12 : 圧し負けてなんていられない。1
一仕事終えたあとの数日は、いつも夢見が悪い。冷や汗が気持ち悪くて目覚めるなんてことはよくある。マルが数日間そんな状態になるから、ロルガルーンも与える任務のことは考えてくれた。夢見が悪い数日間は、ゆっくりとした時間を過ごすことが多い。
「マルぅ?」
ハッと、意識が浮上する。リヒトの声はよく響くので、近くにいるときはその声がよく耳に届いた。
「ここだ」
リヒトの声に返事をして、身体を起こす。手許が滑って、少し慌てた。
「マル、沐浴してんの?」
扉一つ隔てた向こう側から、リヒトの声がした。ばしゃ、と水音を立てながらマルは「ああ」と返事をする。
入ったときは熱かった湯が、今ではすっかりとぬるくなっていて、寒さに気がついた身体がぶるりと震えた。疲れているせいか、こんなところでまた眠ってしまっていたらしい。
「着替え出しておくね。これ、全部洗っていいやつ?」
「ああ……いや、自分でやるから、気にしなくていい」
「そう言って溜め込んで、今に着替える服がなくなるよ」
「……。頼む」
忙しさにかまけてリヒトをかまっていなかったが、考えてみれば自分の身の回りにもかまっていなかった。リヒトが掃除をしてくれているおかげで部屋が綺麗なせいか、掃除以外に洗濯などは、このところまったく手を出していない。
今日は身の回りのことを片づけて、終わったらリヒトに必要なものを調達しに行こう。それがいい。
マルはぬるくなった湯に呼びかけて再び熱を加えると、身体を温め直してから浴室を出た。適当に水気を拭い、ぱさぱさしている髪がふと目に留まって、邪魔になってきたその長さを少し考える。
「……切るか」
自分をかまっていなかった時間が長いので、髪は伸び放題だ。邪魔くさいなと思って後ろに結えることもあるが、どうもマルは髪を結うのが感覚的にあまり好きではないらしく、長く結えていられない。短い状態がマルの気性には合うらしい。だが、だからといってそれを維持していられるものでもなく、けっきょくは伸びっ放しになるのが常だ。
理髪店に行くか、それとも誰か捕まえて切ってもらうか、考えながら髪の水気を拭い、リヒトが用意していった服を着る。ほぼ休暇を与えられているようなものなので官服でなくともよかったのだが、リヒトが用意してくれたのは官服で、しかも洗濯されていた。気づけばリヒトに世話されている自分に、師になったとは認めたくなくても師としてどうだろう、と少し落ち込む。しかもなんだか慣れてきたような気がしているから恐ろしい。
「便利さに慣れるとは、このことか……」
ぽそりと呟いて、居間に戻る。
朝から沐浴していたが、転寝していたせいで太陽はもう中天に近い。損した気分になるのは我儘だなと思いつつ、部屋に風を入れるために窓を開けた。
今日は温かい。このところは好天気が続いている。
そろそろ寒い雨季が近づいてくるので、買いものを済ませるなら今のうちだ。
「ヒュー、いるか」
ふと、部屋の入り口のほうから、懐かしい呼び名を口にする声が聞こえた。マルをそう呼ぶのはひとりだけなので、「マルだ」と訂正しながら返事をする。
扉を開けて入って来たのは、今日は官服姿のカヤだ。マルの様子でも見に来たのだろう。律儀だな、と声をかけようとして、ふとその長身の後ろに小さな影を見つけてマルは首を傾げる。小さな影は、マルが口を開くよりも先にマルのほうへと転がるようにして飛び込んできた。
「マル」
「……ああ、アノイか」
飛び込んできた小さな身体を抱きとめて、苦笑する。少女のときのまま時間が止まってしまった魔導師、楽土の魔導師アノイだ。マルに「マル」と愛称をつけた名付け親でもある。
「なんで逢いに来てくれなかったんだ」
「いや、忙しかったから」
「待ってたのに」
「いつでも逢えるだろう」
「わたしが来るまでこなかった」
「忙しかったと」
「待ってたのに」
「……。悪かった」
ひたすら苦笑し、アノイの好きなように抱きつかせて、マルは顔を上げる。カヤが少々呆れている様子だった。
「わざわざ連れて来たのか」
「逢いたがっていたからな」
「陛下のそばには誰か置いてきたのか」
「今は雷雲がいる。シャンテが、荒れているからな」
「緩衝材か……哀れだな」
「今、いいか?」
「この状態でそれを訊くか?」
「……それもそうだな」
