【第三章】夢と現実の狭間で ~女優・安曇が重ねた恋と挫折の季節~
第一節:東京への旅立ちと女優デビュー
1992年10月、テキサスから帰国した安曇は、志半ばで断念した留学への無念さを胸に抱きながらも、新たな道を模索していた。故郷の鹿児島で過ごした数日間、桜島を眺めながら、これからの人生設計を練り直していた。
「通訳にはなれなかったけれど、アメリカで身につけた語学力と国際感覚は必ず活かせるはず」
そう自分に言い聞かせながら、安曇は高校時代にアルバイトで所属していた地元の芸能事務所に戻った。ここでプロのモデルとしてのスキルをさらに磨き、いずれは東京で活躍したいという新たな目標を抱いていた。
仕事の依頼は、なぜかウェディングドレスを着た花嫁のモデルの仕事が多かった。市内の老舗ホテルでのブライダルフェア、城山観光ホテルでのカタログ撮影、錦江湾を背景にした屋外ウェディングの広告撮影……。そのたびに純白のドレスに身を包む自分を鏡で見つめながら、安曇は複雑な気持ちになった。
ジョンとの結婚の夢は散ったのに、ウェディングドレス姿の撮影は増える一方だった。まるで神のいたずらのようにも感じられる。
「私もいつか本当に結婚式でこのドレスを着る日が来るのかしら? それとも、これだけ何十回も着ていると、もう着納めになってしまうの?」
そんなことを考えていると、吹っ切れたはずのジョンとの思い出が蘇ってくる。あの「Because I Love You」のメロディーと共に過ごした甘い日々、そして理解できない突然の別れ……。
撮影の合間に、カメラマンの一人が声をかけてきた。
「安曇ちゃん、表情が少し硬いよ。もっと幸せそうに微笑んで」
「はい、すみません」
安曇は努めて明るい表情を作ったが、心の奥では複雑な感情が渦巻いていた。
隣県の宮崎からも撮影依頼が舞い込むようになり、高身長でスタイルが良く、アメリカ帰りの洗練された雰囲気を持つ安曇は、九州地方では知られた存在となっていった。地元テレビ局のCMにも出演し、「国際派美女」として人気を博した。
そんな日々が2年ほど続き、安曇が22歳になる頃、ついに東京行きを決意した。高校の先輩でもある事務所の社長は、安曇のキャリアアップへの意志を理解し、温かく送り出してくれた。
「安曇ちゃん、君なら東京でもやっていけるよ。ただし、あそこは競争が激しい。鹿児島で培った根性を忘れずに頑張れ」
もともと、アメリカの大学を卒業した後は、東京で通訳兼モデルのキャリアウーマンとして活躍することが安曇の描いていた未来図だった。通訳にはなれなかったが、芸能界という新しい舞台で自分の可能性を試してみたい——そんな思いが強くなっていた。
1994年春、安曇は単身で東京に向かった。新幹線の車窓から見える富士山を眺めながら、新しい人生への期待と不安を抱えていた。
東京駅に降り立った安曇は、まず数件の芸能事務所に電話をかけた。事前にアポイントを取っていた大手の『クローバープロダクション』のオフィスは、渋谷の高層ビルの一角にあった。
受付を通され、応接室で待っていると、人の良さそうな中年男性が現れた。
「君が伊集院安曇ちゃんか。写真で見るより実物の方がいいね」
須藤社長と名乗ったその男性は、安曇の持参した鹿児島時代の履歴書を丁寧に見てくれた。
「私、伊集院安曇と申します。鹿児島でモデルをしていました。アメリカ留学で英語も話せますし、剣道を長くやっていたので体力には自信があります。腹筋も人並み以上にできます。モデルと女優として本格的に活動したいと思っています」
須藤社長は彼女をじっくりと見つめ、豪快に笑いながら頷いた。
「あっはっはー、体力自慢ときたか。うちはスポーツジムじゃないからそこまでの体力は必要ないが、根性は大事だな。それに、スカウトじゃなくて自分から売り込みに来るとは、いい度胸だ。うちの事務所では君が初めてだよ」
須藤社長は安曇の履歴書をもう一度めくりながら続けた。
「君のモデル時代の写真も見せてもらった。ウェディングドレス姿が多いね。確かに華があると感じるよ。でも、いきなり女優は無理だから、まずは女優としての演技力の修行も兼ねて、週刊誌のグラビアから始めてみるか?」
安曇は迷うことなく、はっきりとした声で答えた。
「はい、ぜひよろしくお願いします」
須藤社長は満足そうに微笑んで続けた。
「まずは、モデルとして自分自身をしっかり魅せることを学びなさい。それができたら、別の人格や人生を心と言葉と身体で表現できる女優を目指そう」
