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追憶の墓標と虹の架け橋  副題:ブルーボネットの追憶~過去を繋ぐ旋律~  作者: 如月妙美


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【第六章】比翼の鳥~たおやかな旋律~

第一節:女優業の終幕、終の棲家へ

 女優として数多の栄光を築き上げた安曇は、60歳を迎えると、静かに引退を決意した。『追憶の墓標と虹の架け橋』でのアカデミー賞受賞から3年が経ち、彼女にはもはや女優として求めるべきものは何も残っていなかった。

 引退発表の記者会見は、都内の高級ホテルで静かに行われた。集まった報道陣は100名を超え、彼女への愛情と敬意に満ちた空気が会場を包んでいた。

「長い間、皆様に支えていただき、心より感謝申し上げます」

 安曇の声は落ち着いていて、迷いの色は微塵もなかった。

「私はもう、この世界でやり残したことはありませんわ。十分すぎるほど、素敵な役をいただきました。特に最後の作品で、若い頃の夢だった通訳官を演じることができ、人生の円環が完成したような気持ちです」

 記者の一人が質問した。

「今後の予定は?」

「静かな場所で、穏やかに過ごすつもりです。これまで走り続けてきましたから、今度はゆっくりと自分の時間を大切にしたいと思います」

 発表はシンプルに行われたが、長年のファンや関係者から惜しむ声が数多く寄せられた。テレビ局やスポーツ紙は連日、安曇の軌跡を特集し、「昭和・平成・令和を駆け抜けた名女優」「永遠の美しさを持つ女優」などの見出しが踊った。

 しかし安曇自身には後悔も迷いもなく、むしろ深い安堵感と穏やかな心境に包まれていた。女優業を続けることへの疲れもあったが、それ以上に、人生の本当の意味を見つけたような感覚があった。

 引退発表後の数日間、安曇は東京の自宅で一人静かな時間を過ごした。リビングの窓からは、春の桜が見え、穏やかな陽光が部屋を照らしている。安曇の手には、ジョンが残したあの手紙があった。もう何度読み返したか分からないほど、紙は柔らかくなっている。

 手紙をそっと胸に抱きながら、彼女はゆったりとした口調で呟いた。

「ジョン、あなたは私があなたの後に何人もの男性を愛したことも許してくれると言ったわね。私なりに色々な恋を経験して、今こうして独りでいるけれど、それでも幸せな人生だったと思うのよ。あなたが私を愛した深さを知ることができたから...」

 安曇はこれまでの恋愛を振り返った。30代の頃には、同じ事務所の俳優と3年間付き合った。彼の名前は大隆雄おおたか ゆう。確かに「隆」の字が入っていた。40代では、脚本家の隆二と深い関係になった。50代では、大学教授の隆治と出会った。皆、優しく知的で、どこかジョンを思わせる雰囲気を持っていた。

 そして不思議なことに、彼らと別れるとき、いつも「Because I Love You」のメロディーが頭を巡ったのだった。ジョンの転生論が正しければ、彼らは皆、李隆基の魂の欠片だったのかもしれない。

「あなたの理論は、本当だったのかもしれないわね」

 安曇は微笑みながら、手紙の最後に書かれた詩を読み返した。英語の美しい響きが、心に深く染み入る。

 数週間後、安曇は、誰にも相談することなくひとり静かにアーリントン湖畔に住宅を購入した。湖を見下ろす小高い丘の上にある、こじんまりとした一軒家だった。庭からは湖畔のガジュマルとソメイヨシノがよく見え、ブルーボネットの花壇も見渡せる。

 人生最後の日々をジョンとの思い出の場所で過ごすことが、今の彼女には最も自然な選択だった。親族や知人たちからは心配の声もあったが、安曳は柔らかく微笑んでこう答えた。

「私にはここで過ごす理由があるの。私にはもう、ここが故郷のようなものなのですわ。心配しないでくださいな」

 マネージャーの青山は最後まで心配していた。

「安曇さん、本当にアメリカで一人暮らしを?何かあったときはどうするんですか?」

「大丈夫よ、青山さん。私には、ここで待っている人がいるの。それに、従姉妹たちやライアン監督もいるし、何かあったら連絡を取れるから」

 青山は安曇の決意の固さを感じ取り、最終的には応援することにした。

「分かりました。でも、何かあったらすぐに連絡してくださいね」

「ありがとう、青山さん。長い間、本当にお疲れさまでした」

 こうして安曇はテキサス州アーリントンに終の棲家を構え、穏やかで静かな日々を送ることになった。


第二節:湖畔での新しい生活

 新しい生活は穏やかだった。安曇は毎朝6時に起床し、軽い朝食を取った後、湖畔を散歩するのが日課となった。ブルーボネットが咲き誇る道を歩いては、ジョンとの想い出のガジュマルとソメイヨシノ桜の成長を眺める時間が、彼女にとって最も幸せなひとときだった。

