28 : ここから、だして。
*とある日のとある日常、とある事情のなかにいるマルとリヒトの話です。
意味なんてわからなかった。これからなにが起こるかなんて、わかるものではなかった。
ただ、目の前の現状は理解できた。
『レヒテン……っ』
母の名を口にしながら、母を見る目で触れてくる手のひらが、すべてをはぎ取っていく。
このひとの悲しみはひどく深い。
そう、思った。
『レヒテン、わたしのレヒテン……愛しているよ』
母に似ているとは言われていた。けれども、性別は違うからそこまで似ているとは思っていなかった。髪だって、幼い頃は母と同じ金色だったけれども、歳を重ねていくうちにこのひとと同じ色になった。だから、本当に似ているかと比べて見ても、一見しただけでは似ているとは言い難かった。
それを、こうまで見間違えるのだから。
このひとの悲しみはひどく深く、そして痛いものなのだと思った。
『だいじょうぶ、レヒテン……愛している』
このひとは、どこまでも悲しいのだ。
その痛みに耐えきれず、抱えていられず、吐き出さずにはおれないのだ。
それでも。
『父さん……っ』
母の面影を重ねてくる父に、存在を否定された痛みはあった。
絶望した。
それでも、自分ではどうしようもできない無力さに、泣くしかなかった。
『なんてことだ…っ…ばかめが! ヒュエスはレヒテンではない!』
助かった、と思ったとき、それが真の救いではないことなど、わかっていた。
諦めるしか、なかった。
「ヒュー? ヒュー、なにをぼんやりしているの?」
「! あ……え?」
ぺしぺし、と軽く頬を叩かれて、それまで自分が意識を過去に飛ばしていたらしいと、マルはわれに返った。とたんに目に入った顔には、正直驚く。
「陛下……」
「ええ、そうよ。どうしたの、ヒュー」
心配そうに覗きこんでくる顔は、目映い美女のもので、どこをどう間違えるのか自分と似ていると比喩される女性のものだ。瞬間的に身構えてしまったが、それは久しぶりに女王陛下たる従姉を間近で見たからだろう。
ここはどこだ、とマルは周囲を見渡した。
「ヒュー?」
「……陛下、ここは」
「神殿の奥よ。どうしたの、ヒュー。記憶が混濁しているの?」
記憶が混濁、と聞いて、ああそうか、と納得できた。
あれはもうなん年も前のことだ。ここにはもう、あのひとはいない。
ほっと息が出た。
「やっぱりここは、あなたにとってあまりいい場所ではないわね」
「……そういうわけではありませんが」
「どうして雨季に入る前に王都を離れなかったの。離れていれば、ここに閉じ込められなくて済んだのに」
神殿の奥、三重にも四重にも張られている結界だらけの部屋は、神官長の許可があって漸く入ることを許される。結界の特異性が、人体にあまりよいものではないからだ。
そんなところにいるマルは、幼い頃から、雨季に入ると必ずここにいる。王都に滞在している限りのことではあるが、雨季に神殿の奥にいないことのほうが少ない。神殿の奥にあるこの結界の部屋は、マルのためだけに用意されたようなものだ。
「地方任務に出てもよかったのよ?」
「ここが嫌いなわけではありませんから」
雨季は、好きではないが嫌いでもない。この部屋に閉じ込められることにはなるのだが、雨季という季節によって不安定になる自分の異能を考えれば、幾重もの結界が張られたこの部屋は随分と居心地がいいのだ。
「わたくしはいやよ。こんな……陽の光も届かない奥に、あなたを閉じ込めているのだもの」
「けっこう楽なものですよ。外側から力を抑えられて、自分で制御しなくていいですからね」
「以前も聞いたわ。酔狂ね、閉じ込められているのに」
女王ユゥリアは不服そうにしながら、手ずからお茶を淹れてくれる。侍女や女官だけでなく、とにかく神官長の許可がない者はこの部屋に入ることができないので、たとえ女王でも自分のことは自分でやらなければならない。マルがお茶を淹れてもよかったのだが、たまには自分で淹れるとユゥリアが言うから、任せたのだ。
「不自由はない?」
「陛下のおかげで。ただ……」
「ただ?」
「ひとりでここに来るのは止めてください。堅氷になにを言われるか……」
「それはだいじょうぶよ。だって、ヒューはカヤの兄でわたくしの従弟だもの。それに、ヒューはもうひとりではないわ。いい人がいるもの」
ふふ、と愛らしく笑ったユゥリアが、マルの左手薬指にある指輪を見て、嬉しそうにする。
「だから、気が引けるのよね。新婚さんを引き離してしまったのだもの。久しぶりに雨季が疎ましいわ」
「恵みの雨に無礼な発言ですよ」
マルは左手薬指にある指輪をそっと撫で、馴染んだぬくもりにほっとする。
この部屋は居心地がよかったのだが、今年は少々、複雑かもしれない。いや、来年も、再来年も、この部屋にいることが複雑になるかもしれない。
「……その顔を見ると、今すぐにでもここから出してあげたいわ」
言いながら、ユゥリアにお茶を渡されて、受け取りながらマルは苦笑する。
「べつに、ずっと逢えないわけではありませんし、神官長にはリヒトのことを伝えていますから、ここに入れないわけではありませんよ」
「けれど、聞いたわよ」
「はい?」
「おいで、とは言わなかったそうね?」
どうして、と首を傾げながら、ユゥリアはマルの向かいにある椅子に腰かけ、自分に淹れたお茶をゆっくりと飲む。マルも、ユゥリアに淹れてもらったお茶を、ゆっくりと口に含んだ。
