06 : どうしようもない深み。2
「ま、マル……?」
追い出されるようにしてロルガルーンの執務室を出たあと、マルは廊下の壁になった。自分がおそろしく情けなくてちょっと歩けそうになかったのだ。心配してくるリヒトには悪いが、ただ情けなくて落ち込んでいるだけなので、できれば放置して欲しい。
「すまない……きみに立派な師を見つけてやれなかった」
「え? いや、あたしはマルがいいよ? うん、マルに師匠になって欲しいって、最初に言ったでしょ。マルがいいよ」
少女に慰められていることに、ますます落ち込む。
これではいけない、と思って壁から離れたが、これからのことを考えると頭が痛くてどうしようもない。とりあえず魔導師団棟が静かになっている理由たる任務があるのでそちらを片づけるが、それが終わればマルは本格的にリヒトの教育をせねばならないのだ。弟子など持ったこともなくこれまで魔導師としてやってきたのに、これはマルにとって最大の問題である。
「確認しておく」
「うん、なに?」
「きみは、読み書きができるか? 発する言葉はジェサントスの訛りが多少あるようだが」
「だいじょぶ、母さんに教わったから。働くようになってからは触れる機会が少なくて忘れちゃった言葉もあるけど」
国が大陸続きなので言語は共通している。会話が成立した時点でリヒトの言語能力は確認済みであるが、読み書きは別だ。ユシュベルでは義務教育という学校の制度が確立しているけれども、ジェサントスはそうではない。まともに教育を受けていない可能性がリヒトにはあったのだが、幸いにも識字は母親から施されたようだ。
「きみにどんな媒体が必要なのか、見極められないのだが……読み書きができるなら錬成陣は描ける。訛りがあろうとも詠唱はできる」
「うん、うん」
「だから……見て覚えてくれ」
「へ?」
「自己判断で頼む」
「それって師匠としてどうかと思うよっ?」
もっともな指摘に、肩身が狭くなる。そんなこと言われても、だから師など無理だと訴えたではないかと反論するだけではあるが、少し痛い言葉だ。
「わたしに師を求めるな」
「師匠でしょ!」
あれだけ無理だと言ったのに、ほぼ押しつけられたようなものなのだ、どちらにせよマルに師匠は無理である。
「とりあえず」
「あ、ちょ、逃げないでよ!」
少しよろめきながら、マルは廊下を進む。リヒトはもちろん追いかけてきたが、それはマルもわかっていて歩き始めたので、ついて来ることを前提に目の前の問題から逃げている。
「わたしは、先に片づけなければならない任務がある。終わればまた国境の街へ行くことになるだろう」
「あれ、戻るの?」
「もともと地層調査の任務があった」
「そうなんだ……で?」
「おそらくきみも連れて行くことになるのだが……」
「そこは迷わず連れて行こうよ! あたし弟子だよっ?」
ああなんというか、ロルガルーンがリヒトを「鳴響する娘」と言った理由がわかる。なんとなくマルもそんな感じはしていたのだが、ロルガルーンにもそう感じられたということは、もはやリヒトの渾名は確定だ。
「いろいろと教えておくことがあるだけだ」
「ああそういうこと……」
「先に片づけるべきは今与えられた任務だ。それに関してはきみを連れていくことはできない。急なことだからな。少しの間ここでおとなしくしていてくれ」
「まるであたしが落ち着きのない子どもみたいな言い方してくれるけど、マル以外に知り合いもいないあたしにどうしろって?」
「魔導師団棟の中は歩き回っていい。むしろ自由に歩き回れ」
「それってマル以外の魔導師を見つけてこの力の使い方を教われってこと?」
「そうとも言う」
「あたしの師匠はマルだ!」
元気なリヒトに、はあ、とマルはため息をつく。
「先に、言っておく」
「なに」
「暴走してくれるな」
「は?」
「わたしが死ぬ」
「? なんのこと?」
