【第四章】再会の予感~遥かなるアーリントンへ
第一節:過去から届いた招待状
安曇は55歳を迎え、相変わらず女優として多忙な日々を過ごしていた。若い頃の華やかさは落ち着いた美しさへと変わり、最近は母親役や姑役などで評価を高めている。演技に深みが増し、若手女優たちからも尊敬される存在となっていた。
そんなある春の日の午後、安曇が自宅のリビングで次回作の台本を読んでいると、スマホに所属事務所の須藤社長(2代目)から「緊急。ハリウッドの巨匠から大作の出演オファー!!」のメールが着信し、ほぼ同時に、バイク宅急便で一通の企画書が届いた。宅配便を受け取った安曇は、企画書の差出人を確認して少し驚いた。アメリカの著名な映画監督、ライアン・スコットからの日米合作映画への出演依頼だったのだ。
資料をめくると、その映画の題名は『追憶の墓標と虹の架け橋』。太平洋戦争後の日米の和平交渉をテーマにした壮大な作品だった。企画書の表紙には、桜と星条旗が美しくデザインされ、国際的な大作への期待を感じさせる。
「ライアン・スコット監督……そういえば最近話題の人よね。まだ40歳代なのに数々の話題作をヒットさせた超大物監督だわ。なんでも、物理学の博士号をもつ異例の経歴とか...先月、テレビのインタビューでVR技術を駆使して仮想現実社会を描いた話題作のインタビューを見たわ。彼の作風に、ドキュメンタリー風の戦争映画はないはず。どうしてまた、いきなり...」
安曇は首をかしげながら、資料をさらに詳しく読み進めた。この映画のテーマは単なる戦争映画ではなく、文化の架け橋となった人々の物語だということが分かってきた。
安曇の役柄は、当時の日本政府の首席通訳官。まさに安曇が若き日に目指した通訳、その職業の頂点の役柄だった。36年前の見果てぬ淡い夢の記憶と映画への期待で胸が高鳴った。
企画書と共に、安曇宛ての親展の封書が添えられており、ライアン監督直筆のメッセージが入っていた。封を切ると、丁寧な英語で書かれた手紙が現れた。
『伊集院安曇様 この度は、貴女様に弊作品への出演を、ぜひともご検討いただきたく、失礼ながら、まずは企画書を送らせていただきます。本作の主役は、アカデミー賞主演男優賞受賞歴のある大御所俳優ですが、原案者と私の意向で、本当の主役は助演のあなたです。主役も私たちの真意に賛同し、実質的には、彼の方が助演に回ります。このことは内密に... また、あなたの過去の経歴を拝見し、通訳を目指されていたことを知り、この役はまさにあなたのためにあると確信いたしました。 心よりお待ちしております。 ライアン・スコット』
私が本当の主役?どういうことなのだろう?安曇は困惑しながらも、その手紙の内容に深く感謝した。監督が自分の過去を調べ、こんなにも思いを込めて役を用意してくれたことに心を動かされた。
ところが、作品の撮影場所を目にした途端、安曇の指先がピタリと止まった。
『撮影地:米国テキサス州アーリントン』
(アーリントン……)
彼女の心の奥深く、ずっと触れないでいた古い記憶がわずかにざわめいた。18歳で留学し、ジョンという2歳年上の大学生と恋をし、失恋した都市だ。
しかし、それはすでに遠い昔の話だ。長年の女優人生の中で何度も恋を重ねてきた。結婚はしなかったものの、深い関係を築いた男性たちもいた。55歳の安曇にとって、その記憶は、すでに淡く遠いものになりかけていた。
事務所のマネージャーの青山が、コーヒーを入れながら安曇に微笑みかけて話しかける。青山は安曇の担当になって10年になる、信頼できるパートナーだった。
「監督からの指名ですよ。すごいじゃないですか、安曇さん。ハリウッドの大物監督からの直々の指名なんて、そうそうあることじゃありません」
