07 : どうしようもない深み。3
リヒトに自主勉強を言い渡したあと、マルは足早に転移門へ向かう。
女王に呪いがかけられたという事件そのものは解決しているが、マルが本業としている仕事はそのあとから始まる。魔導師が魔導師で在り続けるために、マルはその仕事を若い頃から任されてきた。
転移門でまずは王宮へ赴き、事件の当事者たる女王のもとへ行こうと思ったが、途中で気が変わってくるりと踵を返す。この事件で暴れたという王子の父、つまり王配の同胞、堅氷の魔導師カヤを見かけたからだ。
「堅氷」
「……、水萍?」
中庭でふらふらしていたカヤは、魔導師のそれではなく、王配の衣装を着ていた。おそらく着せられたのだろう。煌びやかというわけではないが、後ろに撫でつけた真っ白な髪を美しく見せる黒い王衣は、堅氷と渾名されるだけある玲瓏さを静かに伝えてくる。上手くカヤを表現している衣装だ。
「きみを王城で見かけるのはかなり久しぶりだ」
「……おれも、あなたが王城にいるのを見たのは数年ぶりだ」
考えごとでもしていたのか、カヤの手には紙煙草があった。ちょうど吸い終わったところのようで、マルが話しかけると灰皿に火種を落とし、マルに飲むかと訊いてくる。嗜みはあるものの気分ではなかったので遠慮すると、カヤは続けざまに新しい紙煙草に火を灯した。
「……苛ついているようだな」
「そう見えるか」
「人前で煙草とは、きみにしては珍しい」
「……そうかもしれないな」
紫煙を吐き出し、無表情の顔がマルから反らされる。
マルも随分と表情のない魔導師だが、カヤはそれを上回る鉄面皮だ。妻たる女王の前以外で笑っているところなど、マルは見たことがない。いつもなにも考えていないような顔をしていて、それでいて最強と謳われるだけの力を見せては、周囲に畏怖されている魔導師だ。
「聞いたのか」
最初にそれを口にしたのは、カヤだった。
「聞いた。大変だったな」
「……それで済めばよかったがな」
剣呑な空気に、そういえば詳細は聞かされていないなと、マルは事情を訊くことにした。
「殿下が暴れられたと、師団長から聞いた」
「腹が立ったらしい」
「……珍しいな」
「裏切られたと感じたんだろう。だから余計に腹が立つ」
「裏切り……ね」
予想外な言葉が出てきた。それはつまり、信頼していた者が女王に刃を向けた犯人だということである。
「あなたが来たのなら、今回は雷雲ではなく、あなたが審判することになるか」
「王佐が荒れていては、弟の雷雲がそれに私情を挟まないとは限らない」
「まあ、雷雲では……だが、あなたが動くとなると、もはや審判などせずとも裁きは下されたようなものだな」
「……わたしは加減ができないからな」
「できれば穏便に済ませたいのだが、できないか」
「穏便に?」
「誰が犯人か、あなたが動くということは、言わずともわかるだろう」
マルが動く、というのはそれほどまでに影響がある。カヤはそう言うが、マル自身はそれほど重きを感じていない。若い魔導師に任せるよりも、歳嵩のあるマルのほうが、今回はよいだろうとされただけだと思っている。
「誰が、陛下に刃を向けた?」
渋らずに教えろ、とマルは問う。ここで言い渋っても、魔導師団長に任された以上、マルが動くというのは確定だ。カヤが答えずとも誰かに答えをもらうことはできるが、「裏切り」にあったというのに「穏便に」と珍しいことを口にしたくらいだから、カヤはマルに温情を求めている。できるだけその思いには答えようと、マルにもそれくらいの気持ちはあった。
「ケルビム・セウリオ」
言いたくなさげにしながらも、カヤはぼぞりをその名を口にする。
瞬間的にマルは目を丸くした。
「宰相閣下だと?」
「ああ」
「忠臣の代表格だぞ」
「おれの結界に綻びができることを知っているのは、その忠臣の中でも、王佐のシャンテを除けば宰相だけだ」
知っていることが決定的な証拠になったと、カヤは忌々しげに煙草を吸い、そして紫煙を吐き出す。
なんてことだと、マルも深々とため息をついた。これでは確かに、マルが動くほかない。
「王佐が荒れるのもわかる……雷雲では駄目だ。確実に王佐に引き摺られる」
「それ以前に、あなたでなければならなかったかも、しれない」
「わたしは単に加減ができないだけの、落ちこぼれの魔導師だ」
「あれだけの力を持ちながら?」
「過大評価だ。とにかく、セウリオ閣下か……厄介だな」
「……水萍」
「ん?」
「おれが言えたことではないが……」
