序章
僕の人生を三つの語で表すとしたら逃避、妥協、甘えであり、またその繰り返しだったように思う。
決して楽をして生きていこうとしていた訳じゃない。自分のやりたいことを見つけ、夢を、希望を追いかけていた時もあった。だが、それは本当にやりたいことであったのだろうか。その夢を叶えようとして挫折し、大きな壁の前で呆然としている今の僕にはそれがわからない。
数ヵ月前まで、昨日まで、今の今まで僕はひたすら無我夢中にその壁を越えようとしていた。しかしその壁が本当に上るべき壁なのかという疑念が心に宿ったとき、壁をつかもうとするその手は空を切った。
そして僕は落ちた。
落ちて、堕ちて、堕落した。
また壁の下へと引き戻され、右往左往とすることもできず、動けずにいた。
いや、動かずにいた。
輝かしい未来など目の前にはない。目の前どころか何処を見渡してもなかった。
あるのは心のなかに残った圧倒的な空虚感だけだった。
だが夢がないというだけで取り立てて不幸があるというわけでもなかった。身内は健康であるし、家が生活ができないというほど貧しいわけでもない。むしろ収入でいうなら一般世帯よりも多いくらいだろう。
誰かにいじめを受けてきたわけでもないし、目立って友達が少なかったわけでもなかった。
だがそれがなんだというのだろう。
それで僕は幸せだといえるのだろうか。
相対的にみれば僕は幸せな部類に入るのかもしれない。
今日の食事にも困っているような人に比べれば、自分の夢を叶えたくても経済的な理由でその道が閉ざされている人に比べれば、不治の病で余命数ヵ月と宣告されているような人に比べれば、
僕は幸せなのかもしれない。
だから僕は甘いと言われるのかもしれない。
きっとその通りなのだろう。夢がないくらいで、たかがそれだけで不幸を主張するとは何事か。
そのくらいの人間はいくらでもいる。自分のやりたいことをやって生きていける人間などごくわずかしかいない。
これは人生の激しい競争のなかを勝ち抜いてきた勝者の、父親からの言葉だった。
でもそれがなんだというのだろう。ならば僕はやりたくないことのために身を捧げ、やりたくないことのために時間を浪費し、やりたくないことのために死んでゆくのだろうか。
だとしたらお父さん、それはあまりにも無責任じゃないですか?あなたはこの世のなかに生きていくことは苦しいことばかりであるのに一人の人間を産み落としたのですか?あなたは自分が幸せでもないのに自分の子供を育てようと思ったときに、その子を幸せにしようなどと思っていたのですか?
あなたは本当に子供の幸せを願っているのですか?
ならば僕はそんな人達の提唱する人生など嫌だ。幸せを求めることを許されないあなたたちの言うような生き方は、甘受できるものでは決してない。でも、だからといって明確な目標があるわけでもなかった。自分の描く幸せと言うものが見えているわけではなかった。
ああやはり甘えだ。僕はきっととても弱い人間なのだろう。確かにそうなのだ。父親にも同じことを言われた。
だから僕は逃げた。
今まで繰り返してきたように。
あらゆる問題から目を背け、あらゆる人から目を背けた。
そして今は僕のことを知っているものがいないであろう、隣町まで来ている。
そこで僕は出会った。
一人の幽霊に。