30 : 目を背けたのは自分だった。
遅くなりまして申し訳ありません。
ぱしん、という空気が張り詰めたような音がすると、とたんにリヒトはわけのわからない不安にかられた。思わず、少し俯き気味のマルに駆け寄り、その腕のなかに潜り込む。
「リヒト……」
「う……ご、ごめん、だってなんか、不安で」
寂しかったのもある。マルのそばからこんなに長く離れていたことなんてないのだ。恥ずかしい気もするが、それよりも今は、このままでいて欲しい。離れたくない。
「……ああ、封印式か。あれは隔離するものだからな」
「マル、平気なの?」
「今は。リヒトがいるから」
どきっとした。さらりとすごいことを言われた気がして、リヒトは顔を真っ赤にしながらもマルを見上げる。
相変わらず、なんでもなさそうに飄々としているマルが、恨めしい。
「もともとあまり感じない。水霊の気配も、いつも感じているわけではないんだ。違和感くらいか、あるのは」
「あたしは不安なんだけど」
「万緑と隔離された状態だからな……強制的に切り離されれば、不安にもなるだろう」
そう言いながら、マルもリヒトを包み込むように抱きしめてくる。長椅子に腰かけたあとは、リヒトは子どものようにマルの膝に座り、向かい合うようにして抱きしめ合う。
久しぶりの抱擁は、万緑と隔離された状態で不安だった気持ちを、随分と落ち着かせてくれる。
「……どうして、出てきたの」
「ああ……うん、いやになった」
「いやになった?」
「あのひとを、思い出したくなかった」
あの人、とは、マルを拒絶したマルの実父、偉大な大魔導師イーヴェのことだろう。
「怨んでいるわけでも、憎んでいるわけでもない。あのひとは可哀想なくらい、世界を嘆いていた。悲しいひとだったのだと、わかっている。だが……」
拒絶されたことが、どうしても引っかかって苦しいのだと、マルはリヒトの肩口に懐きながら吐露した。
「あのひとはいつも、わたしに母を見ていた……」
面影を重ねられるのはかまわない。けれども、存在だけは、拒絶されたくなかった。ここにいることを、知ってもらいたかった。
マルの想いは、リヒトもなんとなく、わかる。
「あたしもジェサントスで、おまえなんか人間じゃない、みたいな扱いされて……うん、悲しかったな。あたしは、あたしなのに」
ユシュベルに来て、漸く人として認められたように思う。ジェサントスも悪い国ではないが、混血のうえに魔導師の力も持ったリヒトは、受け入れてもらえなかった。それは寂しく、悲しいことだった。
マルも、そうなのだ。
寂しくて、悲しいのだ。
「最期は笑っていた。わたしを見ていたのか、母を見ていたのか……きっと、わたしではない」
「どうして?」
「あのひとを救えなかった」
「どうしてマルが救わなくちゃならなかったの」
「あのひとが……堕ちてしまっていたことを、わたしだけが、知っていたから」
「堕ちて……?」
「失っては生きられないのだと、そのとき、漸く知った」
ぎゅっと。
マルは、すがるようにリヒトを抱きしめる。心なしか震えているは、きっと気のせいではない。
「あたしはマルから離れないよ?」
「いつか失う。わたしは、無理だ」
「あたしはマルより先に逝かない。マルが逝っても追いかけない。だって、そのときには絶対に、マルがあたしにくれたものがあたしのそばにいてくれるから」
マルを宥めるように抱きしめ返し、未来を想う。
「あたしを見つけてくれたマルに、あたしが返せるお礼は、一つだけだ」
「わたしを見つけたのはきみだ」
「この際どっちでもいい。でもね、それでも、あたしはマルからもらえるものがあって、あたしがマルにあげられるものがあるの」
遠くない未来、この距離はもっと短くなる。寂しさや悲しさに震えるマルを、リヒトは少しだけ身体を離して覗き込んだ。
「マルはお父さんになるんだよ。あたしはお母さん。アノイとレムは、本当におばあちゃんとおじいちゃんになるの」
「?」
「ねえマル、あたし、マルの家族なんだよ」
「……かぞく」
「愛してる、マル。あたしの家族になって」
拒絶されたことが寂しくて悲しかったという想いが、きっとマルを強くしてくれると願って、リヒトは微笑む。
「あたしを見て、マル。あたしはずっと、マルから離れない」
「……リヒト」
「だいじょうぶ。マルには、あたしがいるんだから」
いくらでも拒絶すればいい。いくらでも否定すればいい。その分、それ以上に、リヒトはマルを自分だけのものにしていく。ほかの誰にも譲らない。
マルは、リヒトだけのマルだ。
「……最初に、目を背けたのは、自分だった」
くしゃりと泣きそうな顔になったマルが、リヒトの額に己れの額をくっつけ、懺悔する。
「わたしに伸ばされた手を、わたしは、受け入れられなかった……っ」
「マル……」
「わたしには資格がない……だが、きみは……きみは欲しい」
ほろりと、マルの目から綺麗な涙が、こぼれ落ちた。静かに流れ落ちて行く雫が、こんなにも綺麗に見えたことはない。
「マル……っ」
掻き抱くようにマルの頭を両腕に抱き、泣いてしまうくらいリヒトを欲しがってくれる寂しい人を、リヒトは力の限り包み込む。
「それでいいの。あたしを欲しがって。あたしもマルが欲しい。ううん、マルはあたしのものだ」
もうだめだ、と思う。
このひとのそばを、かたときも離れたくない。離れるべきではない。ずっと一緒にいるのだ。離れてなんかやらない、離してなんかやらない。
「ああ、リヒト」
互いに、互いしか要らない、そんな想いを抱きながら、長いことリヒトはマルを抱きしめた。
これにて終幕となります。
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津森太壱。