安曇はその言葉を心に深く刻むように答えた。
「はい。まずはしっかりと、自分自身を多くの人に紙面や画面で表現できるように頑張ります。ありがとうございます」
こうして安曇は『クローバープロダクション』と専属契約を結び、生涯にわたる女優人生のスタートを切ったのだった。
第二節:芸能界での成長と初めての挫折
グラビアでの仕事は、予想以上に順調だった。アメリカ帰りの洗練された雰囲気と、剣道で鍛えたスレンダーな体型が評価され、若者向け雑誌の表紙を飾ることが増えていった。撮影現場では、安曇の真摯な姿勢と持ち前の明るさが好評を博した。
そして1年も経たないうちに、いくつかのテレビドラマにレギュラー出演の機会を得ることができた。最初は端役だったが、安曇にとっては貴重な経験だった。
初めて出演したドラマの監督は、ベテランの田中孝之だった。撮影の合間に、安曇に貴重なアドバイスを与えてくれた。
「安曇ちゃん、君にとっては一言のセリフでも、その一言が視聴者の心に幸福をもたらすこともある。俳優、女優の仕事とは、人の心に虹の架け橋をかけるようなものだ」
田中監督の言葉は続いた。
「架空・仮想世界の言葉でも、現実世界の言葉以上に重く響くこともある。だから、ドラマというより、もうひとつの現実と考えて、全身全霊を込めて演じなさい。その言葉は視聴者に必ず響くから……。聖書にも『初めに言葉ありき』と記されているだろう」
その瞬間、安曇の胸に、ふとジョンの言葉が蘇った。
「そういえば……ジョンも似たようなことを言っていたわね。『現実とは必ずしも絶対的に固定されたものじゃない。観測者の意識や認識が、世界を形づくっているのかもしれない』って……彼は元気かしら? もう大学は卒業しているでしょうけれど……」
田中監督の言葉は、安曇の女優人生の指針となった。そして同時に、遠い記憶の中のジョンとの思い出を呼び覚ますものでもあった。
演技の勉強に励む中で、安曇は徐々に注目を集めるようになった。そしてついに、準主役級の役柄で大型のトレンディードラマへの出演が決まった。
帰国子女役での出演となったそのドラマは、まさに安曇の実体験を活かせる役柄だった。アメリカでの生活体験、英語力、そして失恋の痛みまでも演技に込めることができた。
ドラマは高い視聴率を記録し、安曇は一躍注目の若手女優の仲間入りを果たした。芸能界という新しい世界で、ようやく自分の居場所を見つけたような気がしていた。
第三節:田島亮平との甘い日々と運命のすれ違い
ドラマの共演者だった人気俳優の田島亮平との出会いは、安曇にとって運命的なものだった。撮影が終盤に差し掛かった頃、二人は急速に接近していった。
田島は理知的な眼差しと誠実な人柄で、安曇の心に自然と入り込んできた。彼は代々学者の家系に生まれ、自身も大学院の修士課程で古代中国史を専攻していた。俳優としては異色の経歴を持つ知性派だった。
ある日の撮影終了後、田島が安曇に声をかけた。
「安曇さん、お疲れ様でした。よろしければ、軽く飲みに行きませんか?」
「いいですね。でも、お酒は弱いんです」
「大丈夫ですよ。軽くですから」
六本木のバーでの会話は弾み、田島の穏やかな笑顔に安曇は久しぶりに心からのときめきを感じた。
「古代中国史なんて、俳優さんには珍しい専攻ですね」
「父も祖父も歴史学者で、最初は同じ道を歩むつもりでした。でも、演技を通じて歴史を現代に伝えることができると気づいて、俳優の道を選んだんです」
田島の知的な話に魅力を感じた安曇は、次第に彼に惹かれていった。
やがて安曇は田島の渋谷のマンションを訪れるようになり、二人の関係は半同棲状態へと発展した。休日には、田島の愛用する大型バイクの後ろに乗って、湘南や房総半島をツーリングすることが恒例となった。
潮風の吹き渡る茅ヶ崎の海岸線を走る時、田島の腰に後ろから腕を回していると、「こんな日々が永遠に続けばいい」と心から思った。
「安曇、振り落とされないように、しっかりつかまっていて」
「大丈夫よ。剣道で鍛えた体幹力は伊達じゃないから」
そんな二人を追い抜いていく若いライダーたちが、囃し立てるように手を振っていく。安曇は屈託なく手を振り返しながら、あかんべーをする。そんな自然体の彼女を、田島は愛おしそうに見つめていた。
安曇は何かと理由をつけては田島のドラマ撮影現場にも顔を出し、手作りのお菓子を差し入れするようになった。ハート型のクッキーや、鹿児島の郷土菓子など、彼女なりの愛情表現だった。
