10 : 愚かしくも自分のために。
月日の流れは、遅く感じることもあれば早く感じることもある。それは密度の違いだろう。マルはどちらかというと月日は遅く感じるほうなのだが、しかしリヒトと出逢ってからいつのまにか一月が経ち、師弟関係となってからは十日も過ぎていた。
最初の頃はリヒトも環境に慣れずマルにくっついて歩いていたが、このところは放っておいても魔導師団棟のどこかで魔導師を捕まえ、とにかく質問攻めにしては知識を拾い集めている。とはいえ、標的はもっぱら雷雲の魔導師ロザヴィンで、というのもロザヴィンがマルを探して歩いているからそうなるだけなのだが、ちょうどロザヴィンには弟子がいるので、ついでのようにいろいろと教えてもらえるらしい。
気づけば、あのちょこまかと動く娘は今日も元気だな、とマルはすれ違う魔導師から言われるようになっていた。ついでに、あっちで雷雲の魔導師がおまえを探しているぞ、と教えてもらえるので、文句を大量に抱えているだろうロザヴィンから逃げるのには便利だった。
しかし、それも今日までのことである。
「よぉ、水萍?」
これまで居室には押しかけず、夜は安眠を約束してくれていたのだが、どうにも昼間にマルを捕まえられないことに堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。扉を開けたとたん目の前に灰色の魔導師がいて、その後ろで済まなそうにしているリヒトと、目の前にいる魔導師の弟子である少年シュエオンがいた。
もちろん、マルはくるりと踵を返した。
「逃がすか!」
予測済みであったらしく、呆気なく外套の頭巾を掴まれて引っ張られ、情けなくも恰好悪く後ろに転んだ。地味に後頭部が痛い。
「うわ……マルらしい転び方」
リヒトの呟きに、それはいったいどんな転び方だ、と思う。
「よくも逃げ遂せてくれたなぁ水萍」
地を這いずるような低い声音が上から被さって、顔が引き攣った。せっかく今日まで逃げ続けることができたのに、残念だ。
「久しぶりだな、雷雲」
ゆっくりと身体を起こして、真正面から雷雲の魔導師ロザヴィンを見やる。灰褐色の双眸が、底光りしていて怖かった。歳下に恐怖を覚えるこの感覚は、だいぶ久しぶりだ。
「久しぶり、じゃねぇよ。疲れたとか抜かして三年も国中逃げ回ってくれやがって……漸く戻ってきたかと思えば今度は王都中逃げ回りやがって……てめぇのせいでおれは休暇もろくに取ってねぇんだよ」
「休暇がないのはわたしも同じだ」
「当然だろうが。おれが休んでねぇんだから」
「ん? もしや、立て続けに任務が入っていたのは……」
にやり、と笑うその姿が恐ろしい。
ああ、だからロザヴィンには逢いたくなかったのだ。もう一つの仕事である刑務の仕事を、そのほとんどをロザヴィンに押しつけていたのは事実だ。誤魔化しようもない。ロザヴィンは怒って当然である。
しかし、次には真剣な目をしたロザヴィンは、無言でマルを促してくる。マルに腹を立てているのは確かだが、それは仕事を押しつけられたからではなく、純粋にマルが姿を見せなかったからなのかもしれない。
なんとなくその場の雰囲気を読みながら立ち上がると、廊下に出てくるロザヴィンのために後ろに下がる。
「シュエ、少し頼むぞ」
「夜食作っていいですか?」
「ああ」
弟子にリヒトを頼んでくれたロザヴィンが、廊下に出てくるなり扉を閉めようとする。リヒトが目を丸くした姿がちらりと見えたので、気にするなと目で伝えておいた。マルのその気持ちはリヒトに通じたらしく、或いはロザヴィンが予めなにか言っておいたのか、扉が閉められてもリヒトが驚くような声は聞こえてこない。
「決まったんだろうな」
扉に背を預けて腕を組んだロザヴィンが、幾分か不機嫌そうな声で、マルがこのところ動きまわっていることに対して突っ込んでくる。居室まで押しかけたのは、この話をするためだったのだろう。話がしたいだけなのにマルが逃げ回るから、仕方ない失礼を承知で押しかけたのだ。
「陛下に言われた。おれは動くな、だとさ」
「なぜそう言われたかわかるか」
「シャンテだろ。すっげぇ機嫌悪ぃからな、今の兄貴は」
「王佐の感情に呑み込まれては困る」
「ガキみたいなことするかよ」
「きみは王佐にどこまでも従順だ」
兄の言葉はすべて是とするだろう、と指摘してやると、ロザヴィンは反論もできずにマルを睨んでくる。否定できないのが悔しいのだろうし、マルごときにそれを言われるのも腹立だしいのだろう。
だが、兄である王佐にそれだから、たぶんロザヴィンはここにいる。
カヤには首謀者たる宰相に対しての温情を求められたが、ロザヴィンはおそらく、慈悲なき裁きを求めてくる。そして、宰相の行いを幇助した魔導師にも、容赦ない罰を求めてくるだろう。
