第1話 忘れられた少女
その日、僕は一人の少女を失った。
いや、正確には――世界から、彼女の存在そのものが消えてしまった。
彼女と過ごした日々も。
交わした約束も。
彼女が確かにここにいたという事実さえも。
すべてが、最初から存在しなかったかのように。
それでも僕は覚えている。
彼女が最後に見せた、あの笑顔を。
---
「アレン! いつまで寝てるの!」
耳元で響いた声に、僕は飛び起きた。
「うわっ!」
目の前には、腰に手を当てた少女が立っていた。
茶色の髪を肩のあたりで揺らし、青い瞳を細めている。朝日を背にしたその姿は、いつもと変わらない。
「もう朝だよ。薪拾いに行く約束、忘れたの?」
「わ、忘れてないって!」
「じゃあ、どうして寝てるの?」
「それは……」
言い返せずにいると、少女――ミラは呆れたようにため息をついた。
「まったく。アレンは昔から変わらないね」
「ミラだって、昔から人のことを急かしてばかりだろ」
「誰かさんがのんびりしてるからでしょ」
ミラはそう言って笑った。
ここは、エルディア大陸の北東に位置する小さな村、リーベル村。
大陸の中心から遠く離れたこの村には、立派な城も、名のある魔法使いもいない。
あるのは、広い麦畑と古びた家々、そして村を囲む小さな森だけだ。
魔物が出ることもあるが、村の自警団が追い払える程度のものばかり。
少なくとも、昨日まではそうだった。
僕の名前はアレン・クロイツ。
今年で十七歳になる。
特別な才能があるわけでもなく、剣の腕が立つわけでもない。
将来の夢は騎士になること。
ただし、村の大人たちからは「まずは薪拾いをまともにできるようになれ」と笑われている。
そして、そんな僕をいつもからかってくるのが、幼なじみのミラだった。
「ほら、早く行こう。日が暮れるまでに戻らないと」
「分かってるよ」
僕たちは家を出て、森へと向かった。
---
「ねえ、アレン」
薪を拾いながら、ミラがふいに口を開いた。
「もし本当に騎士になれたら、どうする?」
「どうするって?」
「この村を出ていくんでしょ?」
「まあ、そうなるかもしれないな」
「ふうん」
ミラは足元の枝を拾い上げた。
「じゃあ、私も連れていってよ」
「え?」
「だって、アレン一人じゃ絶対迷子になるもん」
「ならないって!」
「この前だって、森で迷ったじゃない」
「あれは道を間違えただけだ!」
ミラは楽しそうに笑った。
その笑顔を見ると、どうしても言い返す気がなくなってしまう。
僕たちは昔から、こんなやり取りを繰り返してきた。
「……世界の果てって、本当にあるのかな」
ふと、ミラが空を見上げた。
「世界の果て?」
「うん。大陸の向こう側。地図にも載っていない場所」
「さあな。あるんじゃないか?」
「見てみたいな」
「じゃあ、一緒に行こう」
何気なく口にした言葉だった。
ミラは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「約束だよ?」
「ああ。約束だ」
彼女は小指を差し出した。
僕はそれに自分の小指を絡める。
そのとき、ミラの瞳が一瞬だけ淡く光ったように見えた。
「……どうした?」
「ううん。なんでもない」
ミラは小指を離し、いつもの笑顔に戻った。
「忘れないでね」
「忘れるわけないだろ」
その言葉に、彼女はなぜか少しだけ寂しそうな顔をした。
---
異変が起きたのは、その帰り道だった。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
「……今の、何?」
ミラの表情が強張る。
「魔物かもしれない。村に戻ろう」
僕たちは足早に森を抜けようとした。
だが、その直後。
木々の間から、黒い影が飛び出した。
四本の脚を持つ獣。
全身は墨を塗りつぶしたように黒く、頭部には歪んだ角が二本生えている。
「グルルル……」
「な、なんだよ、あれ……」
見たことのない魔物だった。
いや、魔物という言葉で片づけていいのかさえ分からない。
その身体からは、黒い霧のようなものが立ち上っていた。
僕はミラの手を掴んだ。
「逃げるぞ!」
しかし、魔物は僕たちよりも速かった。
地面を蹴り、一瞬で距離を詰めてくる。
「ミラ!」
僕は彼女を突き飛ばした。
直後、鋭い爪が僕の左肩を切り裂いた。
「ぐっ……!」
地面に転がり、激痛に顔を歪める。
血が流れている。
腕に力が入らない。
立ち上がろうとしても、身体が言うことを聞かなかった。
「アレン!」
ミラが駆け寄ろうとする。