「ええ、光栄だわ」
安曇は微笑んで答えたが、心の中では複雑な気持ちが渦巻いていた。
青山が不思議そうに尋ねた。
「安曇さん、何か考え込んでいるようですね?この企画、とても魅力的だと思いますが...」
「ええ、若い頃にアーリントンに留学していたから、ちょっと懐かしいだけ」
それ以上は語らず、彼女は資料をゆっくり閉じた。ライアンからの手紙をバッグに大切にしまい込んだ。遠く微かな想い出として、アーリントンという地名が心に響いてくる...。
翌日には、安曇の事務所側から、監督のライアン・スコット側に、映画出演の正式な承諾を伝えられた。青山は国際的な契約の詳細を詰めるため、アメリカの製作会社との連絡を取り始めた。
その数日後、監督のライアン・スコットから、安曇に公式の手紙が届いた。今度は日本語で丁寧に翻訳された文書と、英文のオリジナルの両方が同封されていた。
『伊集院安曇様 この映画は、私の恩師が企画・構想した作品です。あなたに、この映画の鍵となる日本政府の首席通訳官役をお願いしたい。この役は、戦後復興期の日本と アメリカを繋ぐ重要な架け橋となった実在の女性をモデルにしています。 どうぞよろしくお願いいたします。 ライアン・スコット』
恩師という文字を目にしても特に何も感じることなく、安曇は淡々とその手紙をしまい込んだ。撮影は数ヶ月後に始まるという。準備期間があることで、安曇は少し安心した。
(久しぶりにアーリントン...そういえば...あの湖畔のブルーボネットは元気に咲いているかしら。それに、ジョンと一緒に植えたガジュマルやソメイヨシノ桜はどうなったのかしら。あの子たちも、今ごろは大きく育ったでしょうね...)
ジョンとのことを特に強く思い出すこともなく、安曇は穏やかに微笑んだ。今の彼女にとって、若き日の恋は、美しくもすでに癒えた過去であった。
第二節:撮影初日・故郷のような異郷
映画の撮影初日、安曇を乗せた飛行機はテキサス州ダラス・フォートワース国際空港に降り立った。36年ぶりのテキサスの地。飛行機から降り立った瞬間、テキサス特有の乾いた風と広い空が彼女を迎えた。
入国審査を終えてタクシーでアーリントンへ向かう途中、懐かしい風景が窓を流れていった。緑豊かな街並み、青く広がる空、まっすぐに伸びる道路...すべてが懐かしい故郷のように感じられた。街並みは発展し、新しい建物も増えていたが、基本的な雰囲気は変わっていない。
「変わってない...あの日と全然変わってないわ...」
安曇は窓に映る自分の顔を見つめた。55歳になった今の自分と、18歳だった頃の自分。時の流れを感じずにはいられない。
アーリントン湖のそばを通り過ぎる時、安曇は湖畔に広がる青い花畑に目を奪われた。鮮やかなブルーボネットの花々が一面を埋め尽くしている。
「まだ咲いているのね...」
二人で蒔いた種が今も美しく咲き続けていると思うと、穏やかな気持ちが広がった。あの頃の自分たちが残した小さな遺産が、こうして時を超えて受け継がれていることに感動を覚えた。
撮影所に到着すると、ライアン・スコット監督が安曇を温かく出迎えた。190センチの長身、黒いスーツに身を包み、知的なメガネをかけ、髭はなく、髪も長くない。映画監督というより、大学教授といった風貌だ。実際、物理学の博士号を持つという経歴を知っているだけに、その印象は的確だった。
「ようこそ、安曇さん。遥々日本からお越しいただき、お会いできて光栄です。あなたの映画やドラマはたくさん拝見しました。特に『母の背中』での演技は素晴らしかった」
「こちらこそ、ライアン監督。素晴らしい映画作品に呼んでくださり、感謝していますわ」