「おはよう、子どもたち」

 安曇は毎朝、木々に話しかけた。ガジュマルは今や立派な大木となり、ソメイヨシノは毎年美しい花を咲かせている。

「あら、また背が伸びたのね。あなたは本当に立派な子になったわね」

 と桜に話しかけると、木々が風に揺れて嬉しそうに囁いた。鳥たちも安曇の存在に慣れ、彼女が近づいても逃げなくなった。

 ブルーボネットの花壇では、毎年新しい花が咲き、古い花は種を落として次の世代に命を繋いでいる。36年前に安曇とジョンが蒔いた種の子孫たちが、今も美しく咲き続けている。

 安曇は小さなスプレーボトルを持参し、木々や花々に水をあげた。これは、ジョンが最後の手紙で頼んだことだった。

「ジョン、私は約束を守っているわよ。この子たちは、とても元気に育っています」

 午後は読書をしたり、音楽を聴いたりして過ごした。時々、ライアン監督が様子を見に来てくれることもあった。彼も50代半ばとなり、巨匠として映画界でますます重要な地位を占めるようになっていた。

「安曇さん、お元気そうで何よりです」

「ライアン監督、ありがとうございます。おかげさまで、毎日幸せに過ごしていますわ」

「先生も喜んでいることでしょう。あなたがここで幸せに暮らしていることを」

 ライアンは時々、ジョンとの思い出を語ってくれた。恩師への深い愛情が、彼の言葉の端々から感じられる。

「先生は晩年、よく『安曇はどうしているだろうか』と気にかけていました。映画の企画を立てたのも、もう一度あなたに会いたいという気持ちがあったからだと思います」

「そうだったのね...ジョンらしいわ」

 安曇は微笑んだ。すべては運命的な出会いだったのかもしれない。


第三節:『Two birds with joined wings』の誕生

 家に戻ると、安曇はジョンが残したあの美しい詩を何度も読み返した。英語で書かれた詩は、読むたびに新しい発見があった。そして、この詩を自らの手で曲にすることに決めた。

 音楽などほとんどやったことのなかった彼女には難しい作業だったが、不思議とメロディーは自然に浮かび上がった。まるで、どこか遠い記憶の中に、すでにその旋律が存在していたかのように。

 最初はピアノで簡単なメロディーを探った。安曇は子どもの頃に少しだけピアノを習っていたが、それも中学生までのことだった。しかし、ジョンの詩を読んでいると、自然に指が鍵盤の上を動いた。

「不思議...まるで誰かが私の手を導いているみたい」

 数週間かけて、安曇はメロディーを完成させた。そして彼女はその詩に『Two birds with joined wings(比翼の鳥)』というタイトルをつけた。そのタイトルが心に浮かんだ瞬間、安曇は不思議な懐かしさを感じた。

「ああ、この感覚...どこか遠い記憶、遠い過去の記憶にあるようだわ...」

 まるで、大昔に同じような歌を歌ったことがあるような、そんな既視感に包まれた。もしかしたら、楊貴妃だった前世で、李隆基と一緒に歌っていた歌なのかもしれない。

 安曇は地元の音楽スタジオで、その曲を録音した。プロの歌手ではないが、彼女の声には深い感情が込められており、聞く人の心を打つ何かがあった。

 やがて『Because I Love You』を聴くこともなくなり、代わりに彼女は自らが作曲した『Two birds with joined wings』を静かな毎日のBGMとして流すようになった。

 朝の散歩の時も、読書の時も、料理を作る時も、いつもその美しいメロディーが家に響いていた。まるで、ジョンが側にいて一緒に歌っているかのような気持ちになった。


第四節:幸せな年月

 安曇の新しい生活は、驚くほど充実していた。一人暮らしでありながら、孤独を感じることはほとんどなかった。湖畔の自然、ジョンの思い出、そして『Two birds with joined wings』のメロディーが、彼女の日々を豊かに彩っていた。