マルの予想は、遠からず当たっていた。
「余計な時間かけてんじゃねぇよ」
「……なんのことだ」
「セウリオは地下牢にいる。おれを入らせねぇようにしてっけど、あんたも知ってるように、あの地下牢の檻はおれの力が流れ易くなってんだ。セウリオのところまで行かなくても、おれは奴を殺せる」
物騒なことを平気で口にするロザヴィンに、小さく息をつく。
ロザヴィンに今回の刑務を任せなくて正解だ。ロルガルーンの判断は正しい。そしてカヤも、奇しくもマルに任せたのは間違いではなかった。
「わたしの面目を潰したいのなら、好きにするといい。だが、わたしの決定は王陛下の決定でもある。きみは不敬罪で罰せられるだろう」
「あんたの決定に背く気はねぇよ。時間かけんなって言ってんだ。いつまでセウリオを地下牢に放置しておく気だ」
「まだ十日だ。刑の執行にはもうしばらく時間がかかる」
「悠長なことしてんじゃねぇよ」
「幇助した魔導師を捕まえていない」
「捕まえる気がねぇだけじゃねぇか!」
語気を荒げたロザヴィンが、一歩前に踏み出してマルの胸倉を掴んでくる。手を上げる気はないようだが、その苛立ちはいつ気を変えてもおかしくはない。
ロザヴィンにとって、首謀者の宰相よりも、幇助した魔導師のほうが話の本題であったようだ。むしろ、未だ捕まえていないというその事態を糾弾せずにはいられなくて、それならいっそ自分が動きたくて、確認も兼ねて訴えにきたのだろう。
「奴は罪を犯した。陛下の命を狙った、とんでもねぇ大罪だ。しかもそれを、おれがいるこの王都でやりやがった!」
魔導師を牽制し、罪となれば裁く魔導師だからこそ、いや、それ以前にロザヴィンが持つ正義感が強過ぎるから、自分がいた領域での大罪には余計に苛立つはずだ。その気持ちはわからなくもない。大切な同胞が、その力を万緑にではなく、人間に向けたのだ。許せない気持ちはマルにだってある。なぜ、どうして、とどうしようもない疑問だってある。
「さっさと捕まえろ! 奴は逃げも隠れもしてねぇんだ。野放しにしてんな!」
ロザヴィンの憤りが、肌を通して胸にびりびりと伝わってくる。
痛いくらいの感情に押し負けそうになりながら、しかし揺らぐことない思いで、マルはロザヴィンを見据えた。
「まだそのときではない」
「時間かけんなって言ってんだよ!」
「違う。今は捕まえるわけにはいかない」
「なんっだよ、それ!」
どう言えばいいだろうか、と言いあぐねつつ、マルは胸倉を掴んでいるロザヴィンの腕をぽんぽんと叩く。離してくれ、という意味だったのだが、殴る気はなくても離す気もないらしい。仕方なくそのままの姿で考える。
ロザヴィンは、知っているだろうか。
「わたしが出向いたときが、終わりだとわかっているはずだ」
「は?」
「きみも、なぜわたしときみが、魔導師を裁く任を与えられているか、わかっているだろう」
「当たり前だ」
これはリヒトには言っていないことだが、そうでなくても誰かに言ったことはなく、また暗黙の了解のようなものがあって、はっきりとしたことは公言されていない。
マルには、マルの役割がある。
同じように、ロザヴィンにはロザヴィンの役割がある。
それは、マルとロザヴィンが同じ刑務の魔導師であっても、担うものが違うということだ。マルが動くとき、ロザヴィンが動くとき、それぞれ意味が違ってくる。マルは真に刑務官であるが、ロザヴィンはどちらかというと裁判官に近い、そんなふうに意味が違ってくるので、担う役割も多少だが別れているのだ。このことは特に公言されてはおらず、またマル自身も漠然としているので、ロザヴィンがわかっているとは言い難い。
そして今回、マルが動くということは、ロザヴィンが動くときとは違う流れが起きている。それは珍しくも顕著に、これほどわかり易いことはないというくらい、表われていた。
ロザヴィンが公言されていない「それ」を知るには、もしかしたらちょうどよい機会なのかもしれない。
「呪術師、という存在を知っているか」
「呪術……?」
なんだそれは、とロザヴィンは怪訝そうにする。
やはりロザヴィンは知らないらしい。それぞれ役割が違っているのだということも、この様子なら気づいていないだろう。
いや、無理もない。
「それ」が公言されていないのは、魔導師が罪を犯すこと自体まず滅多にないからだ。国政や民生よりも、万緑にのみ関心が偏る魔導師は、意識して罪を犯すわけではない。人間味に欠けるせいか、むしろ罪とされることにすら関心が向かないのでは、罪を犯しようもないのだ。
だから魔導師は牽制される。人間に害を成すな、国を護れ、力が導く万緑に従えと、国と誓約を交わす。その誓約を違え、破棄されるとき、罪として裁かれる。