安曇は礼儀正しく挨拶を交わした。監督の温かい人柄と、作品への真摯な姿勢が伝わってくる。
監督は丁寧に、今回の映画の主旨や撮影スケジュールについて説明をしてくれた。セットの案内をしながら、作品への思い入れを語る姿は、まさに研究者のようだった。
「この作品は私の恩師が書いた物語が元になっています。通訳官という役を、かつて通訳を目指したあなたに演じていただくことで、この物語にリアルさと深みが出ると確信しています。あなたの、日本映画での高い英語力も評価させていただきました。今回の役では、英語での台詞も多くありますが、ご負担をおかけします」
監督の言葉に安曇は微笑み、頷いた。
「精一杯務めさせていただきます。英語については、少し不安もありますが、全力で取り組みます」
「大丈夫です。必要でしたら、語学コーチもつけますので」
監督の配慮に、安曇は感謝の気持ちを新たにした。
第三節:懐かしい風景との再会
撮影初日の午後、安曇はホテルの部屋で軽く身支度を整えると、ライアン監督が手配した車に乗り込んだ。車窓から見える街並みは昔よりもずっと賑やかになり、記憶より鮮やかな街の風景が目に飛び込んでくる。新しいショッピングモールや住宅地が広がっているが、基本的な街の骨格は変わっていない。
「すみませんが、あの湖畔に寄っていただけるかしら?」
彼女が運転手に告げると、運転手は快く頷き、アーリントン湖の湖畔へと車を向けた。湖が見え始めると安曇の胸は静かに高鳴った。
車を降り、安曇は懐かしい湖畔の道を歩いた。そこはかつてジョンと二人で何度も散策した道だ。木陰を作る大きな樫の木、湖面に映る夕日、水鳥たちの鳴き声...すべてが記憶の中のままだった。
ゆるやかな風が吹き抜け、安曇の髪を優しく揺らした。春の終わりの心地よい風が、36年前の記憶を運んでくるようだった。
湖畔に咲き誇るブルーボネットは見事なほど美しく、一面を鮮やかな青色に染めていた。テキサス州の州花でもあるこの花は、安曇とジョンの思い出の花でもあった。
(こんなに美しく咲いて...私たちが蒔いた種の子孫なのかしら?)
胸がじんわりと温かくなり、安曇はしゃがんでそっとその花びらに触れた。花びらは柔らかく、優しい香りがした。
少し離れた場所に、大きく枝を広げたガジュマルの木と、凛とした姿で咲くソメイヨシノ桜があった。
安曇は目を細めてその二本の木をじっと見つめた。
「大きくなったわね...ジョンと私が植えたあの子たち...」
ガジュマルは気根を伸ばし堂々と湖畔を守るように立ち、桜は春の風に花びらをひらひらと舞わせている。二本の木は、まるで姉妹のように寄り添って成長していた。
「本当に立派に育って...よかった...」
安曇は声を震わせた。この木々が、36年間ずっとここで成長し続けていたことに、時の重さと生命の力強さを感じた。
ふいに背後から静かな足音が聞こえ、ライアン監督の穏やかな声が響いた。
「安曇さん、懐かしいですか?」
安曇は振り向き微笑んだ。
「ええ、とても。ここは私にとって特別な場所なんです」
監督は深く頷き、静かな声で語った。
「ここは恩師ジョン・ブレイドが大切にしていた場所でもあります。あなたと何か縁があったのでは、と私は感じていました」
安曇の心臓が一瞬早く打った。
「ジョン・ブレイド...その方が、あなたの恩師なの?」
「はい。テキサス大学アーリントン校の物理学教授です。私の人生の師でもあります」
安曇は静かに答えた。
「そう、彼とは昔ここで...」
そこまで言いかけて安曇は静かに口を閉じた。
(今さら何を言っているのかしら。私はもう過去に囚われる年齢ではないのに...)
