05 : どうしようもない深み。1
なにか静か過ぎるとは思っていたが、その静寂はいやなものではない。
廊下を歩けばたまに見かける顔があり、すれ違えば挨拶くらいはする。
ふだんの魔導師団棟と代わりない風景だというのに、どこということなく静かで、少し不気味で、いったいこれはなんだとマルは首を傾げた。
午前中に逢うつもりでいた魔導師団長ロルガルーンに謁見が叶ったのは、妙な静寂が漂う午後も中頃のことだった。少しの間逢わないでいたうちにロルガルーンはすっかりやつれていて、なにごとかと驚いたものだ。
「なにがあった」
開口一番に、リヒトのことを話すのではなく、ロルガルーンのその様子を訊ねてしまう。それくらいに、ロルガルーンはたかだか数日で老体に無理を重ねていた。
「いや、ちょっとな……すまんな、遅くなって」
「それはかまわない。わたしがいない間になにがあった」
「おまえからの報告が先だったんだが……直後に、陛下が呪いを受けていることがわかってな。そちらにどたばたしておった」
「陛下に呪い?」
一瞬だが、その事態に目を丸くする。よくそんな命知らずなことができたものだと、ふつうに吃驚したのだ。
「ああ。幸いなことにアリヤ殿下が堅氷を見つけてな、事無きを得たわ。だがそのアリヤ殿下がな……まあよく暴れてくれたものだ」
この国ユシュベルの今の御世は、女王ユゥリアが治めている。王族の中の王族と言われている彼女の最愛の夫が、国史上最強の力を保有しながら放浪癖の強い堅氷の魔導師カヤだ。さすがに女王の危機には駆けつけたようではあるが、予想外なことにふたりの息子で王子のアリヤが、今回は大暴れしてくれたらしい。
「堅氷ではなく、殿下が、暴れたのか」
女王は堅氷の魔導師を口説き落とした強者だが、だからといって堅氷の魔導師は女王の愛に流されたわけではない。女王が並々ならぬ愛を堅氷の魔導師に注ぐのなら、堅氷の魔導師もそれない負けないくらいの愛を女王に注いでいる。表面上はそう見えないふたりだが、女王のために行方不明から一転して帰ってくる堅氷の魔導師の姿を見れば、そしてふたりの間に産まれた子どもたちを見れば、その愛の深さを知ることができるというものだ。
ゆえに、女王に呪いをかけるというその事態は、国史上最強とは伊達ではない堅氷の魔導師に喧嘩を売ったというよりも、なにを考えてその命を差し出したのだ、ということになる。女王の安否はもとより確保され揺るがないものであるので、まず女王を狙ったその理由が気がかりだ。
「どうも殿下は、陛下に呪いがかけられたということよりも、その呪いの種にひどく心を痛め」
「正直に、腹を立てていたと言ってかまわないぞ」
「……。そうだな」
「それで文字通り、暴れたのか」
「堅氷が暴れてくれたほうがまだよかったわい」
「そんなに暴れたのか」
「人のみを残し跡形もないな」
物理的に王子は暴れたらしい。力の暴走ではないのが幸いだが、理性がある分余計に凄惨を極めたのかもしれない。
「いつのことだ」
「一昨日の夜だ」
今日の静けさは、昨日が随分と騒がれたからなのだろう。
なるほど、と頷いて、マルは小首を傾げる。
「わたしも動くか?」
「そうしてくれると助かるな。ロザヴィンにだけ任せてもいられん。王佐どのがピリピリしておるせいか、あれの機嫌は最悪だ。わしの言うことも聞かん。今回はおまえのほうがよかろう」
「王佐は雷雲の兄だ、仕方ない。ではわたしが赴くとして……師団長」
「ああ、そうだったな。国境の街で、力を持つ者を見つけたのだったか」
休む暇もないな、と思いながら、とりあえずマルがこの場にいる本来の目的を果たすべく、部屋の外に待たせているリヒトを呼んだ。
「ほう……」
恐る恐る入室したリヒトは、すぐにマルを見つけてその背に隠れようとしたが、そうはさせずロルガルーンの前に立たせた。所在なさげにしていると歳相応で、やはりマル以外には警戒心があるらしく、表情が強張っている。まじまじとロルガルーンに見つめられると、居心地が悪そうに後退してきたので、逃げないようマルはその背に立った。
「混血だな。ジェサントスか」
「父親がジェサントス、母親がユシュベルの者だそうだ」
「ふむ……あまり見ない力だ」
魔導師団長の名は確かで、ロルガルーンはリヒトを見ただけでそれがわかる。さすがだなと暢気に思いながら、リヒトの力にマルは確信を持つ。
やはりリヒトは魔導師の力がある。それも魔導師団長を少し驚かせる力を持っているようだ。
「あ、あの……っ」