「来るな! 逃げろ!」
そのときだった。
森の奥から、ゆっくりと一人の人影が現れた。
黒い外套をまとった人物。
顔はフードに隠れて見えない。
その人物は魔物には目もくれず、まっすぐミラを見つめていた。
「……やはり、ここにあったか」
低く、落ち着いた声だった。
「その器が、まだ残っていたとは」
「……誰?」
ミラが問いかける。
しかし、黒い外套の人物は答えなかった。
「予定より少し早いが、問題はない」
その人物が片手を上げる。
すると、魔物の身体が不自然に震えた。
黒い霧が膨れ上がり、獣の姿がさらに歪んでいく。
「逃げろ、ミラ!」
僕は必死に叫んだ。
だが、彼女は動かなかった。
その青い瞳は、黒い外套の人物を見つめたままだった。
まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
「……まさか」
ミラが小さく呟く。
その直後、魔物が動いた。
---
気づいたときには、僕の身体は宙を舞っていた。
背中から木に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出される。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
それでも、僕は顔を上げた。
「ミラ……?」
彼女は魔物の前に立っていた。
逃げることも、避けることもできたはずなのに。
彼女は僕をかばうように両手を広げていた。
「どうして……」
「だって」
ミラは振り返った。
その顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。
「約束したでしょ。一緒に世界の果てを見に行くって」
魔物の爪が振り下ろされる。
「ミラあああああっ!」
鈍い音がした。
赤いものが、視界を覆った。
彼女の身体が地面に倒れる。
僕は何も考えずに駆け寄った。
「おい……嘘だろ……?」
ミラの身体を抱き起こす。
彼女の服は赤く染まっていた。
呼吸は浅く、瞳から少しずつ光が失われていく。
「ミラ! しっかりしろ!」
「……アレン」
「喋るな! 今、助けを呼んでくるから!」
「ねえ……」
彼女は僕の服を弱々しく掴んだ。
「なんだよ! 何でも聞くから!」
「私のこと……」
「何だよ!」
「忘れないで……」
その言葉を最後に、彼女の手から力が抜けた。
「……ミラ?」
返事はない。
「ミラ……?」
彼女の身体が、淡い光を帯び始めた。
最初は小さな光だった。
やがて光は全身を包み込み、彼女の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。
「待てよ……」
僕は彼女を抱きしめた。
「行くなよ……!」
しかし、腕の中にあったはずの温もりは、指の間からこぼれるように消えていった。
最後に残ったのは、彼女の髪に飾られていた小さな銀色の髪飾りだけだった。
「……ああああああっ!」
叫び声が森に響いた。
その瞬間。
僕の胸の奥で、何かが砕けた。
---
――継承回路を確認。
頭の中に、無機質な声が響いた。
――魂核との接続を開始します。
目の前に、青白い文字が浮かび上がる。
【遺志継承】
【対象:ミラ】
【魂核残滓:12%】
【継承可能情報を検出】
何だ、これは。
何が起きている。
僕には何も分からなかった。
ただ、目の前に表示された文字だけが、やけにはっきりと見えた。
【継承を開始しますか?】
そんなことを聞かれても、分かるはずがない。
僕はただ、ミラを失いたくなかった。
もう一度、彼女の声を聞きたかった。
もう一度、あの笑顔を見たかった。
――承認を確認。
【継承を開始します】
胸の奥から、熱が込み上げる。
同時に、頭の中へ何かが流れ込んできた。
誰かが剣を振るう感覚。
知らない景色。
聞いたことのない声。
そして、ひとつの言葉。
――忘れないで。
「うっ……!」
僕の右手に、青白い光が集まった。
光は細長く伸び、一本の剣の形を作る。
それは剣と呼ぶには不完全なものだった。
刃は透き通り、輪郭は揺らいでいる。
それでも、確かに何かが宿っていた。
魔物がこちらを向く。
黒い外套の人物が、初めて驚いたように動きを止めた。
「……そうか」
その人物が小さく呟く。
「彼女は、最後にそこまで残したのか」
僕には、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、目の前の魔物が憎かった。