マルを確実に捕まえておくためにアノイをわざわざ連れてきたのだろうに、カヤはさらっと白々しい。
「任務はないだろう?」
「ないが、午後は出かけるつもりだ。天気がいいうちに買いものを済ませておきたい」
「ああ、鳴響だったか。弟子だそうだな?」
「まあ……わたしに師は不向きだが、できるところまでは教えるつもりだ。あとは……そうだな、アノイ、頼まれてくれないか」
好きに懐かせているアノイに、のちのちはリヒトの師になってくれまいかと頼んでみる。きょとん、としたアノイは、どうやらリヒトの話を聞いていなかったようだ。
「弟子なんて、いつのまにとった」
「つい先日だ」
「もうそんな歳か」
「あなたの中でわたしはだいぶ小さいままのようだが、わたしももう三十を半分過ぎたぞ」
「マルは小さいままでいい」
「それはちょっと……いろいろと不味くないか」
「マルは小さくていい」
体格差はかなりのものであるのに、アノイの中でマルという魔導師は、随分と幼い状態で止まったままのようだ。そもそも名付け親というよりも、ほぼ親のようなものなので、その感覚はわからなくもない。子どもはいつまでも子どもなのだろう。ついでのようにアノイの夫にまで子ども扱いされた日には、なんだか悲しくなったけれども。
「でも、マルの弟子か……このところよく見かけるあの娘か?」
「見かけてはいるのか」
「ああ。そうか……あの子が、今度からわたしの娘になるのか」
「あなたには子どもがいっぱいだな」
「一番はマルだ」
「……。だろうな」
マルを一番にかまうのはアノイだ。魔導師は基本的に同胞に甘く、よくかまいたがるし世話を焼きたがるのだが、マルを一番にそうするのはアノイだった。だから魔導師団棟に帰って来ても、マルはアノイのところには行かなかった。行けば最後、今この状態であるように、しばらくつき合わなければ離してもらえないからだ。
「買いものに出かけるなら、わたしも行く。娘ができたのは久しぶりだ」
「それは助かる。わたしでは、彼女がなにを必要とするかわからない」
「風詠も呼ぼう。ちょうど戻ってきている。シィゼイユのところに帰る前に捕まえないと」
ぱっと、アノイが身体を離した。そのまま踵を返し、部屋を出て行こうとしたところでいきなり立ち止まる。どうしたのかと思えば、洗濯を終えたらしいリヒトが空籠を抱えたまま扉の前で立ち竦んでいた。
「あ、あの……っ」
「おまえが、鳴響か」
「え?」
「わたしはアノイ。楽土の魔導師と呼ばれている」
「ら……楽土、さま?」
「アノイ、だ。おまえは、マルの弟子で、わたしの娘になるのだから」
「へ?」
立ち止まっていたアノイが、立ち竦むリヒトに突進する。やるだろうなと思っていたが、案の定だ。
「ぅええぇえっ?」
リヒトが吃驚しながら、空籠を床に落とし、アノイに抱きつかれる。小さいと思っていたリヒトは、だがアノイより背はあったようで、ちょっと大きく見えた。
「よく通る声だな」
ぼそりと、カヤが言う。
「だから鳴響か」
リヒトの声は、一度聞けばどうやら耳に残るらしい。マルは確信が持てず曖昧にしていたが、ロルガルーンや他の魔導師だけでなくカヤもそうだと言うのだから、これはもう決定でいいだろう。
リヒトは「鳴響の魔導師」と呼ばれることになる。力の媒体は、詠唱だ。
「マル」
「ん。なんだ、アノイ」
「堅氷と話が終わったら城門に。リヒトと風詠を捕まえてくる」
「もう行くつもりか」
「行く」
リヒトという新しい同胞を迎えられて、それが娘となるのが嬉しいのか、表情はあまり変わらないが嬉しそうな雰囲気で、アノイは戸惑うリヒトを引っ張って部屋を出ていった。
「楽土は嬉しそうだな」
「久しぶりの同胞だからだろう。瞬花の息子以来か」
「あなたの弟子だから、だと思うが。楽土にとって、あなたは真に息子みたいなものだろう」
「あの外見に息子だと言われてもな……」
「中身は年寄りだ」
「それはアノイとレムニスに失礼な発言だと思う」
「そのレムニスだが……」
アノイとリヒトが去って、もともと静かであった部屋がさらに静かになると、開け放した窓からそよそよと心地よい風が入ってくる。その風を頬に受け、未だ水気がある髪を乾かすように少し弄る。
「レムニスが、どうかしたか?」
「ユゥリアが宰相にすると言っている」
「ああ……宰相補佐だからな。レムニスも承諾するだろう」
「いや、レムニス自身は辞退を申し出ている。そこまでの手腕はないと」