ライアンは優しく微笑み、安曇を気遣うように言った。
「ゆっくりしてください。今日は撮影前に、この場所を訪れてもらったのは、恩師の依頼だったんです」
「恩師の...?ジョンの?」
「はい。ジョン先生は、この映画の構想を立てていた時、あなたをイメージして通訳官の役を描いていたと聞いています。この地であなたが再び輝くことで、彼もきっと喜ぶでしょう」
そう言うと、ライアン・スコットはひとり語りを始めた。まるで大学の講義のような、静かで穏やかな口調だった。
「私は、あなたと同じ大学の理学部物理学科の卒業生です。10年後輩です。そして、ジョン教授の研究室の最初の弟子でした。ジョン先生が提唱されていた、量子物理学分野での仮想現実世界論のシミュレーション構築を手伝いました。博士号を取得し、研究室に残りたいと申し出た時、先生は喜んでくれると思っていたのですが...強く反対され、私に映画業界への就職を助言されました」
ライアンの目には、恩師への深い尊敬の念が宿っていた。
「先生は、『君には物理学徒としての情熱はあるが、理論構築の才能はない。一方で画像生成能力には天才的なものがある。この人間社会も一つの仮想現実、上位次元から投影された画像みたいなものだ。君には、僕たちの研究の一般社会での伝道師になってほしい』そう言われました」
安曇は静かに聞いていた。ジョンらしい言葉遣いだと思った。
「そして『君より優れた物理学者は多いが、僕が知る限り、君以上の画像技術者はいない。僕は、父母もすでに他界し、兄弟もなく、妻子もいない。僕の愛(LOVE)は、かつて愛した人との想い出と、彼女と残した植物たち、そして君だ。LOVEの語源は「大切」にすることだ。日本語の「愛」は一つ屋根の下で雨降る日も心を久しくすること、「大切」は時には大胆に相手を自分から切り離すこと。もともと、愛には肉体的な欲求がない。仮想現実世界において、「愛」の本来の姿は時空を超えて「寄り添うSOUL(魂)」だ』」
ライアンの言葉に、安曇の心は静かに震えた。
「『この世界には愛が失われたから別れるという者がいる。でも、それは欺瞞で「愛」への冒涜だ。その真実は相手の肉体的な魅力に飽きたとか、経済的な失望が多い。もともと、そこには愛など存在していなかったというのが僕の理論からの解だ。本来、「愛」は冷めることも消えることもありえない。不変の「寄り添うSOUL(魂)」だ。僕は、かつて「愛」ゆえにある女性を切り離した。そして今、君を切り離す。そうすると、僕の心には何も残らなくなるのか?そうではない。二人ともそのままに、不変の量で存在し続ける。この世界の物理法則では相手は去り、心からも消えることになるが、仮想現実世界では、僕が意識した瞬間に「愛」はそのままの姿を現すのだ』先生は、いつもの講義口調でそのように語られました」
安曇は胸の奥が小さく震えたが、それを表情には出さずに静かに頷いた。
「結局、僕は半信半疑ながら、尊敬する先生の指導に従い、映画業界に就職しました。先生はその後も定期的に僕を自宅に招き、何度も人生と仕事へのアドバイスをくださいました。じつは...先生が学会への出張で都合がつかない時は、この子たちへの水やりや除草も...私がやっていたのです。なので、私はこの子たちの叔父さんのようなものです」
ライアンは湖畔を見渡して微笑んだ。
「すみません。すこし、ひとり語りが過ぎました...安曇さん、いえ安曇先輩、今日はゆっくりと過去と向き合ってください。明日からの撮影、よろしくお願いします」
監督が立ち去ると、安曇は再びガジュマルと桜を見つめ、小さく呟いた。
「ジョン...あなたは本当に物理学者になったのね。夢を叶えたのね...」
だがその呟きは湖畔の風にそっと消え、安曇は静かな微笑みを浮かべて、歩き出した。
ライアン・スコットは、安曇の呟きに、「実は...」と言葉を継ぎかけたが、遠くの墓標の方を見つめながら...少し躊躇して、そのまま言葉を飲み込んだ。恩師ジョン・ブレイドが好きだった『五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする』という日本語の和歌が心に去来していた...