撮影関係者の多くは、二人の関係を好意的に見ていた。しかし、陰で密かに苦々しい思いを抱いている人物がいた。田島の所属する芸能事務所の会長、高島恭一だった。
高島会長は、事務所の若手ホープである田島を、父親のような目で見守ってきた。独身で子供のいない高島にとって、田島は実の息子のような存在だった。
「あのアメリカ帰りの女優が、我が事務所の宝である田島を誘惑している……」
高島会長の懸念は日に日に強くなっていった。私立探偵を雇って二人の交際状況を調査させ、詳細な報告書も入手していた。
高齢の高島にとって、時間は有限だった。自分が生きているうちに、田島を一人前のスターに育て上げたいという焦りがあった。その計画に、安曇との恋愛は邪魔でしかなかった。
一方、安曇は田島との関係に確かな手応えを感じていた。ジョンとの初恋が散った後、ようやく見つけた真実の愛だと信じて疑わなかった。
春の訪れと共に、二人の関係はさらに深まっていった。結婚を意識し始めた安曇は、彼からのプロポーズを心待ちにしていた。
第四節:暗雲と裏切りの始まり
田島との交際が1年を超えた頃、すべてが順調に思えていた。前年の秋には二人で安曇の故郷である鹿児島を訪れ、天文館を散策し、錦江湾と桜島を望む「錦江湾海道」をバイクで駆け抜けた。
「今度は君の両親にも挨拶したいな」
田島のそんな言葉に、安曇は結婚への期待を膨らませていた。
そんなある日の午前中、事務所にファンクラブ担当の坂口から電話が入った。
「安曇さん、ちょっとご相談があるんですが……熱心なファンの方からお手紙をいただいたんですけど、英語で書かれていて、私では内容がよく分からなくて……」
「どんな内容なの?」
「長い自己紹介の後に、『オシドリ』がどうとか、『アルバトロス』は駄目だとか……その逆かもしれませんが……ちょっと変わった方かもしれません」
安曇は台本読みで忙しかったこともあり、少し苛立ちながら答えた。
「坂口さん、いつもの冷静さはどこへ行ったの? でも『オシドリ夫婦』は私の理想よ……それはともかく、台本の読み込みで時間がないから、適当に対応しておいて。ファンは大切にしないといけないから、丁寧な返事を出してくれる?」
安曇は咄嗟に、最近のドラマのセリフを思い出しながら言った。
「『貴殿の熱意とご忠告は深く理解し、胸に刻みます。ただ、あなただけにお伝えしますが、私には既に結婚の約束をした男性がおり、ご期待に沿えないことを申し訳なく思います』……こんな感じで、英語のできるスタッフに翻訳してもらって、サイン入りの写真と一緒に返事を出して」
その夜、田島のマンションで、いつものように愛し合った後、安曇はベッドで横になったまま田島に話しかけた。
「私たち、このままずっと一緒にいられたらいいわね。私、『オシドリ』のような生き方が理想なの。あなたとはそういう関係でいたいの。これからも……」
田島は一瞬、驚いたような表情を見せた。そして、ぎこちなく微笑みながら答えた。
「オシドリか? アルバトロスじゃなくて? 安曇、意味は分かって言ってるのか?」
安曇は、ここが重要な場面だと感じて、熱心に説明した。
「もちろんよ。亮平、私、オシドリの生態には詳しいの。アルバトロスってアホウドリでしょう? あんな生き方、ご免だわ。私の言いたいことは分かるでしょう? それが私の理想、私の本心よ」
薄暗い室内で、田島の表情の変化に安曇は気づかなかった。彼の顔には深い落胆が浮かんでいたが、それを知るよしもなかった。
その夜を境に、田島からの連絡は次第に途絶えがちになった。安曇は最初、仕事が忙しいのだと思っていたが、やがて不安が募っていった。
そんな折、かつて共演した俳優の近藤晃が、安曇の新作ドラマのクランクインの日に薔薇と牡丹の花束を持って祝いに駆けつけてくれた。
「安曇さん、新しいドラマおめでとうございます。きっと素晴らしい作品になりますね」
落ち込んでいた安曇にとって、近藤の温かい言葉は心の支えとなった。それをきっかけに、撮影の合間にカフェで談笑することが増えていった。近藤の知的で機転の利いた会話は楽しく、安曇の心を慰めてくれた。
一方で、田島とは3週間も会えない日が続いた。焦りを募らせた安曇は、ある夜、会員制ラウンジで近藤と飲んでいる時、ワインの勢いも手伝って田島との関係の悩みを打ち明けてしまった。
「実は最近、恋人と上手くいかなくて……理由が分からないの」
「それは辛いですね。きっと相手の方も何か事情があるのでしょう」
