19 : 見過ごしてしまっていた。
魔導師団棟の前で、アノイとは別れた。アノイには城下に家があって、師団棟に居室はないのだという。夫レムニスとの家に今日は帰るというので、大きく腕を振ってお別れした。
るんるん気分で師団棟に入り、研究所も兼ねているので迷子になりそうな内部を、憶えたとおりに進む。一つの階段で最上階へ行くことはできないので、いくつか別れた階段を上り、そこを目指した。
最上階の床を踏んで、そこからすぐに見える目的地を振り向いたとき、リヒトは目を見開いた。
「マル……っ」
気分が急降下する。
リヒトの師、恋焦がれる人が、居室前の扉に寄りかかるようにして倒れていた。
「マル!」
リヒトは慌てて駆け寄り、その身体に触れる。
「マル、マル、どうしたの、マル!」
いったいなにが、あったのだろう。今日はおとなしく書類を片づけると言っていたから、マルはほとんど部屋から出なかったはずだ。部屋を出ても、書類を提出するためだけのはずだ。
「マル!」
「うるさい」
揺さぶろうとしたら、ぱちっといきなり目が開いた。深い蒼の双眸が、迷惑そうにリヒトを見る。
瞬間的にホッとする。意識はあった。
「こ、こんなところで倒れてるから……吃驚した」
「今、きみの声で目が覚めた」
「……目が覚めた?」
そういえばこの倒れ方、少し不自然だ。いや倒れたのだから不自然で当たり前なのだが、それにしても不思議だ。
「いきなり眠気がきて、耐えられなかった……いたた」
「え」
「このままならどこででも眠れると思ったが、まさか部屋にも辿りつけなかったとは……よっこいしょ」
年寄りくさく声を出しながら身体を起こしたマルは、節々が痛むのか不快そうな顔をしながら背伸びする。
「ね……眠ってたの」
「だいぶ気持ちよく。しかし身体が痛いな……きみが起こしてくれなかったら、一晩中あのままでいるところだった」
居室の扉に手をかけようとしてそのまま眠ってしまったらしいマルに、目が据わった。紛らわしい。
「吃驚させないでよ!」
「ん……ああ、悪かった」
悪気もなさそうな顔に、留飲も下がる。本気で眠っていたのなら仕方ない。マルが寝不足であるのは知っている。
「まだちゃんと眠れないの?」
リヒトも立ち上がり、居室に入っていくマルを追いかけた。
「眠れないことはない。ただ仕事がな……雷雲に押しつけていた分、今返されている」
「ねえ、雷雲さまにきちんと言ったら? その……力を使うと夢見が悪いって」
「こんなこと、知らなくていい。きみに知られてしまったのは失敗だが」
「あたしはマルの弟子だもん。むしろ知ってなくちゃ」
部屋に入ったマルはそのまま寝室に向かい、着用していた外套を脱いで居間に戻ってくる。袖を捲くりながら出てきたので、おそらく台所に立つのだろう。
「食事ならあたしが用意するよ」
「そうか? なら……沐浴してもいいか? 埃っぽい」
「うん。着替え出しとくから、そのまま行っていいよ」
「悪い」
食べさせてやらなければ、という思いが働くのか、マルは時間になると台所に立とうとする。一緒に食事をしているから出てきた習慣だ。リヒトも台所に立って料理をするが、これが悲しいことに、マルのほうが今のところ腕がいい。
朝はリヒトが簡単なものを用意するが、夜はマルが作ってくれる。
階下には食堂もあるのだが、利用する魔導師が少なくて、ほとんど食糧庫になっていた。マルが忙しいときは食糧庫と化している食堂で、手の空いている魔導師が作ってくれることもある。魔導師は意外にも自炊派らしい。もちろん城下の大衆食堂で済ませる魔導師もいる。
いろいろな魔導師がいた。
国境の街で暮らしていたときや、父親の故郷であるジェサントス公国で暮らしていたときは、誰にもかまわれなかったリヒトだが、魔導師たちにはなにくれとなくかまわれている。それも魔導師のほうからかまってくるので、初めは戸惑うことも多かった。けれども、認められて嬉しかった。
不思議な力を、この人々から忌避される力を、魔導師たちは当然のように受け入れる。
ここに来てよかったと、リヒトはほっとした。
「マルぅ、着替え置いとくよー」
寝室からマルの着替え一式を持ってきて、脱衣所の籠に置く。浴室から返事がきてから、洗いものが入った籠を持って脱衣所を出た。