「娘よ、名は? わしはロルガルーン、魔導師を統括する師団長だ。そう呼ばれておる」
「リヒト・リフィール! ……です」
「ほほ、鳴り響く声だ。よいよい、元気なことだ」
ロルガルーンは見ためからして厳つい魔導師の老人だが、もともと人懐こい性格だ。好々爺、という表現が合う。人に警戒心を抱かせないところは曲者だなと思うが、楽しげに笑ったロルガルーンのその反応は、僅かだがリヒトの緊張を解したことだろう。
「よく来た。これまでその力で苦労しただろうが、なに、使い方さえ覚えてしまえば気も楽になろう」
「……あ、あたし、魔導師になれる? あ、なれますか?」
「なれるとも。いや、もはやおまえは魔導師だ。独り立ちするには時間もかかろうが、まあ案ずるな、そこの魔導師がおるからな」
ロルガルーンの軽過ぎやしないかとも思える大らかな受け入れに、リヒトはとたんに嬉しげな表情を浮かべて周りに花を咲かせた。
しかし、マルはどうも聞き捨てならない言葉が耳を突いた気がしてならない。
「師団長」
「なんだ、水萍の」
「そこの魔導師が、とは?」
「おまえ以外に誰がおる」
だよな、と思う。
ロルガルーンには補佐の魔導師がいるのだが、女王の危機があったばかりでは忙しいのだろう、この部屋にはいない。ロルガルーンもいろいろとやることがあるので、座っている席の机には書類が山積みだ。もともと人気の少ない魔導師団棟は、だから静寂さが際立っているのだろうが、しかし魔導師がすべて不在というわけでもない。誰かしらいるものだ。この部屋、ロルガルーンの執務室にはマルしかいないだけである。いや、厳密に言えばロルガルーンも魔導師であるし、リヒトも認可されたばかりであるから、マルだけが魔導師だというわけではない。
しかし、である。
そこの魔導師、と表現されるのに妥当なのは、マルしかいない。
「わたしに、彼女の師になれと?」
そんな無茶をさせる気か、と大真面目に問うと、ロルガルーンは笑った。
「最適だろう」
丸投げされた気がするのは、きっと気のせいではない。
「マルが師匠になるのっ?」
振り向いたリヒトは、案の定というか、とても嬉しそうだ。
「師団長、待て、わたしには無理だ」
「そうでもなかろう」
「あなたはわたしがどういう魔導師か」
「水萍の魔導師マナトア・ルーク=ヒュエス・ホロクロアよ、たまには地に足をつけてみろ」
ほほほ、とロルガルーンは楽しげに笑ってくれるものだ。うっかり閉口してしまう。
おそろしくどうでもいいことだが、久しぶりに自分の名前をまともに聞いた気がする。無駄に長いあれをよく憶えていたな、とも思う。
「マルの名前、そういえばシゼさんがそう呼んでたけど、そんなだったの?」
「……ああ」
「なんで教えてくれなかったの!」
「間違ってはいない。マル・ホロクロアだ」
「え?」
「名前はどうでもいい。それよりも……師団長、冗談もほどほどにしてもらいたい」
名前などおそろしくどうでもいいのだ。久しぶりに聞いたがどうでもいいのだ。
「なんだ、おまえ名乗ってもおらんかったのか」
「どうでもいい」
「面白い由来がある名前なんだがな。その話もしとらんのか」
「師団長」
面白いというだけで憶えていたらしいが、だからどうでもいいのだと、マルは目を据わらせる。
「わたしに弟子は無理だ」
「……おまえは己れを卑下し過ぎだ、水萍の。やる前から無理だと決めつけるな」
「決めつけているのではない。これは事実だ。わたしには師になれるだけの力などない」
「で、あれば、わしはおまえに『あの仕事』を任せとらんよ」
ぐ、と言葉に詰まる。そう言えばマルが黙るとわかってのロルガルーンの言葉だ。だが、黙ってもいられない。
「彼女には相応しい師をつけるべきだ」
「鳴響する娘には、おまえが相応しかろうよ」
「師団長」
なぜわかってくれないのだ、と思う。リヒトもそうだったが、無理なものは無理だと、どうして理解できないのだろう。
「わしは本心から言うておるぞ、水萍の」
「ならば無理であることも承知だろう」
「おまえは昔からそうだな……『あのこと』を、未だ悔やんでおるのか?」
瞬間的に、頭が冷えた。まさかこの場でそのことを出されるとは思わなかった。
「ほれ、隠しておるようだが、少し訊いただけでそれだ。いい加減、昇華させぬか」
呆れるというよりも憐れむようなロルガルーンの双眸に、耐えきれず俯く。そんな目で見られたくなかった。
「水萍の、よいな、鳴響する娘はおまえの弟子だ」
これは決定事項だ、と言われ、けっきょく反論することしかできず、その決定を覆すことはマルにはできなかった。