29 : あのひとはもういない。
雨季だから、という理由でマルが神殿に連れて行かれ、しばらく籠もるという話をされてから一週間、リヒトはマルのいない場所で生活していた。マルとこんなに長く離れているのは、初めてのことだ。マルがいなかった頃の生活に戻れるわけもなく、マルのおかげで変わった生活は、マルがいないだけでとても不自由だった。
マルのいない生活に落ち込むリヒトを、事情をよく知らない同胞たちは慰めてくれたけれども、だからといってリヒトの気持ちが和らぐわけもなく、魔導の修行にも身が入らない。そんな状態のリヒトを、マルの代わりに実技を教えてくれているアノイは、なぜか怒らなかった。代わりに、教えてくれた。
「マルを好いている水は、雨季には、その威力が増大する」
「え……?」
「マルの周りに集中するから、隔離しなければ、被害が出る」
水霊に否応なしに好かれてしまうマルは、そのせいで起きる災害から国を護るために、神殿の奥にある封印式を使って、その異能を完全に世界から切り離すのだという。そんなことをして平気なのかと問えば、魔導師でもあるマルには少しきついだろうが、それを上回るくらいの異能が他力で抑え込まれるので、肉体的には楽な状態になるらしい。
「肉体的? 身体には影響がないってこと?」
「自分で制御しなくていい、ということほど、楽なことはない」
「それは……でも、それなら、精神的にはどうなの? マル、顔色悪かったんだけど」
「場所が、な」
「場所?」
「封印式は、もともと王族の異能を制御するための、一時的な術式だ。だから神殿にある。だがその神殿は……」
マルにとって、神殿とは、よくない記憶が残る場所なのだと、アノイは教えてくれた。
「よくない、記憶……」
「神殿に封印式がなければ、精神的にも楽だっただろう」
「……神殿になにがあるの?」
ふと、隣を歩いていたアノイの視線が、立ち止まると同時に窓の向こうへと流れる。遠いどこかを見つめるように虚空を仰いだアノイは、珍しく、そこに負の感情を乗せていた。
「存在を否定された」
「え……?」
「それだけは、してはならなかったのに……護法はマルを、わが子を否定した」
瞬間的に、リヒトは息を詰まらせる。呼吸を忘れかけたところで、込み上げた怒りのような感情に、息を吸い込んだ。
「なんで……っ」
「マルがレヒテンと、そっくりだったからだ」
「なにそれ!」
「今の姿からは想像し難いが、幼い頃のマルは、金髪だった。レヒテンの、母親の生き写しだった」
母親に似ている、とは、マル本人から聞いていた。そのせいで間違われ続けたことも、聞いた。なんでもないことのように話してくれたマルの姿は、今でも思い出せる。
愚かな問いをしてしまっていた自分に腹が立った。
なんでもないことであるわけがなかったのだ。
「嫌なこと、訊いちゃった……」
「なんだ?」
「マルに、母親似か、訊いちゃった。その……間違われたことも、聞いた」
「ああ……べつに、気にしていないと思うが」
「でも……っ」
「マルは諦めがいい。いや、早いのか」
先ほどまでの感情をどこかに置き忘れたかのように、アノイは再びリヒトに視線を合わせてきた。
「レヒテンに似ていた自分を、わかっている」
「だからって、割り切れることじゃない。存在を……否定されたのに」
「それすらも……実のところ、マルは諦めている」
「間違われて、ずっと否定され続けて、それで本当に諦められるの? マルはマルなのに」
「違う」
「なにが違うの!」
「リヒトがいる。本当に諦めたわけではない」
アノイの真っ直ぐな双眸は、穏やかだった。
「リヒトが、マルをマルとする。大事なのは、そこだ」
たとえ誰かが否定しようとも、と続けたアノイは、ふっと、笑った。
「マルは護法に否定された。だが、リヒトは違う。だから、マルは護法を諦め、だがリヒトを諦めはしない」
「……どういう意味?」
「リヒトがいる限り、マルの存在は否定されない」
