20 : 善と悪の意。1
魔導師の力は、一文で表わそうというなら、万緑とそれらにまつわる力を借りることが許された能力、だろうか。
たとえば人は、神に祈りを捧げる。これを魔導師に置き換えると、神が万緑であり、祈りを捧げる者が魔導師であり、神は祈りを聞き届けることもある気紛れなものだが、万緑は必ず祈りに応えるわけである。
人々は万緑に祈ることもあるが、魔導師にしか応えない。力のない者と、ある者との違いはこれだ。魔導師は祈りに応えてもらえる、そんな能力者というところだ。
リヒトが魔導師団棟にあるあらゆる装置を動かすことができるのは、そこにはすでに術式が組み込まれているからで、「動かしたい」意識を向けるだけで術式が自動的に万緑へ祈りを捧げていることになる。
いろいろと思うことはあるが、リヒトが魔導師の力を説明された当初に思ったのは、そんな能力がこの世界にあったのか、だった。
「ここに立って、陣に意識を向けてみなさい」
「うんうん」
「簡単なものだから、癖はないと思うが」
師であるマルが、無造作に地面に書いた丸い錬成陣の中心に立って、「動かしたい」意識を向ける。すると錬成陣は僅かに光り、リヒトの目の前で、汚れている巨大な密閉容器が一気に、おそらく作られた当初の状態であろう姿に変わった。
「うわ……」
すごい。古い姿を変え、新しい姿を得た感じがまた、すごい。
「うわ……」
「うわって、え、マル?」
リヒトが感嘆するのはともかく、日常的に見慣れているだろう光景のくせにマルが呆けるから、思わずリヒトは師を仰ぐ。
「簡単にやられた……」
衝撃的であったらしい。
いや、マルが錬成陣を描き、その用意があったからこそリヒトはそれを成せたのであるが、師の念頭にはそれがないようだ。
「これ、難しいの?」
「さあ」
「え」
「誰かがやっているのを見たことがない」
「……あたしが初めてマルの前でやってみせた?」
「ああ。しかし、これならわたし以外の魔導師がこの作業をやったほうが、効率がいいな」
「ちなみに、マルがやるとどうなるの?」
「発動までに時間がかかる。しばらく待ちぼうけだ」
「……なるほど」
マルが驚くのも無理はなかったらしい。
マルとは座学ばかりで、これが初めて実技となったわけであるが、マルがこの状態なら確かに、マルに実技を見てもらうのは難しいかもしれない。このあとも幾度かマルに言われて錬成陣を使ってみたのだが、そのどれもにマルが呆けていたからだ。
「陣でこれくらいなら、詠唱させたら一気にできるかもしれないな」
「この作業に詠唱はあるの?」
「見ていて思ったことがあるだろう。詠唱ならこうすればいい、ああすればいい、とか」
「んー……確かに。ものを持ち上げたりするのは、風に呼びかければいいし」
「力の使い方は魔導師それぞれだ」
「そっか。やり易いように、やればいいんだ?」
「そういうことだな。さて……掃除も済んだことだ、わたしは水を呼び込む作業に入る。それで終わりだから、きみはアノイのところに行くといい」
作業のほとんどをリヒトがやったことで、大幅に時間を節約できたのだろう。朝一から始めて、夕刻までかかるだろうと思われたのに、太陽はまだ中天にある。
「今日はずっとマルといるつもりだったから、アノイのところには行かないよ。朝のうちに、水道のお掃除するからって言ったら、アノイもじゃあ明日だなって言ってくれたし」
「だからといって、見ていて楽しいことなど、なにも起こらないぞ」
「とりあえず、貧血で倒れるだろうマルを介抱することはできるよ」
「……そうか」
マルに微妙な顔をされたが、そもそも今日は、だからアノイとの実技訓練を休みにさせてもらったのだ。
マルが異能を全面的に使う。マルが言うように楽しいことなんてない。見ているのもつらい。けれども、だからこそ、見ていなければならない。マルが異能を使うのは、今日ばかりのことではないのだ。
「傘の用意は」
「ばっちり。でも、なにに使うの?」
「きみだ」
「へ?」
「濡れるからな」
マルに指示されて、用意していた傘を広げた。
「マルは?」
「使う意味がない」
そう、言った師は。
「封印解除」
呟くと同時に、持っていた短剣で、手の甲をざっくり傷つけた。
赤い血が滴った、そのとたんだ。
ぽた、ぽた、とリヒトが差した傘に水滴が、雨が落ちてくる。緩やかに降り出した雨に、リヒトは天を見上げた。雨雲はない。
「マル……」
視線を正面に戻すと、その周りに水滴を集めてまとった師の姿がある。
こんなときだけれど。
こんな場所だけれど。
水をまとったマルが幻想的に見えた。
綺麗だと思った。
リヒトが初めてマルと出逢ったときも、たぶんこんなふうにして、山火事を鎮めていたのだと思う。
「……水量を上げるか」
