14 : 幾度も言ったのに。1
その日は朝から捕まった。起きたとたんに、目の前にアノイがいたのである。まだ相手をしなければならないらしい。だが、それも仕方ない。昨日は買いもののとき、風詠の魔導師を捕まえられなかった。逢いに行ったのに、アノイの夫は会議中でいなかった。渋々アノイは引き下がり、不機嫌になりながらもリヒトと一晩過ごしたのである。
「レムのところに、行く」
「……そうか」
寝ぼけた頭で、今日もまたアノイが一緒なのかと思う。アノイの夫、宰相補佐であるレムニスのところに行くだけならいいが、そこで今度はレムニスに捕まるだろう。カヤに頼まれている話もあるので、今日の予定はそれだけで終わりそうだ。
そろそろ通常任務を入れてもらおうかとも考えたが、乾いた布を額に押しつけられて、自身がどんな状態にあるかを知った。
「起きられるか?」
と、アノイに問われて、とりあえず頷く。
「……あの子は?」
「リヒトなら朝食を作っている」
「返事はもらったのか」
「ああ。そういうことなら、と。リヒトはわたしの孫になってくれるそうだ。あとはレムに話すだけだ」
「そうか……よかったな」
「おまえはもらえなかったから、嬉しい」
「もらうとかもらわないとか、そういうことではないと思うが……」
「だから弟子にはしない」
寝台から身体を起こしながら、アノイの拒絶に言葉を呑む。
「リヒトはわたしの孫だ。弟子ではない」
「……わたしは、弟子にしてやってくれと、頼んだはずだが?」
「魔導師にはおまえが育てなさい」
久しぶりに、アノイから命令される。その権限はマルにとって、魔導師団長からのものより重い。
「……わたしには無理だ」
「案ずるな。今のおまえなら、できる」
「無理だ」
弟子など無理だ。育てられない。マルがアノイに育てられたように、マルがリヒトを育てることなどできるわけがない。
「マナトア・ルーク=ヒュエス・ホロクロア。リヒトを魔導師に育てなさい」
「……やめてくれ」
「なにを恐れる」
「無理だと言っているだけだ。あなたも知っているだろう。わたしは……力が弱い」
今のところ、リヒトの魔導師教育はほとんどほかに任せている状態なので、特に問題はないが、もしリヒトがマルの前で力を暴走させてしまったら、マルは成長したリヒトの力を抑え込むことができない。それは周知の事実だ。アノイもわかっているはずだ。師としての絶対条件に達していないのに、このままマルがリヒトの師をしていられるわけがない。
「なら、その力をリヒトに見せてやれ」
「なんてことを言うんだ」
「リヒトに決めさせればいい。とにかく、わたしはリヒトを孫とするが、師にはならない。リヒトの師はおまえだ」
「アノイ」
「レムに顔見せも兼ねて、また堅氷には出張ってもらおう。陛下に話をつけてくる」
「アノイっ」
呼び止めるまもなく、アノイはさっさと行ってしまった。このままでは拙いと、慌てて寝台から降りようとして、眩暈に襲われる。耐えているうちにアノイの気配が消えた。転移門を使ったのだろう。そうなるともうマルには追いかけられない。アノイのように自由に転移門を使える力はないのだ。今すぐ足で追いかけても、話はもう女王に伝えられている。
はあ、と深くため息をついた。
「マル? どうしたの?」
朝食を用意していたというリヒトが、その盆に野菜を挟んだ麺麭と、温かい飲み物を乗せ、備えつけの机に置くところだった。
「……なんでもない。沐浴する」
「すごい汗……だいじょうぶ?」
「夢見が悪かっただけだ。まあ、今もその延長線上にいるようだが」
「? なんのこと?」
これが悪い夢の続きであったのなら、どれだけ気持ちが楽なことだろう。現実だというのは、ひどい寝汗が伝えてくる。それが不愉快で、マルはゆっくりと寝台を離れると浴室に向かった。