リヒトの様子からして、力が暴走することはまず考えられないが、むしろ過去に暴走していれば今ここにいないが、それでも注意しておく必要がある。魔導師という自覚を持ち、その力を制御し、使いこなせるようになれば、知識がついた分だけ暴走の範囲は大きくなり、圧し掛かってくる責任も半端ない。力の弱いマルにとって、リヒトが力を暴走させてしまったら死を覚悟するのも、リヒトの責任を軽くするためだ。
「そのうち、説明する。とにかく今は、わたしには優先すべき任務がある。師団棟を歩き回って適度に知識を拾い集めておきなさい」
「……マル、なんでそんなに師匠になるのがいやなの?」
半眼したリヒトに、マルも半眼する。
「わたしが最弱の魔導師だからだ」
「そう見えないんだけど。湖作ってたし」
「あれば別名、力の暴走と呼ぶ」
「余所見してただけなんでしょ」
「……そうとも言う」
とにもかくにも、マルは師に不向きだ。それをリヒトにはわかってもらわなければならない。至難の業になりそうだ。
「まあ……おいで」
「うん」
マルは廊下を進み、階段を上って最上階の自室に向かった。ろくに帰らないので奥の使い勝手の悪い部屋を宛がわれているが、日当たりはいいので場所的には気に入っている。あまり帰って来ない者が最上階に部屋を持つので、いつでも人気はなかった。
「マルの部屋?」
「ああ。きみはあのまま下の部屋を使うといい」
「いいの?」
「客室というわけではないからな」
「そうなんだ……備品はそのまま使っていいの?」
「そうだな。欲しいものがあれば紙に書き出しておきなさい。あとで買っておく」
「一緒に買いに行こうよ」
「暇があれば、な」
自室の部屋を開けて、扉は開けたままにしておくよう言って、中に入る。埃っぽいのは仕方ないとして、そもそも使用頻度が少ないので雑然としているが、わりと綺麗だと思う。
「意外に片づいてる……うわ、本がいっぱい」
「ああそうだ、その中に魔導師の研究書もあるから、読めるようなら読むといい。探せば辞書もある」
「ここにあたし、来てもいいの?」
「誰が入って来てもいいようにしているが?」
「あ……そ、そうなんだ」
マルがいなければ入ってはいけない部屋、とでも思ったのだろうか。リヒトは確認したあと、少し嬉しそうにして、きょろきょろと周りを見渡した。そんなに見ても、雑然とした部屋は楽しいものではないだろうに、なにが楽しいのかマルにはさっぱりだ。
冒険するように部屋を眺めるリヒトに首を傾げながら、マルは自室に戻って来た目的のものを探すため、居間から寝室のほうへと移動する。二間続きの手狭な居室だが、台所もあれば浴室もあり、ひとりで暮らすには充分な広さだ。
「マル?」
追いかけてきたリヒトに、そこで待てと言って、押入れを探って目的のものを掘り起こす。ばさりとそれを広げながら居間のほうに戻り、リヒトに渡した。
「なに?」
「外套だ」
「外套?」
「魔導師が一目で魔導師だとわかるのはなぜだ?」
「それは……決まった服があるからだよ」
あんたみたいに、と言いながら、リヒトはマルが常に着用している官服の袖を掴んだ。そうだ、とマルは頷く。
「弟子である間は、師が誰であるか一目でわかる恰好をする。それは師に弟子の面倒を看る責任があるからだ」
「と、いうことは……あたしがこの外套を着ていれば、一目でマルの弟子だってわかるんだ」
「ああ」
「ふぅん……」
洗濯はしているので綺麗な外套を、リヒトは幾度か埃を払うように叩いた。広げて羽織ったところで、どうやら目印をつけられることに反感はないらしいとマルは息をつく。鎖で繋がれるみたいでいやだ、と思う魔導師の弟子もいるようだが、リヒトはそう思う前に気づいていないだけかもしれない。
「似合う?」
黒い外套を羽織ったリヒトが、悪戯っ子のようにニッと笑う。おそらくこの少女は、マルの渾名を背負ってしまったのだという感覚がない。
困るような困らないような、微妙な気持ちを抱えながら、マルはリヒトの頭を無造作に撫でた。