「ここは、わたしには都合のいい部屋ですが、魔導師には少々きついでしょうから、そう簡単に招くことはできませんよ」
人体にあまりよくない結界が、幾重にも張られている部屋だ。マルにはほとんど影響などないが、たとえばユゥリアもここには長居できないくらいに、魔導師には都合の悪い場所でもある。
「万緑の声が、まったく聞こえないそうですからね……それは魔導師にとても強い不安感を与えます」
もともと魔導師としての力は最弱であるマルにとって、魔導師が常に聞いている万緑の声は、実のところあまり聞こえない。王族の異能はむしろ、万緑のほうから寄ってくる力なので、異能のほうが強い力を持つマルは聞こえなくても不自由しないのだ。
「そうね……以前、一度だけここにアリヤを連れてきたことがあるけれど、あの子はここに入れないと言っていたわ。カヤも、ここにはあまり入りたがらないし」
「魔導師には最悪な場所ですからね」
「……ねえ、ヒュー」
「はい」
肘掛けに身体をもたれかけ、頤を手のひらで支えながら、ユゥリアが真っ直ぐと蒼い双眸をマルに向けてくる。
「幸せ?」
ゆったりとした問いかけに、マルは微笑む。
「不幸であったことなど、一度もありませんよ」
「……本当に?」
「ええ、本当ですとも」
不幸を感じたことなど一度もない。不運はまあ、幾度か感じたことはあるけれども、幸せではないことなんてなかった。それだけは胸を張って、堂々と言うことができる。
「陛下がなにを気にされているのか、それはわかりませんが……もし、わたしがここにいることへの感情を危惧されているのでしたら、心配は要りません」
「……理由を訊いてもいいかしら」
「わたしは、あのひとのことを、諦めた身だからです」
微笑んだままその答えを述べれば、ユゥリアは少しだけ、虚を突かれたような顔をした。
「ついでに言うと……わたしは、あのひとを父に持ったことを、悲しくは思っていません。まあ誇りにも思えませんがね」
子は親を選べないとよく言うではありませんか、と加えて言えば、僅かに放心したあとユゥリアは苦笑した。
「諦める癖がついてしまったのね。けれど……」
苦笑していたユゥリアは、ふと、表情を改める。
「すべてを諦めさせるわけにはいかないわ。いくらあなたが寛容な心を持っていても、広大な海のようでも、唯一つの願いを諦めさせたくはないのよ」
すっと立ち上がったユゥリアは、マルとの距離を縮めるように歩み寄ってくると、長い指先でマルの頤を撫でた。
「あなたが護りたいものは、わたくしも護るわ。その協力もしましょう。その緩やかな心が、広い世界にいられるようにしましょう。だから……言いなさい」
深い、深い蒼の瞳が、強くマルを見つめてくる。言い表しようのない強さに、少し、身が竦んだ。
「あなたの望みはなに、ヒュー?」
ユゥリアが紡ぎ出す言葉に、今まで一度として揺れなかったことがあるかと問われれば、その答えは否だ。幾度も、いつでも、ユゥリアの言葉には揺らされる。見透かされているような不安感ではなく、見守られている安堵感が、マルの奥底に眠る想いを刺激するのだ。
ユゥリアは女王、ユシュベル王国の柱、彼女が背負うものは大きく、その責任は重大だ。負担をかけてはならない。
そう、わかっているのに、ふとした瞬間に揺らいだ想いは、深く眠らせている想いまでも揺さ振ってくる。
だから、蓋をしよう。
もっと、鍵を増やそう。
いつものように。
「やめなさい」
ぎくりとした。
「知っているわ。あなたが、いつもそうやって、わたくしの言葉に耳を塞いでいるのは」
ああ、どこまでも。
どこまでも彼女は、唯一の従姉は。
見守っている。
「ねえヒュー、わたくしは、もうひとりではないの。唯一の人が、カヤが、わたくしにはいるの。カヤがいれば、わたくしは強く、あれるのよ」
弱くはないわ、とユゥリアは言った。
「負担だなんて、思わないでちょうだい」
眼差しは強い。ここまでユゥリアを強くしているのは、彼女の唯一の存在だ。
ああ、なんて。
なんて、世界は。
世界は美しいのだろう。
目映さに涙がこぼれそうだ。
「……ユア姉さま」
マルはそっとユゥリアの頬に触れ、随分と久しぶりに従姉を呼ぶ。
「なぁに、ヒュエス」
ゆったりと優しく微笑んでくれた従姉は、従弟のマルをその手のひらで温かく撫でてくれる。
我慢が効かなくなるというのは、こういうことを言うのだと思った。
「……おねがい」
誰にも、なにも、言うまいと思っていたのに。
絶対に、口にしてはならないと、決めていたのに。
「ここから、だして」
心地よさすら感じるここには、同じくらいの嫌悪感が込み上げる場所であると、このひとだけが知っている。
「もう、ここには、いたくない」
唯一つ、思い出したくもない記憶が、ここには眠っている。
ここに、この神殿の奥に、入るたびに嫌な過去が襲ってくる。
「あのひとを……おもいだしたくない」
忘れることなんてできないことはわかっている。
けれども、逃げることはできる。
そして、逃げ続けてもいいと、それは認められている。
理由は簡単だ。
それはあまりにも、マルには酷なことで。
あまりにも、悲しいことで。
あまりにも、寂しいことで。
あまりにも、苦しいことだから。
「そう、それでいいのよ、ヒュエス。さあ、行きましょう」
優しさに、目を背けたのは自分だった。
現実から目を背けたのも、自分だった。