「マル、朝食……」
「沐浴を終えたら食べる」
「あ、うん」
浴室の扉を閉め、乱暴に衣服を脱ぎ、魔術で水を湯に沸かして浴槽に溜める。適当なところでざぶんと湯に浸かり、寝汗を流しながらこれからのことを考えた。
アノイがリヒトの師を断ることは想定していたが、命令までするとは考えていなかった。それも、マルがアノイには絶対的であることをわかっての命令だ。性質が悪い。おまけに力を見せてみろと言われた。そのために女王に話をつけるとまで言われた。この状況を回避するには、逃げるしかない。しかしどこに逃げろというのだろう。逃げ場なんてない。逃げられる場所なんて限られている。
どうしたらいいのだろう。
「マル、着替え、置いとくよ?」
「……ああ」
「ねえ、アノイはどうしたの? さっきまでいたんだけど」
「……さあ」
「どこに行ったんだろ……せっかく朝食用意したのに」
扉一枚隔てた向こうからの、よく通る声に、マルは本当にどうしたものかと項垂れる。
リヒトを拾った責任は持っているつもりだが、だからといって師になるつもりはなかった。師に選ばれることもないと思っていた。それがどうだろう。師になれと、周りから外堀を埋められている。
いっそ、本当にどこでもいいから逃げてしまおうか。リヒトを置いて、カヤがそうしていたように連絡手段を絶って、消えてしまおうか。いや、それはきっとアノイが許さない。マルのことに関しては勝手にするアノイが、マルに隙を与えるわけがない。下手をすれば、魔導師が総出でマルを探しに出てくる。筆頭はロザヴィンだ。あの仕事がある限り、ロザヴィンなら喜んでマルを探しに出てくるだろう。
逃げようにも逃げられない。
本当に、どうしたらいいだろう。
項垂れながら沐浴を終わらせ、着替え、濡れたままの髪に文句を言われながらリヒトに拭われ、朝食を口に運ぶ。濡れていた髪がリヒトによって乾かされ、朝食を終えると、再びアノイが現われた。睨んでみたが効果はない。リヒトが用意した朝食を嬉しそうに口に運び、これからレムニスのところに行こうと、リヒトに話しかけている。
「おいで、マル」
そう声をかけられたとき、ゾッとした。アノイが静かに怒っているとき、その声にマルは本能的にゾッとする。それはアノイが親のような師であったから、植えつけられた恐怖だ。逆らったら自分がどうなるかわからない。
「……マル、なんか変。どうしたの?」
「気にしなくていい」
「でも……」
こんな事態を誰が予想していただろう。魔導師団長ですら、こんなことは予想していなかったはずだ。 もちろん、アノイに呼び出されたカヤも、アノイの進言に耳を傾けた女王も、マルに仕事をさせようと躍起なロザヴィンも、誰も予想なんてしていなかっただろう。
本当に困った。
逃げたいのに逃げられない。
逃げたら、自分がどうなるかもわからない。
「マル、ほんとにだいじょうぶ?」
心配してくれているリヒトに、マルは力なく見つめ返す。問題にされているのが自分だとリヒトが知る必要はない。これはマルの問題であって、リヒトは関係ない。
どうしたものかとため息をつきながら、けっきょく策を見つけられないまま、魔導師がよく力の訓練に使用する広場に到着した。
まだ誰も来ていないが、すぐに気配が追いついた。
「朝から一騒動を起こすか」
カヤだ。マルの力を一番よく知っているのはアノイだが、その次はカヤだと言えるだろう。だからアノイはカヤを呼びつけたのだ。
カヤは、アノイの夫レムニスも一緒に連れて来ていた。
「おや、マルがいますね。久しぶりの息子です」
「言っておくがわたしとあなたの歳は二つしか違わない」
「アノイさまの息子なのですから、わたしにとっても息子ですよ。幾度言わせる気ですか」