マルから、洗いものまでしなくていいと言われたが、料理がそのとおりマルよりできない身としては、これくらいは完璧にこなしたい。幸いにも洗濯機なる装置があって手間暇は省かれるし、作業としては濡れたものを絞るくらいなので、それほど難しいことはない。もちろんマルの下着を洗うことに羞恥がないわけではないが、まあそこは真っ赤になりながらやり過ごす。
それに、ここまで家事のあらゆる装置が揃っているのは、魔導師団棟くらいだ。火力が調整できたり、蝋燭もなく明かりを点けたり、洗濯に手間暇をかけなくて済んだり、国境の街では見ることもなかったものすべてが魔導師の力を必要とする装置で、それらを動かすのはリヒトの力の訓練にもなり、またリヒトに魔導師の力があることを確信づける。これほど嬉しいことはない。
ここに来てからの毎日は楽しかった。
洗濯籠を持って洗濯場に持って行き、四角い箱の装置に洗いものを放り込む。粉の石鹸を適当に入れ、水を溜めている大きな桶からじゃばじゃばと四角い箱に水を入れて、意識を箱に集中させる。動かし方は、これを始めて目にしたときに近くを歩いていた魔導師に教わった。動かせたときは嬉しかった。
円を描くように動き出したら、あとは組み込まれた術式によってしばらく動いているので、その間に料理だ。
マルの居室に戻って、台所にある食材を確認し、足りないものは面倒だが階下の食堂へ行って調達する。今日も手の空いている魔導師が、同胞たち、といってもふたりくらいだが、自ら料理して食事をしていた。料理人はいないのかと訊いたら、あれこれと厨房を改造してやったら逃げられた、だそうだ。
「ああそうだ、水萍のとこの」
「はい?」
リヒトはまだ見習いの身であるから、名前で呼ばれることはない。マルの弟子なので、「水萍の弟子」とか「水萍のとこの」とか「マルのところの弟子」とか、そういう呼ばれ方をする。これが、魔導師と名乗れるようになれば、つけられた渾名で呼ばれるようになるらしい。固有の名に拘らないとマルに教えられたが、けっきょくは渾名も固有の名だよなとリヒトは思う。
「水萍に伝えておいてくれ。そろそろ水道がヤバいって」
「水道?」
「ああ、おまえはまだ知らないのか。水道って、この蛇口な。ここから水が出たりするだろ、浴室とか」
「ああ、うん。それはわかるけど」
「これに水が通るようにしてんのは水萍なんだ。原理は違う奴が担当してるから、壊れたときはそいつがやるんだけど。流れてくる水は水萍の担当なんだ。濁ってきたし出が悪くなってきたから頼むって言っといてくれ」
「わかりました」
「悪いな」
おまけしといてやるから、とマルに伝言を頼んできた魔導師は、作ったばかりの一品をおすそ分けしてくれた。ありがたく頂戴し、マルの居室に戻ると台所に立つ。
多品目を作るつもりはない。そこまでの技量はまだリヒトにはない。マルの料理を見て憶えたものや、それまで働いた場所で見て憶えたものを、記憶から漁って料理する。
汁ものは朝のものが残っているので温め直すだけでいいとして、おすそわけしてもらった料理は煮物なので、手っ取り早い炒めものにしようと、リヒトは野菜を刻む。手先は器用なほうだと自負しているので、切った野菜は均一の形をしている。
鍋で刻んだ野菜を炒めて味つけしていると、マルが沐浴から上がってきた。
「ん? 煮物なんて、よくやっている時間があったな」
短時間で上がってきた自覚はあるらしい。浴室でたまに転寝しているのだが、今日はそんなこともなかったのだろう。
「食堂でもらった。えと……灯火の魔導師さま。ほら、いっつも食堂で料理してくれる魔導師さま、いるでしょ?」
「ああ、灯火か……あれは料理が好きだからな」
「うん。でね、その灯火さまから伝言。水道がそろそろやばい、濁ってきたし出が悪いから頼むって」
「そういえば……そろそろ時期だな。わかった」
今からではもう遅いから、明日の朝一で取りかかるつもりらしい。
でき上がった簡単な料理を居間の卓に並べ、それはマルにも手伝ってもらって、本日の夕食である。
「ねえマル、なんでマルが水道の担当? ちょっと意外な感じがする」
「わたしは水を操る魔導師だ」
「あ……いや、そういうことじゃなくて、そういう役割分担が師団棟にあって、マルがその担当をしているのが意外だなって」
「水量が半端ないからな、わたしの場合は」
「水量?」
もごもごと口を動かしながら、マルは力の説明をしてくれる。