「レムニスならだいじょうぶだと思うが……」
「実家のことが気にかかるらしい。だから話をしてみてくれ。おれも、レムニスを宰相に推している」
「王配殿下の推薦があればもはや決定だろう」
「本人の意思を尊重したい。が、惜しい」
「なるほど……」
その話をするために来たのかと思ったが、どうやらそれだけではないらしく、カヤは懐を探って紙煙草の箱を取り出すと窓辺に歩み寄る。人前ではあまり紙煙草を吸わないカヤなのだが、マルが気遣うなと言ったからか、マルの前では遠慮しないことにしたようだ。そもそも、そうでなければ人前で「ヒュー」とマルを呼ばないだろう。
「飲むか?」
「今日はもらおうか」
嗜む程度の紙煙草をカヤにもらって、火を点す。久しぶりの煙にくらっとしたが、すぐに慣れた。
「それで、どうした?」
まだほかに話があるのだろう、と促すと、カヤの無表情に少しだけ心配そうな色が浮かぶ。
「様子を見に来た、では駄目か」
「そんなことだろうとは思っていた。アノイもいたからな」
「楽土はひどく心配している。さっき漸く空気が和らいだ」
「心配されるほどのことでもないと思うが……」
ふう、と紫煙を吐く。
部屋の扉が開きっ放しなので、煙は窓からの風に押されて籠もることなく室内を流れた。
「報告書を読んだ。あれは……おれのせいだな」
「……どこをどう捉えてそう思うに至ったか知らないが、きみが気に病むことはない。気にする必要はあるだろうが」
「同じことではないか、それは」
「だが、思うことは皆、同じだ」
「……どういう意味だ」
「わたしたちは、同胞にやたら甘いからな」
誰かが悪いなんてことはない。
そう言うと、カヤは僅かばかり黙り、なにかを諦めたように首を左右に緩く振った。
「どうしようもないな、魔導師は」
「悲しいということを知っている。だが幸せであることも知っている。そうやって割り切るしかない」
「……そう簡単に割り切れるものか」
「考えてもみろ。きみは、陛下を奪われたら、失ったら、どうする?」
マルの静かな問いに、カヤがハッと瞠目する。気づいていなかったわけでもないだろうに、改めて言われると思うことがあるらしい。
「これは魔導師だけのことではないと、わたしは思う。誰だって、大切な人を護りたい。大切な人と生きたい。魔導師はそれが極端なだけだ」
難儀な生きものだと思う。だから悲しいと思う。
けれどもあのとき、陽春の魔導師は言った。
幸せだった、と。
泣き叫びたかったけれども声が出せなかったのは、彼が感じた幸せを壊したくなかったからだ。彼の幸せだったその気持ちを、否定することこそ、悲しいことだと思ったからだ。
「許せとは言わない。許せとは願わない。ただ、理解してくれ。彼の気持ちを踏み躙らないでくれ」
犯した罪は消えないけれども、同じように抱いた気持ちだって消えることはない。
「自分のせいだと言うなら、陽春の心を否定しないことが、きみのやるべきことだろうな」
「そうまでして訴える必要があったというのか」
「きみが気に病んでいる。それが答えだ」
燃え尽きようとしている紙煙草に気がつき、マルは灰皿を引き寄せると火種を消した。ムッとしているカヤの紙煙草も同じようになっているので、灰皿を差し出す。気がついて火種は消されたが、苛ついたような手がまた紙煙草に伸ばされた。
マルはふっと、息をつく。
こうしてカヤに、割り切れと言いながら。
実は割り切れていないという、愚かしい自分がいることに、気がついていた。
「矛盾しているな……」
「なんだ?」
「いや、なんでもない。わたしはそろそろ行くが、きみはどうする?」
話はこれで終わりだろう、と促すと、紙煙草に火を点けようとしていたカヤの手が止まる。
「……おれも行こう」
「ついて来るのか」
「ああ」
「珍しい」
「少し、考えごとがある」
「……わたしにつき合えと?」
「気にしろと言ったのはあなただ。責任を取れ」
火が点けられなかった紙煙草が、箱に戻される。行くと言ったのはマルなのに、カヤのほうが先んじて歩き出した。廊下に出ると、マルに振り向いて促してくる。
「行くのだろう」
「……大所帯だな」
単体で動くことを好む魔導師が揃うのは珍しい。まとまって動くなど、国行事以外では滅多にないことだ。いったいこれはなんの集まりだろうな、と少々首を傾げながら、マルは居室をあとにした。




