21 : 善と悪の意。2
アノイに、マルの錬成陣を発動させることができたと報告すると、あまり表情が動かないアノイにしては珍しく目を真ん丸にさせた。それがちょっと可愛くて、この外見で百数十歳のおばあちゃんなんてずるいよなぁと暢気に思う。
「リヒト」
「ん?」
「おいで」
「え?」
「おいで」
促されて向かった先は、部屋から数歩先にある外庭だった。小さい子が思い切り遊べるくらいの広さがあって、リヒトが力の訓練に使っている場所だ。
「結界を、張り直した。壊れても堅氷がいる」
「え……と?」
「知るべきだ」
「……なにを?」
「雷雲が言う、善悪を叩き込むというのは、比喩の言葉ともなる。だからリヒトは知るべきだ」
ここに立て、とアノイは問答無用でリヒトを庭の中央に引っ張っていく。
アノイはけっこう容赦ない先生で、教え方も厳しい。有無を言わせないことなどしょっちゅうだし、リヒトの反論になどは耳も傾けない。できないと言った日には、できるようになるまで力を使わせられる。ほとほと疲れて、マルに苦笑されることなどしばしばあった。
そんなアノイだから、引っ張られてもリヒトは文句も言えない。マルよりも師らしい師は、さすがは師の師というところだろう。最近では教えられている最中は逆らわないほうがいいと、リヒトは本能的に理解し始めている。アノイがこんなだから、マルもきっとアノイには今でも敵わないのだと思う。
アノイのところにきた趣旨がどうあれ、こうなっては今さら「今日は休みでしょ!」なんてことを言う勇気は、リヒトにはなかった。
「わたしが陣を描く。わたしの陣を動かしてみなさい」
「アノイの……錬成陣?」
「魔導師の錬成陣は、唯一つとして同じものはない。組み込まれた術式があれば発動はできるが、その力は半分も引き出せないと言われている」
「そ……なんだ?」
「リヒトは詠唱することで力を引き出せるが、どうやら錬成陣も使える。だが適正というものがある」
「適正……」
「詠唱破棄による錬成陣の発動が可能なら、やってみなさい」
言われていることはさっぱりわからないが、とにかくアノイが力を引き出す媒体として使用する錬成陣を、リヒトが発動させてみろということらしい。マルの錬成陣を使ったあとなので、まあ同じ要領で力を使えばいいだろう。
安易に考えて、リヒトはアノイが描いた錬成陣の中心に立つ。
「これはなんの錬成陣?」
「意識を向ければわかる」
「マルは教えてくれたよ」
「……ああ、だから使えたのかもしれないな」
「うん、用途がわかったし、マルが事前に教えてくれたから……」
「発動させてみなさい」
やはり有無を言わせないで、アノイは促してくる。用途がわからないと、マルのときのように発動させることなんて、無理ではなかろうか。
そう思ったが、まあやってみなければ始まらないしわからない。用途がわからなくても、とにかく「動かしたい」意識を向ければ錬成陣というものは発動するのだ。詠唱とは違って扱いが面倒だが、やり方によっては詠唱よりも確実な場合がある。そのときのためにも、錬成陣の仕組みは理解しておいたほうがいい。
ある程度の歳を重ねた分リヒトの理解力は柔軟性を失っているが、それを指摘されて注意するよう最初に促されているので、まずは先入観に踊らされない素直な気持ちを前面に持つようにしている。
詠唱ではないが錬成陣も使える、そう思うのは簡単なはずだ。マルの錬成陣を使えた。アノイのも使える。
「じゃ、じゃあやってみる」
「全力でかかりなさい」
「え、いいの?」
「マルの陣を使えたのなら、わたしのも使えると、簡単に思わないほうがいい」
せっかくの思い込みを挫かれた。そんなことを言われたら、不安になって上手く力を使えない。
「でき……」
「ん?」
できないよ、とはやっぱり言わせてもくれない。
「……がんばる」
「ああ」
ぎゅっと拳を握り、アノイの錬成陣を睨む。
マルの錬成陣もそうだったが、アノイのはそれ以上に複雑なものが描かれていて、短時間でよくここまで描けるものだと思う。図形だったり文字だったり、図形は意味不明で文字は古代語だ。万緑が理解し易いようになっていて、描かれた紋様が簡素であれば簡素であるほど意味が浅く、複雑であれば複雑であるほど意味は深いものになっていくらしい。
リヒトは深呼吸ののち、「動かしたい」意識を錬成陣に向ける。アノイが言ったように、マルのそれとは勝手が違うというのはすぐに知れた。
「動かない……?」
「集中」
「う、うん」
マルのときはすぐに反応があった。錬成陣が光った。それなのに、アノイの錬成陣はその兆しもない。
十分、いや十数分はそうしていたと思う。それでも杳として反応しない。
さすがにこれ以上は、と思ってアノイをちらりと見たが、続けろと言わんばかりの眼差しがある。
今日も扱かれそうだ。休みをもらったのにアノイのところに来たのだから当然かもしれない。
「リヒト、余計な考えごとは要らない」
「う……ごめんなさい」
まるで考えていたことを見透かしたかのようなアノイの指摘に、慌てて意識を錬成陣に切り替える。
本当に動くのだろうか。アノイは動くことを見越しているようだが、このままでは夜になってしまうかもしれない。
静寂が長く続いた。
「……アノイ、もう」
太陽が傾きかけた頃まで沈黙が続いていたが、もうこれ以上はどうしたって無理だと、聞き入れられなくてもそうアノイに言おうとした、その直後だった。
「意識を陣から背けるな!」
怒鳴られた瞬間のことである。
集中力が切れたリヒトの足許が、急に光り出した。
「え……?」
「祈りが聞き届けられた、マルに教わらなかったのか!」
「なにを……」
「陣の発動には時間がかかる場合がある!」
ああそういえば、待ちぼうけを食らうこともあると聞いた。
思い出したときには、もはや遅い。
「あ……っ、アノイぃ!」
「意識を陣に戻せ、リヒト!」
マルの錬成陣を発動させたときとは違う。あのときは僅かに光った程度だった。それが今は、アノイの錬成陣は、目が開けていられないほどに眩しい光りを放ち、リヒトは目に痛みを感じるほどだった。
陣に意識を戻せと言われても、一度切れてしまった集中力を繋ぎ直すのは難しい。この光り、この痛み、まるで身体の中心からなにかが沸騰してくるような、そんな熱さまである。
わけがわからない。
いったいなにが、起こっているのか。
「アノイ…っ…アノイ、ねえ!」
どうしたらいいの、とリヒトは叫ぶ。
この光りを鎮めるには、この痛みから逃れるには、いったいどうしたらいいのだ。
わからない。
熱い。
痛い。
苦しい。
怖い。
「……っ、マルぅ」
助けて。
「リヒト」
ハッと顔を上げる。
その音は初めてだった。
「おいで、リヒト」
困ったように顔をしかめたマルが、リヒトを呼んでいた。初めてだった。
「な、まえ……」
呼んでくれることなんてなくて、いつも「きみ」としか呼ばれなくて、いったいどんな音を奏でるのだろうと思っていた声だ。
「おいで」
伸ばされた手のひらに、リヒトはすがる思いで飛びついた。