 時々、日本から友人や関係者が訪ねてくることもあった。皆、安曇の穏やかで幸せそうな様子に驚いた。

「安曇さん、本当にお元気そうですね。一人暮らしが心配でしたが...」

「ありがとう。私は今、人生で最も幸せな時を過ごしているの」

 実際、安曇の表情は60代になってからの方が、若い頃よりも輝いて見えた。女優時代の華やかさとは違う、内面からにじみ出る深い平安と満足感があった。

 春になると、ソメイヨシノが美しく咲き乱れ、安曇は毎日のようにお花見を楽しんだ。桜の下で読書をしたり、『Two birds with joined wings』を口ずさんだりして過ごした。

 夏は湖畔が最も美しい季節だった。ブルーボネットは初夏に花期を終えるが、代わりに他の野花が咲き、湖面は深い青色に輝く。安曇は湖畔のベンチで夕日を眺めるのが好きだった。

 秋になると、ガジュマルの葉が美しく色づく。常緑樹であるガジュマルも、テキサスの気候では少し葉の色が変わるのだった。安曇はその変化を楽しみながら、季節の移ろいを感じていた。

 冬は湖畔が最も静かな季節だった。雪が降ることもあり、その時は湖畔全体が白い世界に変わる。安曇は暖炉の前で、ジョンの手紙を読み返したり、『Two birds with joined wings』を歌ったりして過ごした。

 そんな平和な日々の中で、安曇は徐々に、自分の人生の意味を理解していった。女優として成功したことも、多くの恋愛を経験したことも、すべてはこの瞬間のためだったのかもしれない。

「私は今、完全に幸せだわ」

 安曇は心からそう思っていた。


第五節:最後の春

 やがて安曇が65歳を迎えた年の4月1日、春の日差しが穏やかに差し込む午後だった。桜は満開で、ブルーボネットも一面に咲き誇っている。安曇にとって、アーリントンで過ごす5度目の春だった。

 この日の朝、安曇は何となく特別な気分で目を覚ました。いつもより早く起き、丁寧に身支度を整えた。鏡の中の自分を見つめながら、深い満足感を覚えた。

「今日は、美しい一日になりそうね」

 安曇はいつものように、湖畔を散歩し、子供たち...ガジュマル、ソメイヨシノ桜、ブルーボネットを訪れた。いつもより長い時間をかけて、それぞれの木々や花々と対話した。

「あなたたちのおかげで、私は本当に幸せな時を過ごすことができました。ありがとう」

 安曇は花枝を数本摘み、それを小さな花束にした。そして、静かな笑みを浮かべながらベンチに腰を下ろした。

 湖面は午後の陽光を受けて、金色に輝いている。風が静かに吹き抜け、桜の花びらがひらひらと舞い散っている。ブルーボネットの香りが空気を満たし、鳥たちが美しいさえずりを響かせている。

 安曇は目を閉じ、『Two birds with joined wings』を静かに口ずさんだ。彼女の声は風に乗って湖面を渡り、まるで天使の歌声のように響いた。

「By your side, my soul forever watches over you...」

 歌い終わると、安曇は瞳を閉じ、胸に手を当て静かな声で囁いた。

「ジョン、あなたに逢えて本当に幸せだったわ...ありがとう」

 その時、安曇の前に薄っすらとジョンの姿が現れた。5年前に湖畔で見た時と同じ、若い頃の彼の姿だった。

「安曇、よく来てくれた」

「ジョン...お迎えに来てくれたの?」

「君を待っていたよ。長い間、お疲れさまでした」

「私は幸せでした。あなたとの愛を胸に、充実した人生を送ることができました」

「僕もだよ。君が幸せそうに暮らしているのを見て、僕も幸せだった」

「今度は、離れ離れにならないでね」

「もちろんだ。僕たちは『比翼の鳥、連理の枝』。永遠に一緒だよ」

 ジョンが手を差し伸べると、安曇も手を伸ばした。二人の手が触れ合った瞬間、安曇は深い平安に包まれた。

 静かな微笑みを浮かべたまま、彼女は安らかにその生涯を終えた。

 ガジュマルの葉がそよぎ、ソメイヨシノ桜の花びらが優しくひら舞い落ちて、彼女の髪を飾った。傍らには、ガジュマルの小枝、桜の花房、ブルーボネットの一輪があった。彼女の表情は、穏やかというよりも、何故か未来への希望に満ち溢れているように見えた。

 夕方、散歩中の住民が安曇を発見し、救急車が呼ばれたが、医師は「眠るような安らかな最期」だったと語った。享年65歳。死因は急性心不全とされた。


第六節:永遠の安息地

 安曇の死はアメリカでも日本でも大きく報道された。多くのファンや関係者が哀悼の意を表し、彼女の功績を讃えた。しかし、遺言により葬儀は行われず、遺灰はジョンと同じようにガジュマルとソメイヨシノ桜の根元、ブルーボネットの花壇に撒かれた。