爽やかな春風が、ガジュマルの緑に靡き、桜の花びらをひら舞い散らせ、微かな優しい香りを運んでいた。
第四節:届いた手紙、明かされた真実
翌日の撮影の休憩中、ひとりで専用の控え室にいる安曇の元に、ライアン監督が穏やかな足取りで訪れた。手には何か古めかしい2冊のアルバムと、小さな封筒を大切に抱えている。その表情には、重要な何かを伝えようとする緊張感があった。
「安曇さん、少しお時間をいただけますか?」
「ええ、もちろんですわ。何かしら?」
ライアンは少し緊張した面持ちで、包みをそっと安曇に手渡した。
「これは、故ジョン・ブレイド教授からのものです。実は...先生は3ヶ月前に、癌と多臓器不全で他界しました。これをあなたに直接渡すことが、先生の希望だったのです」
安曇の顔から血の気が引いた。
「ジョンが...亡くなった?」
「ただ、先生は、あなたにパートナーがいるか、すでに自分が過去の存在なら、自分の死亡のことは伝えずに、あなたが忘れた高校の卒業アルバムだけを別の手段で届けるようにと...それで、失礼ながらあなたが独身であること、現在はパートナーがいないことは調査させていただき、確認できました。昨日のあなたのご様子から、これらの遺品を直接お渡しすることを決意したのです。先生の希望が叶えられて嬉しいです...」
安曇は手に取った包みを見つめた。2冊のアルバム。ひとつは緑色布地の高校の卒業アルバム。高校名と1991年の刻印が懐かしい...安曇が36年前になくしたと思っていたものだ。もう一冊は切り抜き帖らしかった。そして、古い封筒が添えられ、その封は、懐かしい日本製の「ジョン」という印鑑で封印されていた。36年前に自分がジョンの誕生日に贈ったものだった。
安曇は思わず声を上げた。
「ジョン...ジョン・ブレイド?彼からですか?えっ...彼は亡くなったの?そんな、まさか、わたしより2歳年上だから、まだ若いはずだわ...そんな...」
「はい、3ヶ月前に闘病の末に...実は、あなたの今回の配役も、ジョン教授自身の強い希望です。彼が生涯で唯一書いた文学作品が、この映画の原作なのです。本当は、彼が原作者なのです」
安曇は、動揺を抑えながら震える手で封筒を開いた。そこには震えるような文字で、ジョンの手紙が綴られていた。乱れた筆跡が、彼の体調の悪さを示していた。安曇は、ゆっくりとそれを、頭の中で日本語に翻訳しながら読んだ。
『なつかしい安曇ちゃん。この手紙を読んでいるということは、キミは、今は未婚か、あるいは今は独身なのだろう...』
ジョンは手紙の中で、若い日の別れの真相を明かしていた。彼が安曇と結婚したいと父に告げた時、鹿児島という地名を聞いて父が猛反対し、親子の縁を切るとまで言われたこと。太平洋戦争で兄を失った父が、日本に対して深い憎しみを抱いていたことも綴られていた。
そして、安曇の叔母が訪れ、家族の病気を理由に安曇を日本に戻すため、ジョンに別れを懇願したことも明かされていた。
手紙の言葉は続く。
『キミを愛する気持ちに変わりはないが、僕がキミを幸せにできる見込みなどほぼなかった。キミとキミの人生を最も大切に思う僕は、苦渋の決断をした。他に想いを寄せる女性などいないのに、他に好きな女性ができたから、キミとは結婚できないと言い放った。これが当時の真実だ。その決断を後悔したことはないし、僕の人生で最善の選択だったと思っている...』
安曇は胸が締め付けられ、手が震えた。36年間信じてきたことが全て崩れ落ち、心の奥底に隠されていたジョンへの想いが堰を切ったように溢れ出した。
『その後の僕は、キミを忘れようと研究に打ち込み、物理学で成果もあげた。そこから、量子物理学と東洋思想を融合した仮想現実世界論が生まれた...』