以前にも聞いた話は、魔導師というものが理解できてきた今だから、漸くリヒトの頭でも納得できた。
マルの座学は、こういう流れで始まることが多い。
「そういうわけだから、その密閉容器にわたしが水を呼び込んで溜める。雨を溜め込んでもいいが、王城内は結界があって雨量が制限されるから、なかなか溜まらない。わたしが力を使って溜めたほうが早いということになる」
「なんだかマルまでなにかの装置に思えてきた……」
「ああ、それに近しいな」
「肯定しないでよ」
「否定はできない」
水道の原理はリヒトには専門外で理解できなかったが、そういえば師団棟の裏にある巨大な容器は、用途がわからずにいた。あれが水を溜めている装置だということが理解できただけでも充分だ。街ではああいったものを地下に埋めるので、リヒトは見たことがなかったのだ。
「明日は一日、それに費やされるね」
「そうだな。まあ、ほとんど書類整理で飽きてきたところだ。ちょうどいい」
「力を使う、んだよね?」
「ああ」
「異能のほう……使うの?」
「ああ」
もごもごと口を動かし、淡々と応えるマルに、リヒトは不安になる。
マルには、母親が王族で父親が大魔導師という出自があって、そのどちらも受け継いだ力がある。王族の異能に近しいという、水を操るその力は、魔導師としての力より強く、むしろ魔導師の力という部分は異能の働きを補助していることになるらしい。
マルは王族の異能を制御できない。大部分を暗示によって封印し、残された僅かな力を駆使している。封じられた大部分を解除すると、制御されない力は勝手に働き、そこかしこを水浸しにするどころか、水害を招くという。そこで編み出されたのが、水の一種である自身の血を、限界まで外に流すという操り方だ。そうすることで封じられた大部分を制御できるらしいが、それはマルの身体をひどく痛めつける。方法としては、芳しくない。
「……アノイからまだ教えられていないのか」
「え?」
「封印を解除したわたしの力を、再び封印させる方法だ」
リヒトの顔色を察してくれたマルが、苦笑しながら食事を手を休めていた。
「わたしに、自分で封じさせる、あの方法を取らせたくないのだろう?」
マルの力を封じる手段はもう一つある。マルに自分で制御させるのではなく、こちらが強制的に封じる方法だ。
それは、マルの師であるアノイから、まだ教わっていない。リヒトが力を、自分で意識的に使うことに慣れて安定するまで、教えられないと言われてしまったからだ。
「まだ、教わってない……」
「そうか……では仕方ない」
「ごめん」
「なぜ謝る?」
「あたし、まだ自分の力、安定して使えてないんだって。ばらつきが、まだあるんだって」
「きみは今の歳になるまで、持った力を魔導師のそれだと知らなかった。いきなり意識的に操れと言われても、無理だろう。少しずつ覚えなさい。そもそも焦る必要などない。ここは魔導師の世界だ」
「でも……」
本来、魔導師の力に目覚めた者は、幼いうちからその教育が施されるという。善悪を叩き込むのだ、と雷雲の魔導師ロザヴィンは言っていた。だから彼の傍らには、まだ幼い弟子がいる。ほかの魔導師も、弟子らしき少年少女を連れていることがある。魔導師の育成は幼いうちから始められ、早いものでは十代のうちに魔導師と名乗るようになる。リヒトの歳でもう一人前の魔導師と名乗っている少年少女がいるわけだ。
リヒトは、持った力の目覚めから十年以上経ち、教育を受け始めたのはつい最近だ。未だ初期段階の、力の制御を教えられている。マルやほかの魔導師たちは、仕方ないことだ、見つけられただけでも幸いだ、と言って気にしないでくれるが、自分より幼い子や同じ歳くらいの魔導師を見ると、このところはたまに凹んでしまう。
居場所を見つけ、嬉しくて舞い上がって、それと同時に自分の成長具合に落ち込むなんて、我儘なことだろうけれども。
「きみが、羨ましいな」
「え……?」
俯きかけていた顔を上げると、食事を再開したマルが、ほんのりと微笑んでいた。
「きみには、まだまだ、たくさんの可能性がある。羨ましい」
「……うらやましいこと、なのかな」
「ああ」
「あたし、もう十九なのに?」
「まだ、だ。わたしは幼くして諦めた。いや、あの日から、いろいろと諦めたな。気づいたらこの歳だ」
淡く笑うマルに、後悔の色など見えない。羨ましいというのは、諦めたことに区切りをつけている様子だから、本当なのだろう。