だから違うのだ、本当に諦めたわけではない、とアノイは言う。リヒトの存在が、マルの存在を確立しているのだと。
「あたしが……?」
「その指輪が、証明している」
左手の薬指にある指輪に、視線が移される。リヒトの左薬指には、マルから贈られた銀の指輪がはめられていた。魔導師が、最愛の伴侶にしか贈らない、という銀の指輪だ。
「マルはリヒトに愛されている。そしてリヒトは、マルに愛されている」
話題にされることがなかった指輪のことを、ここで初めて言われて、瞬間的にリヒトは顔を真っ赤にする。きちんとした言葉をもらってはいないが、そういうことだという言葉はもらっているだけに、嬉しさがそうさせる。
「こ、これは……っ」
「だいじょうぶだ。マルは、寂しさまで、忘れたりはしない」
「……寂しさを、忘れ?」
寂しいことは忘れたほうがいいのでは、とぎくしゃくしながら問うと、アノイは首を左右に振った。
「その寂しさを憶えているから、そうならないように、人は動く。わたしは、マルがそうあってくれて、嬉しい。忘れてしまったら……マルはマルでいられなくなっていたから」
本当は忘れてしまったほうがいいのだろうけれども、そうなってしまったら、人としては生きられなくなる。感情に左右されて生きている人間だから、どんな感情でも、忘れてはならない。
「憎しみに囚われてもおかしくはなかった。けれど……マルは寂しさを忘れないことを、選択したんだ」
それはリヒトを愛することへと繋がる。
アノイは満足そうな顔をしてそう言ったが、リヒトはやはり、たとえ大事な感情であっても、いやなことは忘れてしまったほうがいいと思う。リヒト自身、異国の風体であるがゆえに遠巻きにされ、虐められ、能力が表に出るようになってからはバケモノ扱いされた記憶を、ここに来てからは忘れるようにしている。そうでないと、悲しみが憎しみに変わって、自分が自分ではなくなってしまいそうだった。だから嫌なことは忘れてしまおうと、忘れて今を、この幸福を噛みしめている。
「……あたしは、忘れたい」
「それも選択だ」
「え?」
「マルは忘れない。だがリヒトは忘れる。正解は一つとは限らない」
その言葉に、ホッとする。リヒトは間違っているわけではないと、リヒトはリヒトで、マルはマルなのだと、そういうことだと言われたからだ。
「そ……っか」
忘れてはならないこともあるけれども、忘れてもいいことはある。自己防衛というやつだ。そこには善悪の判断が必要な場合もあるだろうけれども、本当に間違っていればアノイなら教えてくれる。
マルが寂しさを忘れない選択をし、リヒトが忘れる選択をしたのは、今の幸福を得るために必要なことだ。
肯定してくれたアノイに、リヒトは左手の指輪を見つめながら微笑んだ。
「マル」
「うん、マルはマル、だもんね」
「違う、マルだ」
「え?」
指輪から顔を上げたら、マルがいた。いや、正確には、女王ユゥリアに手を引かれたマルが、こちらに向かって歩いてきていた。
神殿にいるはずのマルは、雨季が過ぎるまで神殿から出られない。そう聞いていたのだが、雨季は過ぎたというのだろうか。
「ユゥリア、なぜマルを神殿から出した」
茫然としてしまったリヒトを置いて、アノイがマルたちのほうへと駆けて行く。
「雨季の間は神殿から出すなと、そう決めたのは」
「わたくしではなくてよ、アノイ。ヒューを閉じ込めたのは、わたくしの父。わたくしがそれに倣ったままにすると思って?」
「それはわかっている。だが、黙認していた」
「待っていただけよ」
「なに?」
「出たいと、言ってくれるのを待っていたのよ。だってヒューったら、けっこう面倒臭がりなのよ? 嫌な記憶がそこにあっても、異能が他力で抑え込まれていることのほうを優先させて……あとで水霊に虐められるのは自分なのにね」
ばかよ、とユゥリアが苦笑したところで、リヒトも駆け寄ってそばに行く。ユゥリアに手を引かれて、引っ張られていたらしいマルは、そこで漸くリヒトとアノイに気づいて顔を上げ、そうして珍しく、泣きそうな顔をした。