抱擁しようとするレムニスをかわすと、アノイが「レム」と彼を呼び、リヒトを紹介する。
「きみがリヒトですか。初めまして、アノイの夫レムニスです。あなたにとってはおじいちゃんですね。そう呼んでください」
「えっと……その」
「慣れませんか? そのうち慣れますよ。いやはや嬉しいですね。こんなに可愛い孫娘ができたなんて」
満面の笑みで、レムニスはリヒトと握手を交わす。心底嬉しそうなのが少し複雑だ。アノイは外見的にそうだが、レムニスだって祖父というには年齢的には若い。父母でもいいのではなかろうか。
「……楽土に、あなたの相手をしろと言われたが」
カヤに声をかけられて、はたと現状を思い出した。
逃げそびれたのは言うまでもない。
「ちょうどいい機会だと思って、アリヤたちを呼んだ」
「よくも余計なことをしてくれた」
「?」
なぜアノイに呼ばれたのか、どうして自分が選出されたのか、わからないわけではないだろうに、カヤは暢気だ。おまけに、これも勉強だとばかりに自身の息子まで呼ぶとは、腹が立つことこの上ない。
こうなっては、もはや、諦めるほかないのだろうか。
「……敢えて、口にする」
「ん?」
「カヤ」
昨日に続いて名を呼ぶことで察して欲しい。
「どうなろうが知らないぞ」
「……本気か」
「見れば納得するだろう。わたしが、師には向かないということを」
瞬間的に黙したカヤが、くるりとマルに背を向ける。ぱちん、と指を鳴らし、その動作だけで硝子のような壁を作った。その壁は、マルとカヤ、アノイとリヒトとレムニス、場所を二つに隔てる壁だ。
「これでいいだろう?」
促すカヤに、マルは諦めて頷いた。
「なにこれ面白い。見えない壁がある」
「堅氷の力だ。結界、だな」
「けっかい?」
「ほかにも観客がいる」
リヒトの疑問にアノイが答えると、一つ二つと気配が増えた。女王によく似た面差しの王子アリヤ、その侍従で瞬花の魔導師イチカ、さらには話を聞きつけたらしい雷雲の魔導師ロザヴィンとその弟子シュエオン、魔導師団長ロルガルーンにその補佐の魔導師まで、わらわらと集まってくる。
「……なんの見世物だ」
うんざりとすると、当たり前のようにアノイが言った。
「誰もおまえが最弱だなどとは思っていない」
見せてみろ、とアノイは言う。
「おまえの、本当の力を」
マルは顔をしかめた。
「意味もないことだ」
こんなことしても、マルの気持ちは変わらない。むしろ思い知るだけのことになるだろう。
マルは、どうしたって師には向かない。
「マナトア・ルーク=ヒュエス・ホロクロア。力を見せなさい」
「……なにが起きてもわたしは知らないぞ」
「堅氷の魔導師カヤ・ガディアンが相手をする。その意味が、わからない者たちではない」
真っ直ぐ見つめてくるアノイを一瞥し、マルは背を向けると広場の中央に歩を進める。同じようにカヤも歩を進め、互いに距離を取って立ち止まった。
「あなたの力を受け止めるのは久しぶりだ……ヒュー」
「……今だけはその名で呼ばれてもいい。だが……もうその名で呼ぶな」
「おれにとって、あなたはヒューだ。それ以外のなに者でもない」
「諦めの悪い……」
「あなたが言った。家族は怖くない、と」
「気遣うなとわたしも言ったはずだ」
「気遣ってなどいない。おれは……あなたも家族だと思った」
「それは間違いだと言っておこう。きみは、わたしなどを気にかける必要もない」
「いやだ」
その瞬間、ゴッと風がマルを襲う。それまで風が吹く気配もなかったのだから、もちろんそれはカヤの仕業だ。わざわざ挑発までしてくれるらしい。
最後の悪足掻きのように、マルは「困ったな」と思った。
思ったが、そこまでだった。
「封印解除」
その呟きはマルの感情さえも殺してしまう。