ミラを奪ったものが許せなかった。
「返せ……」
剣を握る手が震える。
「ミラを、返せ!」
魔物が飛びかかってくる。
僕は剣を振り上げた。
何の技術もない。
訓練された剣士のような動きでもない。
ただ、目の前の敵を斬りたいという一心だった。
青白い光が弾ける。
刃が魔物の身体に触れた瞬間、黒い霧が大きく裂けた。
「ギャアアアアッ!」
魔物の身体が崩れ落ちる。
黒い霧が空中に散り、やがて消えていった。
僕はその場に膝をついた。
剣は光の粒となって消えていく。
力が抜ける。
身体中が痛い。
それでも、僕はまだミラの髪飾りを握りしめていた。
【継承完了】
【対象:ミラ】
【取得情報:記憶情報の一部】
【警告:魂核に欠損を確認】
【欠落情報:対象との初対面に関する記憶】
「……初対面?」
意味が分からない。
僕とミラは幼なじみだ。
物心ついた頃から、ずっと一緒にいた。
初めて会った日のことだって、覚えているはずだ。
なのに、なぜ。
そのとき、背後から声がした。
「興味深いな」
振り返る。
黒い外套の人物が、こちらを見つめていた。
「彼女の記憶を受け継いだか。だが、まだ不完全だ」
「お前……ミラに何をした!」
僕は立ち上がろうとした。
しかし、身体が動かない。
黒い外套の人物は、そんな僕をしばらく眺めていた。
やがて、興味を失ったように背を向ける。
「まだ、その時ではない」
「待て!」
「いずれ分かる。お前が何を受け継いだのかも、彼女が何者だったのかも」
その人物の足元に黒い霧が広がる。
次の瞬間、姿は消えていた。
森には、僕一人だけが残された。
---
村に戻ると、すでに日が傾き始めていた。
村人たちは、僕の怪我を見て慌てて駆け寄ってきた。
「アレン! どうしたんだ、その怪我は!」
「森で魔物に襲われたんだ……」
「魔物だと? それで、誰と一緒だった?」
僕は答えようとした。
「ミラと……」
しかし、村人たちは顔を見合わせた。
「ミラ?」
「誰だ、それは?」
冗談だと思った。
「何言ってるんだよ。ミラだよ。いつも一緒にいるだろ」
「お前、森で頭でも打ったのか?」
「茶色い髪で、青い目の女の子だよ! 村に住んでるだろ!」
誰も答えない。
誰も思い出そうとしない。
まるで、最初からそんな少女など存在しなかったかのように。
「……嘘だろ」
僕は自分の家へ走った。
ミラの家があった場所へ向かった。
そこには、空き地が広がっていた。
家はない。
庭もない。
彼女が育てていた花もない。
ただ、草の生えた土地があるだけだった。
「そんな……」
手の中の髪飾りを見つめる。
これはミラのものだ。
彼女がいつも髪につけていた、小さな銀色の髪飾り。
何度も見てきた。
何度も、彼女の髪に揺れる姿を見てきた。
なのに、どうして誰も覚えていない?
どうして、彼女がいた証拠はこれしか残っていない?
「……嘘だろ」
僕は髪飾りを強く握りしめた。
これまで過ごした日々は、確かにあったはずだ。
彼女の笑顔も、声も、何気ない会話も。
全部、覚えている。
それなのに、この世界には彼女がいない。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
---
その夜。
僕は眠れずにいた。
窓の外には、見慣れた村の景色が広がっている。
いつもと変わらない夜。
いつもと変わらない星空。
ただ一つ、違うことがある。
ミラがいない。
「……約束したのに」
世界の果てを一緒に見に行こうと。
忘れないと約束したのに。
僕は銀色の髪飾りを胸に抱いた。
そのとき、窓の外に浮かぶ月が、ほんの一瞬だけ黒く染まった。
まるで、何か巨大なものが月を覆い隠したかのように。
そして、誰もいない部屋に声が響いた。
『ようやく、見つけた』
それが誰の声だったのか、僕には分からない。
ただ、その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かが震えた。
同時に、頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
【遺志継承――第一段階】
【継承者:アレン・クロイツ】
【警告:継承を続行する場合、自己記憶の消失が発生する可能性があります】
僕はその警告の意味を知らなかった。
まだ、何も知らなかった。
この力が何のためにあるのか。
ミラが何者だったのか。
そして、僕がこれから何を失っていくのか。
この日から、僕の知っていた世界は、少しずつ壊れ始めたのだ。