「……マル?」
大のおとなが、というよりも、マルが、今にも泣いてしまいそうなその表情に、リヒトはどうしたのだと手を伸ばす。その手がマルの頬に触れる前に、マルのほうから手が伸びてきた。
「リヒト」
背の高いマルの胸に、リヒトの顔は埋められる。同時に身体を抱きしめてくる腕は、確かにマルのものだ。
「ま、まる?」
人前でこんな、抱きしめられるなんて初めてだ。羞恥に顔を真っ赤にしたリヒトは、けれどもいやではなかったので、どうしたらいいのかと困ってしまう。
「確かに送ったわよ。わたくしはこれで失礼するわ」
ユゥリアの楽しそうな声と、ふふ、という楽しそうな笑い声がしたあと、どうやらユゥリアは立ち去ったらしい。視界がすべてマルで埋められているので周囲の様子は窺えないが、ユゥリアが立ち去ったあとアノイが呆れたようなため息をついたのだけはわかった。
「居室に、行くぞ」
アノイがそう言ったのと、マルの腕がぐいと引っ張られたのは同時だった。
「自らの足で神殿から出てきた、そのことは褒める。だが、状況を考えろ。王都を水害で潰す気か」
アノイのそれは、責めているわけではなかったけれども、リヒトの呼吸を止めかけたのは確かだ。
雨季は明けていない。
水を呼び寄せてしまうマルには、心地よい時期であると同時に、最悪の時期だ。封印式が施されている神殿から一歩出たら、そこからもう水害が起きる可能性が高まる。いや、確実に水害が起きる。
「ままままマルっ! 神殿に戻らないとっ!」
慌ててリヒトはマルの胸を押したが、アノイに視線を向けていたマルは、不思議そうな顔をしていた。
「いやだ」
「えっ?」
「あのひとはもういない」
神殿にはいたくない、と言っているのだと気づいたのは、焦れたアノイがマルではなくリヒトの腕を引っ張ったときだ。
「行くぞ。マルを連れておいで」
アノイはリヒトを引っ張ることで、動いたリヒトを追うように動くマルを促したようだ。
「堅氷、雷雲、灯火、いるなら答えろ。師団棟に来い」
魔導師団棟に向かっているようで、アノイは道中、どこかに向かってそう発したあと、さらに強い力でリヒトを引っ張ってきた。
「ちょ、アノイ、待って」
「急げ。時間がない。隔離されていたマルを見つけた水霊が、いつ動き出すかもわからない」
「で、でも、封印式は神殿で、マルは神殿にいたくないって」
「だから居室に封印式を作る」
魔導師団棟に向かっているのは、そこに急ごしらえでも封印式の部屋を作るためのようだ。
「アノイ、作れるの?」
「作れなくはない。程度の問題だ」
「程度?」
「ああ」
とにかく急げ、とアノイが急かしてくるので、そこからは無言だ。小走りになって、魔導師団棟へと向かう。アノイに引っ張られているリヒトを追うように、きちんとマルもついてくるが、その表情は申し訳なさそうだ。
マルの居室に押し込められたとき、アノイが道中で呼んでいた同胞たち、堅氷の魔導師カヤ、雷雲の魔導師ロザヴィン、灯火の魔導師トランテが、深刻そうな顔つきで勢揃いした。
「うわ……」
勢揃いしていることに驚いたリヒトだが、「うわ……」と言ったのはマルだ。そして、顔を揃えた魔導師たちは、そんなマルにそれぞれの反応をした。
「なんだ、理性がぶっ飛んだわけじゃねぇのか」
とニヤリとしたのはロザヴィンで。
「待機させられてたのはこれかぁ。なにすんだ?」
小首を傾げたのはトランテだ。
「漸くあそこから出てきたか……まあ、当然か」
無表情ながらも雰囲気的に複雑そうに、カヤが言った。
リヒトが勢揃いした魔導師たちの反応を見ていられたのは、そこまでだ。
「部屋から出るな、いいな」
アノイがマルに向かってそう言い、すぐに居室の扉が閉められた。
部屋には、なにが起こるのかさっぱりわかっていないリヒトと、そして申し訳なさそうにするマルだけが、残された。




