09 : 誰のためでもない。
恐ろしくなったのだ、とその人は言った。
なにが、と問うた。
すべてが、これからの未来が、これからの国が、不安でたまらなく恐ろしくなったのだと、その人は言った。
「……愚かな真似をしましたね」
マルはひっそりと息をつき、獄中にあってもなお威厳を失わぬ人物に目を細めた。
「あなたほどのお方が、なぜそのようなことを考えつくのか……わたしは理解に悩みます」
「貴公に理解してもらおうなどとは思わぬ」
「でしょうね。ゆえにあなたは、今ここにいるのですから」
はあ、と幾度めと知れぬため息をつくと、マルは牢に背を向けてその場をあとにした。
暗かった牢獄から出た外は、いつにも増して陽光が強く感じられる。
「終わった?」
その声は、入口のすぐ脇から聞こえた。
「今日のところは、な」
「まだなんだ」
「すぐ終わるような任務ではないだろう」
ゆっくりと振り向けば、少し居心地が悪そうにしながらも、きちんとマルを待っていたリヒトがいる。
ひとりにされるのは心細かろうと思って連れてきたものの、けっきょくあまりかまってやることができず、まして師らしくなにかを教えてやることさえできず、ただそばに置いているだけの状態だが、マル以外の魔導師とすれ違ったときには挨拶をさせているので、そのうちマルが言ったように周りから魔導師の知識を集めるようになるだろう。そのほうが効率のいい勉強になると、リヒトも学習するはずだ。
「ねえマル、訊いてもいい?」
「ん?」
「ここ……牢屋、だよね?」
「ああ」
「マルは、ここでなんの仕事があるの?」
ふと、移動しようと思っていた足が止まる。リヒトを見れば、居心地が悪そうにしていた理由がわかった。
「いやな場所に連れてきてしまったか……」
またリヒトへの配慮に欠けていた。マルには慣れた場所だが、リヒトにとっては恐ろしい場所だったかもしれない。この獄舎には、犯罪者が捕らえられているのだ。
「べ、べつにいやってわけじゃないけど、ちょっと……怖い、かな」
「……すまない」
「謝らないでよ! ひとりでいるよりマルと一緒にいられるほうが、ずっといいもん!」
「いや、きみを連れてくるような場所ではなかった……と、思う」
「だ、だいじょうぶ! だってマル、ここでお仕事があったんでしょ? あたし、邪魔になるだけなのに、ついて来ちゃって……あたしこそごめんなさい。でも、師団棟にひとりでいるより、このほうがいい。マルには邪魔なだけだと思うけど」
「邪魔というわけではないが……」
「ほんとっ?」
「むしろただ連れ回しているだけで申し訳ない」
「それこそいいよ! だって……まだここ、慣れないし。マルと一緒のほうが、いいし」
獄舎へは恐怖を覚えたようだが、それでもまだ心細い思いをするよりよかったらしい。
「そうか……」
「ねえ、なんのお仕事、だったの?」
ここへは極力リヒトを連れてこないようにしようと考えながら、今回起きた事件ついて軽くリヒトに説明する。
「女王さまが命を狙われて、王子さまが暴れて……それで、なんでマルが動くの?」
「わたしは言わば刑務官みたいなものだ」
「刑務官?」
「魔導師の罪を裁く魔導師、それがわたしと、あと雷雲の魔導師だ」
「……罪を裁く人?」
「ああ。とはいえ、そう魔導師が罪を犯すことはない。だから、罪を犯した者が魔導師でなくとも、わたしや雷雲が動くことはよくある」
さらりと話して聞かせると、リヒトは意外そうな顔をしていた。
「……魔導師って、そういうこともやるんだ」
「もちろん向き不向きはある。わたしはそうであるかもしれないが、きみはそうである必要はない」
「あたしはマルみたいなことをやらないの?」
「やりたいのか?」
「……たぶん、無理」
「賢明な判断だ」
魔導師にもいろいろある。国防が主な仕事でも、そのためにいろいろな手段があるように、それぞれに小さくとも役割があるのだ。その中で、マルは罪人を裁く魔導師でもある、というわけである。リヒトも、いずれは力の系統で任せられる仕事の方向性が定まるだろう。