「……なにを」
「ん?」
「なにを諦めたの?」
マルとリヒトでは、人生経験が違う。それこそマルとは十以上も歳が離れている。リヒトくらいの子どもがいてもおかしくはないと、マルは言っていた。それくらいの歳の差がある。
その中で、リヒトが外見に対する迫害に諦めることがあったように、マルの中でも諦めたことはあるだろう。それはリヒトとは比べものにならない。
「そうだな……」
食事を食べきってから、用意していたお茶に手を伸ばしたマルが、徐に窓から向こうに目を向けた。
横顔が綺麗だと思った。
マルが邪魔だと言うから、勿体なかったけれども髪を切ってよかったと思う。それまで隠れていたマルの青い双眸や、軟らかい眼差しや、いろいろな表情が見えるようになった。あまり笑う人ではないと思っていたが、そうではなかった。笑い方が控えめで、淡くて、見過ごしてしまっていただけだった。髪を切ってからのマルは、その表情がよく見える。
幼い少年のように、笑うこともある。
おとなを感じさせる、ただただ優しい笑みを浮かべることもある。
強烈に、このひとに好かれたいと、思った。
たくさんの眼差しを見たいと、いとしさに溢れた眼差しを見たいと、胸がどきどきした。
「あのひとに、間違われてから……わたしはいろいろと諦めたな」
「……間違われた?」
「わたしは母に似ているらしいからな」
視線を戻したマルは、お茶をのんびり啜る。
「似てるから、間違われた、の?」
「ああ」
「……だれに?」
「父に」
瞠目する。
マルの父親は大魔導師、今でも忘れられることなくその名が刻まれた守護者の名を持つ者だ。
「母が死んだとき、父が心配になってね。逢いに行ったら、間違われてしまった。それくらい、わたしは母に似ていたらしい」
衝撃的なマルの過去に、リヒトは息を呑む。
「そんな……いくら、マルがそうだからって」
「魔導師とは、そういう生きものだ。悲しくて寂しい、ね」
「マルはそれで諦めたっていうの? 間違われたことを?」
「最期は変わろうとしてくれていた。けっきょく、わたしには救えなかったが」
もう終わったことだ、と微笑んだマルは、食器を片づけるために席を立った。リヒトは慌てて振り向く。
「マル!」
「ん?」
「そんなこと喋っといて、笑わないで!」
「……は?」
「マルが名前に拘らないって言ったの、王族が関係してるからで、お父さんにつけられたからで、そういう理由なのはわかってたけど……本当はそのお父さんに、間違われたから……なんでしょ?」
振り向いたときのまま、マルは表情を変えなかった。むしろ、だからなんだと言われているような気さえして、リヒトは怖気づいてしまう。
「笑わ、ないで……悲しいくせに、寂しいくせに、笑わないで」
拳をぎゅっと握る。マルを見ていられなくて俯く。
怒られるだろうか。
呆れられるだろうか。
今ので、嫌われてしまっただろうか。
「きみは……」
という声と一緒に、足音が台所へ行き、そして戻ってくる。
ぽん、と頭の上に手のひらが乗った。
リヒトはおずおずと顔を上げる。
「そんなに深く、考えたのか」
「え……」
マルは未だに微笑んでいた。
「いや、そこまで考えたとは」
「だって……」
「ああ、わたしも今気づいた」
苦笑に変わった。
「もともと、本当に名には拘っていなかった。王族の、というか公爵家の名だが、それとあのひとがつけた名があって、わたしの名は面倒だろう。だから、拘りはなかった。だがあのひとが死んでからは、あのひとがつけた名で呼ばれるのがたまらなくいやで……そもそも拘りのない名だから、考えないようにしていたんだ」
当たり前のようにリヒトと目線を合わせて身を少し屈めたマルは、それはいつもそうしてくれるマルの気遣いだ。マルはできるだけ人の視線に合わせ、話を正面から聞いてくれる。
「……気づいてなかったの?」
「ああ。どうやらわたしは、間違われたことを諦めてはいたが、だからそのせいで拘りたくなかったようだ。きみに教えられるとは……まいったな」
くしゃ、とリヒトの頭を撫でて身を起こしたマルは、はは、と声に出して笑いながら、台所に戻っていった。
拙いことを口にしたかもしれないと思ったリヒトだったが、マルのそんな、本当に後悔もしていない区切りもついているらしい過去に、呆けると同時に安堵した。