わかっている、とマルはカヤの言葉を汲み取り、腕を組んで考える。
まさか、女王ユゥリアに刃を向けたのが、もっとも信頼され忠臣であった宰相であったとは、これは思った以上の事件だ。カヤに喧嘩を売った、という格の可愛さではない。命知らずな、という格のものでもない。
女王の御世に、宰相はいったい、なにを不満に思ったのだろう。
「幇助したのは誰だ」
「……言わなければ駄目か」
「わたしが、魔導師が動くのだぞ」
魔導師は国防の要ではあるが、それは天候の変化が激しく災害が多いこの国で、自然災害から国を護るという意味合いが大きい。それ以外で魔導師が動くとしたら、自分たち魔導師に関してのことだけだ。
「魔導師の罪を裁く魔導師、か……今さらだな」
「愚かな魔導師は、どこに隠れている?」
「あれはもはや、魔導師ではない」
「……、なに?」
「呪術師だ」
瞬間的に、マルは黙った。いや、言葉を紡ごうとして咽喉が引き攣った。
呪術師、とは、魔導師から堕ちた者のことを言う。万緑を味方にし、囚われる魔導師には、唯一つの自由が与えられるのだが、それを突発的に失ったり奪われたりした際、稀に「堕ちる」者がいるのだ。言い方を変えると、「あちら側へ渡る者」と呼ばれ、堕ちた魔導師は呪術師になる。
「また……生じたのか」
かつて、あちら側へ渡ってしまった、魔導師がいる。守護者の名を継いでいたその者は、だが死ぬまで、呪術師に堕ちていたと気づかれることはなかった。
マルはその人をよく知っている。
呪術師であると気づかれぬまま死んだ理由も、知っている。
「だからあなたである必要があるかもしれない、水萍……いや、ヒュエス」
カヤが、気遣うような目で、マルを見ていた。カヤの深い森色の双眸は、そういえばリヒトと同じ色だ。その色を見ていると安心する。懐かしくなる。いとしささえ感じる。
だから口を動かせた。冷静さを取り戻すかのように、拳を握ることができた。
「……なぜ、堕ちた」
返ってくる答えはわかっていた。それでも、訊かずにはおれない。
魔導師から堕ち、呪術師になり、その関心を万緑から異界へと向けてしまった理由を、マルは知らなければならなかった。
「気づいたときにはもう、手遅れだった」
カヤの視線が、紙煙草の火種を消すために灰皿へ注がれる。ゆっくりと火種をもみ消し、再びマルを見やってきたとき、カヤの双眸はひどく悲しげに光っていた。
「どうしようもない深みから抜け出せず、そればかりを求め、禁術に手を出した。それは誓約の破棄宣言、戒めの鎖は発動する。手足をもがれるような痛みさえも、求める声には敵わなかった。けっきょく願いは憎悪に変換される」
なあヒュー、とカヤは小首を傾げる。
「おれたちは簡単に堕ちる。あちらへ渡ることは、造作もない。そう思わないか?」
問いに、マルは目を伏せた。
「そうか……やはり、そうなるか」
「ヒュー」
「…………」
「助けてやってくれ」
ゆっくりと視線をカヤに戻し、その真っ直ぐな双眸にマルは目を細める。真摯な語りかけだった。
「魔導師があちら側へ渡る理由は、唯一つだ。あなたはそれをよく知っている」
「……だから、助けろと?」
「あなたしか呪術師は救えない」
それこそ過大評価だと、マルは苦笑しながら肩を竦める。
「未だ昇華できぬと、師団長に呆れられたばかりだ。わたしに誰かを救う力などない。わたしにできるのは……その罪を裁くことだけだ」
「ヒュー」
「やめなさい。わたしには、きみにそう呼ばれる資格すらない。わたしは……救えなかったのだから」
「ヒュー」
やめろと言っているのに、カヤは諦めが悪い。なんて優しいのだろうと、マルは苦い笑みを浮かべたままため息をついた。
「そんなにわたしを気遣う必要はない」
いいから、と遠慮するも、カヤは首を左右に振る。
「あなたこそ、おれを気遣うな」
「そうでもない」
「ヒュー、間違えないでくれ」
「……なにを?」
「おれはガディアンの名を継いだ。だが、その資格はあなたにもあったんだ。それだけは、間違えないでくれ」
またなにを言うのだと、そんなことを軽々しく口にするものではないと、マルがそう告げようと口を開くと、カヤはまた首を左右に振った。
「おれはヒューの強さを知っている」
そう言うと、カヤはふらりと動き出し、マルに背を向けた。
立ち去るカヤの後ろ姿を、消えるまで追いかけて、マルは深々と息を吐き出す。
「どうも今回ばかりは、気が重いな……」
疲れを癒やすことは、しばらく無理そうだった。