっと口付けて、秋彦は寝室を出た。


 双極性障害を患う土屋眞也とは、二年の付き合いになる。出会ったのは新宿にあるバーだ。はじめはお互い、“都合の良い”相手だった。それぞれパートナーもいた。しかしそれからすぐ、秋彦は付き合っていたパートナーと別れて、少しして眞也もパートナーと別れたらしいと知って、ふたりして「同じだ」と笑い合ったのだ。はきはきと元気の良い少年のような眞也は、甘え上手で、人懐こい笑顔が素敵だと秋彦は思っていた。

 しかし付き合い始めて、眞也が精神的に不安定であると、秋彦は知った。躁うつ病の人間と関わるのも、初めてのことだった。介護福祉士として老人保健施設に勤める秋彦は、職業柄、精神障害についての勉強もしてきた。しかしその知識は、あくまでも教科書上の知識でしかない。その上、たとえ利用者の中に精神障害者がいても、対象は高齢者である。若者の精神障害者と、高齢者へのケアとはまた異なるのだ。

 いま思い返せば、出会った時のあれは躁状態だったんだろうと秋彦は思う。眞也は躁状態になると、金銭面でルーズになり、特に性的に奔放になる。顔も覚えていない一夜限りの人間なんて、それは何十何百といただろう。秋彦も、その中のひとりだったはずだ。

 何しろ――あの時の乱れ方は、秋彦をとことん夢中にさせた。貪欲で、大胆で、欲望に正直で。ただ、快楽しか求めていない眞也は、清々しく、嫌らしく、強烈だった。それこそ、秋彦は三年も付き合ったパートナーに魅力を感じなくなるほどに。

「秋彦、……ごめん。俺、……また迷惑かけた、ね」

 食事を済ませ、シャワーを浴びて寝室へ戻った秋彦に、うつらうつらと瞼を持ち上げた眞也は、たどたどしい口調で言った。酒を飲んだように呂律の回らない言葉は、半分以上は聞き取れない。秋彦はじっと眞也の視線を受け止めて、彼の表情を見詰めた。

「こんなんじゃ…おれ、最悪、……」

「いいから、寝てろよ。明日は夜勤だから、昼までずっと一緒にいるから。優子さんに連絡しておく。明日、家まで送っていくから」

 眞也は聞いているのか聞いていないのか、無言のまま、閉ざした瞼を小さく震わせた。

 うつ状態になると、眞也の場合――秋彦が付き合いだしての期間のことだが、特に希死念慮(きしねんりょ)がひどかった。何だか分からないが、眞也は事あるごとに“死ななくちゃ”ならない気分になるようだ。秋彦にとっては些細な悩み事でも、眞也の思考は必ず“死”に繋がる。

 実行に移すことは少ないが、秋彦が付き添っていられない日には、眞也を彼の実家へ帰らせることにしていた。彼の母親も病気についてはある程度理解しているらしく、自分以外に眞也を見守る人間がいてくれることに、秋彦も安堵を感じていた。

「仕事の帰りに、寄るよ」

 秋彦が宥めるように囁き、髪を撫でる。眞也は眉間の皺を少しだけ和らげた。

 再び眠りについた眞也から、ベッドサイドに散らばった錠剤へ視線を移す。小分けに保管していて良かったと、秋彦は思った。

 処方されていた睡眠導入剤や精神安定剤などを大量に服用してしまう虞もあって、薬の管理は秋彦の役目だった。一日に飲む分だけを出して、残りは眞也に見付からない場所に隠しておくのが常だった。今回、いくつかの隠し場所から薬を見付けたようだったが、そのほとんどが効果の弱い薬であったから、この程度で済んだのだろう。また隠し場所、考えなくちゃ――…秋彦は自分の腕に頭を乗せて、吐息をついた。

「でもね――秋彦さんと知り合ってから、あの子、だいぶ落ち着いたんですよ」

 秋彦は仕事を終えた帰りに、眞也の実家に立ち寄った。あれから眞也は、彼の実家で過ごしている。洗濯をしたり掃除をしたり、活動的になる日もあれば、風呂にさえ入れなくなる日もある。秋彦が立ち寄っても、会えない日もある。――今日もそうだ。眞也の母親から、彼の様子を聞いて、秋彦はメールだけでもしておきます、と神妙に頷く。

「今回はそう長く続くものじゃないと思うの。そろそろ秋彦さんのところに帰りたいって言っているし」

「金曜が休みなので、眞也に来れるかどうか聞いてみます。俺も、来てもらえれば嬉しいんだけど」

 眞也の母親は、ありがとうね、秋彦さん、と小さく頭を下げた。

 自宅へ戻りながら、秋彦は眞也のことを思う。

 眞也はいつも、秋彦に迷惑を掛けると泣いているが、秋彦は、自分こそ彼の重荷になっているような気がしてならない。一番辛い時に代わってやりたいと思うのに、秋彦には眞也の苦しみが分からないし、何の力になることもできないのだ。眞也はそういう時のことを、自分の体が自分のものじゃないみたいだと言っていた。動きたくても、どうしてか、動けなくなってしまうのだという。

「お前の為に何ができるんだろう…」

 肩に凭れるように寄り掛かる眞也の髪を撫で、秋彦は思わず呟いた。眞也が観たいと言って借りていた映画のエンドロールを眺めながら、秋彦の思考は映画とは違った場所で彷徨っていた。

 眞也は華奢な体を起こして、意外そうに目を丸くした。そしてそっと、目を細める。

「秋彦が、知ってくれてるだけでいい。…――俺が辛い時に、俺が辛いんだってあんたが知ってくれていれば、それでいいよ」

 そう言って、眞也は幸せそうに笑う。秋彦は堪らず、眞也の体を抱き寄せた。

「眞也が一番苦しい時に、俺が代われればいいのに……」

 そんなことしなくていい、と小さく呟いて、眞也は秋彦の胸に顔を押し付けた。小さい子供がするように、一心にぎゅ、と体に抱き付く。

「でも、ありがと。それって、おもしろいかもね。俺、秋彦になったら、秋彦の仕事場に行ってみたい」

 ナースコールが鳴り響き、利用者の介助に追われ、目が回りそうなほど騒然とした中で、泣き出しそうな眞也の顔が思い浮かべられる。その光景がまるで目の前に見えるようで、秋彦は笑った。たとえば秋彦の体を借りて眞也が出勤したら、それはそれは大変なことになる。調子の良い時には作曲の仕事をしていた眞也は、音楽のプロではあるが、介護のプロではない。

 眞也も同じことを考えたのか、秋彦の顔を見上げて、俺、楽器とパソコンしか使えないけどさ…と顔を顰めた。

「はは、それならキーボード弾いてればいいよ。フロアにあるんだ。レクリエーションで歌とかもやるから、何か演奏してくれたら助かるよ」

 逆に俺が眞也になったら、なんにもできないや、と秋彦は思った。

「眞也みたいに音楽ができる訳でもないし、家のことくらいならやっておけるけど、料理はダメだな……」

「いいよ、多少焦げてても、味が濃くても、許してあげる」

 秋彦と眞也は顔を見合わせて、同じようににこりと笑った。



・ここに記した「双極性障害」について、症状には個人差があり、彼の例が典型ではありません。作者のごく個人的な経験から、書かせて頂きました。

・OD=オーバードース、過量服薬。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] いいね~ [気になる点] 特になし [一言] 俺のもぜひ!! 題名、マーラシア
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