「マルはどうして魔導師の罪を裁く人になったの?」
この話をすれば問われるだろうと思っていたことに、マルは一瞬だけ答えようか迷い、だがいずれは知ることになる話だと区切りをつけ、口を開く。
「罪を背負った者が、罪を裁く者となる」
「……、え?」
「罪を知る者でなければ、罪を裁くことはできない。魔導師においてはとくに、魔導師だから知ることになる罪がある。その罪は魔導師にしか裁けない。知っている魔導師だから、断罪する者となる」
意味がわかるだろうか。
見やった先のリヒトは、深緑の双眸を大きく、見開いていた。
そのとき風が強く吹いて、リヒトの長くはない髪が乱され、マルの伸び放題になっている髪を巻きあげる。時間的にそろそろ寒くなってくるので、マルは外套の頭巾を被ると、リヒトにも手を伸ばして外套の頭巾を被せてやった。瞬間的に触れてしまった指先に、リヒトがびくりと身体を震わせる。
「……わたしが怖いか」
問うように苦笑すると、リヒトはさらに大きく目を開き、だがすぐ俯いて首を左右に振った。
「怖くない」
そう言ったリヒトの声は、少しだけ、震えていた。
「マルは、あたしをここに連れて来てくれた。あたしの師匠になってくれた。あたしを真正面から見て、あたしが言うことにきちんと耳を傾けてくれた。だからあたしはマルなんて怖くない」
ただ吃驚しただけだと、リヒトはマルに手を伸ばしてきて、ぎゅっと外套の端を掴む。
「マルなんて怖くないもん」
それは虚勢のような、けれども精いっぱいの強がりのような、それでいて素直な言葉だった。
「……わたしは最弱の魔導師だからな」
くすりと笑うと、リヒトが顔を上げた。怒っているような顔つきは、けれども少しだけ瞳を潤ませ、泣きそうでもあった。
「マルは罪人なの?」
「……ああ」
「どうして罪人になったの?」
「魔導師が潜ませている罪を知っている」
「それだけで罪人なの?」
「救えなかった人がいる」
「それはマルの責任なの?」
「気づくのが遅れた。気づいたときには手遅れだった。けっきょくそのまま、死なせてしまった」
「マルがもっと早くに気づいていたら、その人は死ななかった?」
「わからない……わたしは力が弱いだけでなく、その人が、いつ頃からか苦手だったから」
未だ昇華できずに、抱えている思いがある。それは死ぬまで抱えていくだろう罪悪感で、マルにとっての贖罪だ。魔導師団長ロルガルーンはいい加減にしろと言っていたが、こればかりは、抱えて生きていくべきだとマルは思っている。
誰のためでもない、自分のために、それは高慢なことだとわかっていた。
「……マル」
「ん?」
「泣きそうな顔してる」
リヒトの手のひらが、握っていた外套の端から離れ、マルの頬を包む。泣きそうな顔をしているのはリヒトなのに、いつのまにか、リヒトの問いに答えているうちにマルにも伝播してしまったらしい。
「マル、悲しい?」
「……どうだろうな。あまり、考えたことはない」
「悲しいんだよ、マル」
「そうかもしれないな」
いつのまにかリヒトに慰められていて、これだから誰かをそばに置くというのは恐ろしいことなのだと思う。この手のひらのぬくもりを知っているから、その温かさを、その安堵を知っているから、求めた先から恐怖に襲われる。
けれども。
リヒトの手のひらは、想像以上に、マルをホッとさせていた。
罪人だと言っているのに伸ばされる手のひらが、案ずるように見つめてくる深緑の双眸が、忘れていたものを思い出して求め始めている。
それがよいことなのか、いけないことなのか、マルには判断できなかった。
「ねえマル、訊いてもいい?」
「なにを」
「その人は、誰?」
ああ、と唇を歪める。
「いずれわかる」
「わかる? あたしでも?」
「あまりにも、有名な人だからな」
いずれ耳にするだろう名を、ここで言う必要はない。まして、その人と自分との関係は、ひどく影が薄い。その人の存在を歪めたくないからこそ、マルの口からは言えなかった。