ジョンは、転生の可能性や自らの仮想現実世界論に触れ、自らと安曇が唐代の玄宗皇帝・楊貴妃の転生かもしれないという想像を綴っていた。
安曇は涙をこらえきれず、震える指先で手紙を握りしめた。
『東京に出張した時、テレビでキミが約30年ぶりにアーリントンを訪れ、「Because I Love You」を聞いて涙する姿を見た。キミは僕との恋を「実って、散った」と表現したけど、僕の心では違う。僕の中では、「咲いて、散って、今も実り続けている」んだ。キミと植えたガジュマルとソメイヨシノはすでに大きく成長し、その一帯は僕が購入し管理を委託している...』
安曇は、涙を溢れさせながら、高校の卒業アルバムをゆっくり開いた。幾度も開かれたためか、自然と17歳の高校生だった頃のページが開く。三つ編みおさげ髪の少女。その自分の笑顔は、あの日のまま変わっていなかった。
ライアンは静かな声で続けた。
「ジョン先生の遺灰はすべて、お二人が植えたガジュマルと桜の木の根元、ブルーボネットの花壇に撒かれました。彼のお墓は、その場所のすぐ近くにあります。ただし遺灰はそこにはありません。彼自身の希望で、その場所そのものが彼なのです」
安曇の胸に、さらに熱いものがこみ上げた。
『アーリントンに来たら、あの木々とブルーボネットに水をあげてほしい。キミが、まだ僕を少しでも想ってくれているのならば、僕の心はそこにある...』
安曇は、言葉にならない嗚咽を漏らした。長く静かな時間が流れ、ライアンはそっと彼女の肩に手を置き、部屋を後にした。
彼女は36年前の自分の笑顔を見つめながら、涙を流し続けた。
切り抜き帳もそっと開いてみた。そこには、安曇のデビュー作から最近の作品まで、36年間にわたる彼女の軌跡が丁寧にスクラップされていた。映画のレビュー、雑誌のインタビュー、テレビ番組の記事...ジョンが愛情を込めて集めた、彼女の人生の記録だった。
「ずっと...ずっと見守っていてくれたのね...」
第五節:想い出の地へ
安曇は手紙を握り締めたまま、静かに涙を流し続けた。胸の奥で、長年封じていたジョンへの感情が、再び鮮やかに蘇った。しかしそれは若い頃のような情熱ではなく、もっと静かで深く、切ない感情だった。
しばらくして涙が落ち着くと、安曇はライアン監督の優しい気遣いに気づいた。
「申し訳ありません。私ったら取り乱してしまって...」
「いいんですよ。ジョン先生の想いがあなたに届いて、私も嬉しく思います」
安曇は頷きながら、手紙を大切にしまった。監督は静かな口調で言葉を続けた。
「安曇さん、先生のお墓はこの湖畔のすぐ近くです。よろしければご案内いたします」
「ぜひ...お願いします」
車で数分ほど移動し、湖畔の外れに到着すると、小高い丘にシンプルで落ち着いた石碑が建っていた。石碑には『John Blade 1970-2027』と刻まれ、その下には『Forever in the hearts of those who loved him』という文字が彫られている。その横にはブルーボネットの花束が供えられていた。
「ジョン...」
安曇はそっと跪き、碑に優しく手を触れた。石は太陽に温められて、温かかった。温かな風が吹き抜け、湖畔の木々が囁くように枝を揺らした。
ライアンは静かな口調で説明を続けた。
「このお墓には彼の遺灰はありません。先生は、生涯独身を貫き、この湖畔にあるガジュマルとソメイヨシノ桜、そしてブルーボネットの花壇にすべての遺灰を撒くことを望みました」
「そう...でしたか...」
安曇は再び涙ぐんだ。彼女は、静かに祈りながら墓碑にそっと触れた。