 ライアン監督が、その最後の願いを叶えてくれた。彼は涙を流しながら、恩師と恩師の愛した女性の遺灰を、思い出の地に撒いた。

「先生、安曇さん、どうぞ安らかにお眠りください」

 安曇の墓標はジョン・ブレイドの墓の隣に建てられ、墓石には二羽の鳳凰、「比翼の鳥」の絵柄が刻まれた。墓標には、『Azumi Ijuin 1962-2037 Forever with her beloved John』と刻まれている。

 彼女の遺産の大部分は、湖畔一帯の整備に使われた。新たに遊歩道が整備され、ベンチが設置され、美しい庭園が造られた。そして、その一帯は『比翼パーク』と名付けられた。

 公園の入り口には、安曇とジョンの物語を記した小さなプレートが設置された。ただし、そこに書かれているのは「映画『追憶の墓標と虹の架け橋』の原作者ジョン・ブレイド教授と、主演女優伊集院安曇を記念して」という簡潔な文章だけだった。

 比翼パークは、地元の人々に愛される憩いの場となった。多くのカップルがここでプロポーズをし、結婚式の写真を撮った。不思議なことに、このパークで結ばれたカップルは皆、幸せな結婚生活を送ると言われるようになった。

 春になると、ソメイヨシノが美しく咲き乱れ、初夏にはブルーボネットが一面を青く染める。ガジュマルは大きく枝を広げ、多くの人々に木陰を提供している。

 時々、風の強い日には、『Two birds with joined wings』のメロディーが風に乗って聞こえてくるという人もいた。それが本当かどうかは分からないが、パークを訪れる人々の心を慰める美しい話として語り継がれている。


第七節:守られた秘密

 安曇とジョンの愛の物語の詳細を知るのは、監督ライアン・スコットただ一人。彼がその真実を語ることは、生涯なかった。

 ライアンは恩師の最後の願いを守り続けた。ジョンは生前、「もし安曇が幸せそうでなければ、僕たちの関係については語らないでほしい。しかし、もし彼女が幸せそうであれば、その秘密は君に託す」と言っていた。

 安曇がアーリントンで幸せそうに暮らしているのを見て、ライアンは安堵した。そして、その秘密を胸に秘めたまま、二人を静かに見守り続けた。

 安曇の死後、日本のメディアから取材の申し込みが数多く寄せられた。しかし、ライアンは丁寧に断り続けた。

「安曇さんは素晴らしい女優でした。それ以上のことを語る必要はないと思います」

 ライアンの中では、恩師とその愛した女性の物語は、あまりにも美しく、あまりにも神聖なものだった。それを世間の好奇心にさらすことは、彼にはできなかった。

 時々、比翼パークを訪れ、二人の墓標に花を供えることが、ライアンの唯一の習慣となった。そして、心の中で静かに語りかけるのだった。

「先生、安曇さん、あなたたちの愛の物語は、僕の心の中で永遠に生き続けています」


エピローグ:永遠の愛

 それから数年後、比翼パークには新しい伝説が生まれた。満月の夜に、湖畔を歩く若い男女の姿が目撃されるようになったのだ。男性は物理学の教科書を持ち、女性は美しい着物を着ている。二人は手を取り合い、幸せそうに微笑みながら湖畔を歩いている。

 目撃者によると、二人は決まって桜の木とガジュマルの前で立ち止まり、何かを語り合っているという。そして、ブルーボネットの花壇で美しい歌声を響かせることもあった。

 それがジョンと安曇の霊なのか、それとも人々の想像なのかは分からない。しかし、その美しい話は多くの人々に愛され、比翼パークを訪れるカップルたちの間で語り継がれている。

 現在も、比翼パークでは毎年春になると桜祭りが開かれ、初夏にはブルーボネット祭りが行われている。そして、その度に『Two birds with joined wings』のメロディーが静かに響き渡る。

 安曇が作った美しい歌は、今も多くの人々の心を癒し続けている。それは、時を超えた愛の証として、永遠に歌い継がれていくことだろう。

 ガジュマルとソメイヨシノは今も元気に成長を続け、ブルーボネットは毎年美しい花を咲かせている。そして、その根元には、永遠の愛を誓った二人の魂が、静かに眠り続けている。

 比翼の鳥、連理の枝...

 彼らの愛は、死を超えて、時を超えて、永遠に続いていく。



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