マルもロザヴィンもこれまで多くの犯罪を裁いてきているが、魔導師が関わった犯罪は実は多くない。多くあっては国の在り方として非常に困ることだが、とにかくロザヴィンよりも長くその任を担っているマルでさえ脳内で数えられるくらいなのだから、ロザヴィンはもっと経験がないはずだ。担った役割は多少なりとも違うのだと、気づけというほうが難しい。
しかし。
今日まで気づくことなく過ごしてくれたことは、喜ばしいことのように思える。そうあってくれたことが、嬉しく感じる。
「呪術師とは、あちら側へ渡り、堕ちてしまった魔導師のことだ」
今日知らせてしまうこと、教えてしまうことを、誰にというわけではないが同胞たちに謝罪しながら、マルは口にした。
「……堕ちた、魔導師だと?」
ロザヴィンが、灰褐色の双眸を瞠目させる。マルの胸倉を掴んでいた腕から緩やかに力が抜けていった。
「魔導師には唯一許された自由がある。それは魔導師なら誰もが知ることだ。だが、知らないだろう、それは同時にあちら側へ渡る確率を上げるということを」
「……なんだよ、それ」
「奪われては生きられない」
「は?」
「失っては生きられない」
「……だから、なんだよ?」
「では奪われ失ったら? 魔導師はあちら側へ渡ってしまう」
胸倉から離れていった腕の拘束に、ほっと息をつく。息苦しさは消えたとはいえ、あまり言いたくないことを口にしているので、空気が重い。もともと今回はなにかと空気が重いと感じていたが、けっきょくそれは終わるまで続くのだろう。
「あちら側へ渡った魔導師は呪術師となる。万緑にのみ従っていた力が、異界へも向けられるからだ。魔導師の力が万緑のためでなく、私利私欲に塗れた業にも働き、それは人々を脅かす。魔導師がもっとも恐れるべき事態が、招き寄せられるということだ」
「……つまり?」
「万緑のため、人のためであるはずの魔導師が、人に仇なすただのバケモノになる」
ひゅっと、ロザヴィンは息を飲んだ。こんな話を聞かされたのでは当然の反応だろう。
「今回、セウリオ閣下の行いを幇助した魔導師は、堅氷の報告通り呪術師になっていた。報告されたときはまだ近い存在だったが」
「ま……待てよ、そんなわけ……だって奴は」
「死期が近いようだ」
「え……?」
「失う恐怖に耐えきれず、また奪われることに狂乱し、世界に絶望した。それほど、彼の妻はもう長くない」
同情の余地を、与えたわけではないけれども。
襲ってくる恐怖がどれほどのものかもわからないのに、もう長くない最愛の伴侶から引き離すことは、同じ可能性を秘めている魔導師としてできなかった。
甘いことかもしれないけれども。
だがこれは、罪人への温情ではない。
「だから今はまだ、捕まえられない。だが安心しろ。誓約破棄の宣言は成され、戒めの鎖は発動した。彼は逃げも隠れもしないのではなく、できない。おそらくそうするために、自分から動いたのだろうな」
捕まえられないのではなく、捕まえないだけだ。国との誓約を破棄したことにより、誓約した時点で植えつけられる戒めの鎖が発動し、呪術師となった魔導師を拘束している。身体に絡みつく重い鎖は、逃げる意志も挫くほどの威力があるのだ。逃げられやしない。そういうふうに作られている。それはロザヴィンも知る威力だ。
「呪術師、に……なると、戒めの鎖が、発動するのか」
「問答無用で発動するわけではない。誓約破棄がなされて、発動する。呪術師になったからといって、戒めの鎖は発動しない」
罪人となって初めて戒めの鎖は発動する。呪術師になっても、誓約を破棄することがなければ、誰に気づかれることもなく表面上は魔導師でいられるのだ。マルが知る、昔、呪術師となった魔導師は、だから誰にも呪術師だと気づかれることがなかった。
「あちら側へ渡っても、罪を犯すとは限らない。だが今回は……手遅れだった」
「戒めの鎖が発動したから、気づいたってのか」
「そう、言えるな……」
込み上げてきた苦く複雑な思いに唇を歪めると、一度は離れてくれた腕が再び伸ばされた。先ほどよりも強く胸元を掴まれて、だがしかし言葉もなく、灰褐色の双眸が訴えてくる。
なぜ、どうして、気づいてやれなかったのだと。
なぜ、どうして、こんなことになったのだと。
それはマルには答えられないことで、マルも思うことだった。
「おれたちは…っ…なんのためにいるんだよ」
マルがこの仕事で動くとき、それは呪術師が生じたときだ。ロザヴィンが動くときとは違うその流れのうえで、自分の存在を疑問に思うことはしばしばある。ロザヴィンは顕著に感じることだろう。
だが、マルは。
「わたしは呪術師を殺すためにいる」
この仕事を任じられたとき、マルはそのために存在すると思った。
救うことができなかった人への贖罪に、そしていとしくて大切な同胞のために、愚かしくも自分のために、あの日からずっと、マルは罪人となった呪術師を殺し続けている。