「ジョン、あなたは最後まで優しくて、私の人生を思いやってくれていたのね。ありがとう...」
涙が石碑の表面を濡らした。ライアンは静かに後ろに下がり、彼女が気兼ねなく想いを伝えられるよう配慮していた。
墓碑に別れを告げると、二人は再び湖畔のガジュマルとソメイヨシノの木へと向かった。ライアンは途中で安曇のためにペットボトルの水を手渡した。
「ジョン先生の希望どおり、あなたが、あの木々と花壇に水をあげていただけますか?」
「もちろんよ。私にとっても大切な子供たちだから」
ガジュマルの根元に水を注ぐと、穏やかな風が枝を優しく揺らし、まるで喜んでいるかのようだった。ソメイヨシノ桜にも水をかけると、淡いピンクの花弁がひらひらと舞い降りて、安曇を優しく包んだ。
「本当に綺麗...あなたたちはずっとここで元気に育っていたのね」
そして、ブルーボネットの花壇に水を注ぐと、花々は水を得て一層青さを増したように見えた。
ライアンがそっと呟いた。
「先生は、この場所があなたにとっても特別だと言っていました。こうしてあなたが水をあげる姿を見ると、先生も喜んでいることでしょう」
安曇はゆっくりと頷いた。
「きっと、そうですわね。でも、36年前にこの子たちを植えたとき、いつかまたここに戻る日が来るとは思わなかったわ。人生は本当に不思議ですわね...」
彼女は空を見上げて微笑んだ。その時、東の空には薄く虹がかかっていた。
「虹...ジョンが見てくれているのかしら?」
ライアンも穏やかに頷いた。
「先生は物理学者でしたが、詩人でもありました。きっとあの虹の向こうで、あなたに感謝を伝えていると思います」
安曇は微笑みながら虹を見上げ、その美しさに心を洗われるような安堵感を覚えた。
安曇は再び石碑の前に戻り、静かに頭を下げた。
「ジョン、あなたとの愛は『実って、散った』なんて言ったけれど、違ったのね。あなたの中では、『咲いて、散って、今も実り続けている』のだと、ようやく分かったわ...」
そう呟くと、安曇の頬を再び温かな涙が伝った。
湖畔には夕暮れが迫り、春の陽が湖面を静かに照らしている。彼女の胸には今、言葉では表現できない穏やかな感情が満ちていた。
安曇は最後に、ジョンからの手紙をもう一度読み返した。最後の部分には、こう書かれていた。
『この映画を通して、キミにもう一度会えることを楽しみにしている。たとえ僕がこの世にいなくても、キミがアーリントンの地に立つその瞬間、僕たちの愛は再び花開くだろう。
愛は永遠だ。時も死も、それを奪うことはできない。
Forever yours, John』
夕日が湖面に美しく反射し、ガジュマルとソメイヨシノの影が長く伸びていた。ブルーボネットの花々が風に揺れ、まるで小さな波のように見える。
安曇は深呼吸をし、心の中でジョンに語りかけた。
(ジョン、私も同じ気持ちよ。36年の歳月を経て、ようやく分かったの。本当の愛は、時間や距離を超えて続くものなのね。私たちの愛は、確かにここに、今も生きているわ)
遠くで鳥が鳴き、湖面に小さな波紋が広がった。安曇は静かに立ち上がり、最後にもう一度、ガジュマルとソメイヨシノを見上げた。
「また来るわ。きっと」
そう約束して、安曇は湖畔を後にした。心の中には、新しい平安と、そして深い愛が宿っていた。
撮影はまだ続く。しかし今の安曇には、この映画がただの仕事ではなく、ジョンとの最後の共同作業であることが分かっていた。彼が残した物語を、彼女が演じること。それは、36年越しの愛の完成形なのかもしれない。
虹は空に美しい弧を描き続け、湖畔の木々は静かに風に揺れていた。すべてが、永遠の愛の証のように、安曇には見えた。