「だいじょうぶ?」
「問題ない」
滴る血を無造作に扱うその姿は痛ましい。けれども慣れた様子で、マルは腕を動かす。
発言のとおり水滴が大きくなり、その数も増してくると、徐々にマルの顔色が白くなっていった。
怖い。
この人はいつか、こうやって、死んでしまうかもしれない。
そう思うと怖くて、リヒトは唇を噛みながら、耐えるようにじっとマルを見つめ続けた。
「もう……いいか」
「マル」
「ん?」
「無理しないで」
「した憶えもない」
マルの手が真っ赤に染まり、その雫が地面に吸い込まれていくようになると、水滴に血が混ざるようになった。赤味のある水滴が増えてくると、マルは懐から手巾を取り出し、止血を始める。手巾で手をぐるぐる巻きにしたあとは、状態を確認するために巡らせていた視線を足許に落し、耐えるように俯いて瞼をぎゅっと硬く閉じている。
リヒトが濡れないように差された傘から雨音が消えると、気づけば辺りを覆っていた水滴が綺麗に消えていた。
「終わった?」
「……ああ」
力ない返事のあと、顔を上げたマルは、ひどく青褪めていた。立っているのもつらそうで、リヒトは傘を閉じるとマルに駆け寄ってその身を支える。
リヒトがマルに集中している間に、貯水は完了していた。
「ここさえ直れば、あとはほかの場所にある槽や汲み上げている地下水も、正常に動くだろう」
「ここ以外にもあるんだ」
「魔導師のためだけに発案されたものではない」
さて帰るか、とマルに促されて、その前にとリヒトはマルの手を取る。傷つけられた手の甲はもはや止血されていたが、巻き方が適当だ。それを綺麗に整えて、本日の突発的な任務は終わった。
「このあとどうするの?」
「寝る」
「あ、そう……」
「その前に昼か……灯火がいればいいが」
さすがに疲れた状態で昼食を作る気にはなれないのか、魔導師団棟に戻るなり食堂へ行き、その姿を捜して息をつく。
昨夜、水道をどうにかしてくれと言った灯火の魔導師は、朝はいなかったが昼はそこにいた。
「早かったな。今、ちょうど出がよくなった」
「昼食」
「おう、任せとけ」
対処が早かったことを喜ぶように、灯火の魔導師は盛りだくさんな料理を作ってくれる。もともと昼食をご馳走する気でいたらしく、作り終えるとすぐ灯火の魔導師は「任務があるから」と立ち去り、食堂にはマルとリヒトだけが残った。
「今日は誰もいないね。灯火さまも行っちゃったし」
灯火の魔導師が料理している間にマルの傷を手当てしたリヒトは、がらんとした食堂を見渡し、人気の感じられない師団棟を思う。貧血で机と仲良くなっていたマルも、手当ての最中はリヒトの好きにさせ、灯火の魔導師が去ると顔を上げて周りを見渡した。
「そういえば……ひとりもいないのは珍しいな。ひとりくらいいるものだが」
「マルがいるよ」
「それもそうか」
灯火の魔導師に昼食をせがんだのはマルなのに、言うとすぐまた机と仲良くなる。異能の使用で仕方ないとはいえ、ぐだぐだした師にリヒトは無理やり食事させた。口に運べば開けるから、まるで餌づけしているみたいだった。可愛いと思ったのは内緒である。
「アノイのところか……いっそレムニスのところでもいいか。わたしが使いものにならないと言って、押しかけて勉強しておいで」
食事のあと、マルは居室に戻るなり寝室に向かい、寝台にばったりと倒れた。着用している魔導師の外套が皺にならないよう無理やり脱がせたが、官服までは体格差もあって脱がせられないので、もぞもぞとマルが寝台の中心に移動したのを見計らって毛布を被せてやった。
「しばらく寝る?」
「ああ……」
眠いのもあるのだろうが、おもに具合が悪いのだと思う。介抱するとは言ったが、どんな対処をすべきか、リヒトにはわからない。とにかく今は休ませるしかないだろう。
意識を失うようにして眠ったマルを、リヒトはしばらく眺めた。好いた人の寝顔を見られるのも、弟子の特権だろう。
パッと見のマルは、目を瞠るような美形ではない。むしろ人の波に埋もれる容姿をしている。だが、背がとても高かった。リヒトが小さいせいでそう見えるのもあるだろうが、それでも魔導師の中で群を抜いて背が高い。すらりとしていて、また姿勢もいい。綺麗だと思うのはそのあたりからきている。マルは、リヒトのように俯いて歩くことがないのだ。本人が気づいているかは不明だが、真っ直ぐ前を見て、道を歩く。凛としたその姿が、リヒトは好きだった。
思う存分マルの寝顔を拝んで、リヒトはマルに言われたとおり、師団棟を出るとアノイのところに向かった。マルの弟子である証の外套を羽織っているので、王宮の衛兵に見咎められることもない。
アノイにこんなときの対処法と、栄養価の高い料理を教えてもらおうと思った。