優しく慰めてくれる近藤に、安曇は次第に心を許していった。そして自然の成り行きで、その夜、二人はホテルへ向かうことになった。
田島との関係に悩むほどに、近藤の言葉巧みな優しさに安曇は溺れていった。彼女にとって、それは現実逃避でもあった。
第五節:スキャンダルと真実の露呈
近藤との関係が続いて数週間後のある朝、安曇の人生を一変させる出来事が起こった。
早朝、ホテルから一緒に出てくる二人の姿がパパラッチに激写され、写真週刊誌に掲載されたのだ。
「人気若手女優が妻子ある俳優とホテルで密会! 禁断の略奪愛か?!」
衝撃的な見出しと共に掲載された記事には、近藤のコメントまで載っていた。
「私には妻と子供がおり、そのことは伊集院さんもよくご存じです。テレビ局近くのこのホテルに、たまたま同じ日に宿泊しただけで、恋愛関係でも密会でもありません。この日も、何人もの芸能関係者が宿泊していました」
安曇は愕然とした。近藤が既婚者だなんて知らなかった。彼は独身だと言っていたし、安曇は何の疑いもなく信じていた。
事務所同士の調整により、「偶然の同宿」という説明で大事には至らなかったが、安曇は深いショックを受けた。信頼していた近藤に完全に騙されていたのだ。
その数日後、田島から一通の手紙が届いた。夕顔の押し花があしらわれた便箋に、丁寧な文字で書かれていた。夕顔の花言葉は「はかない恋」——その選択からも、田島の心境が察せられた。
「安曇へ。
一緒に君の故郷の鹿児島を旅行した頃から、僕は君との未来を真剣に考えていた。でも、君の理想とする恋愛と生き方が、僕にはどうしても受け入れられない。
今にして思えば、あの夜の『オシドリ』という言葉は、君からの別れのサインだったのかもしれない。でも、僕は諦めきれずに悩み続けてきた。
両親や事務所の会長も君との交際には反対しているが、それは関係ない。これは僕自身の意思による決断だ。
君は僕の迷いを見抜いて、新たな恋愛に踏み出した。その決断を責めるつもりはない。僕の方こそ、君の気持ちに応えられなくて申し訳なかった。
これまでの日々をありがとう。そして、さようなら。明日からは、恋人になる前のように、良い友人に戻ろう。
感謝と惜別を込めて 亮平」
手紙の一言一句が、安曇の心に深く突き刺さった。田島の誠実な人柄が滲み出た文章だったが、同時に彼の苦悩も伝わってきた。
しかし、安曇には自分のどこが悪かったのか理解できなかった。「オシドリ夫婦」のように一生を共にしたいと告白したのに、なぜそれが別れの理由になるのか。
(あの夜、何か私の言葉で彼を傷つけてしまったのかしら? でも、私は愛情を表現しただけなのに……)
安曇の心は混乱に陥った。近藤への怒りと、田島への想いが複雑に絡み合っていた。
事務所の須藤社長からは、優しくも厳しい言葉をかけられた。
「安曇、芸能界は寛容なところもあるが、不倫だけは命取りになる。今後は十分に気をつけなさい」
「はい、申し訳ございませんでした。今後は気をつけます」
安曇はそう答えるしかなかった。
仕事がない夜、安曇は一人でベッドに横になり、『Because I Love You』を聴くことが増えた。その懐かしいメロディーが流れると、ジョンとの記憶も蘇り、二重の切なさが心を覆った。
しかし、田島との辛い失恋も、時の流れと共に徐々に記憶の彼方へと去っていった。安曇は仕事に打ち込むことで、心の傷を癒そうとした。そうして、20代の残りの時間が過ぎていった。
第六節:キャリアの躍進と恋愛の迷走
田島との破局を経て、安曇はこれまで以上に仕事に打ち込んだ。失恋の痛みを演技に昇華させることで、彼女の演技には深みが加わった。30代に入ると、映画やドラマの主演級のオファーが増え、多忙な日々が続いた。
田島との別れから10年の月日が流れ、安曇が30代半ばを過ぎた頃、芸能界に隠された一つの真実が明かされることになった。
かつて安曇とのホテル密会をスクープされた近藤晃が、『小説 別れさせ屋——芸能界の光と影』というタイトルの本を出版したのだ。
登場人物は仮名で、「小説」と銘打たれていたが、業界関係者の間では「限りなく事実に近い自叙伝」だという噂が立った。多くは近藤自身の体験談だったが、それ以外に「別れさせ屋」としての経験も赤裸々に書かれていた。
その中の一章に、かつて芸能事務所の会長から下された衝撃的な指令について記されていた。要約すると以下のような内容だった:
事務所の若手ホープ俳優を、年上の「恋多き女性」と別れさせるため、近藤自身がその女性を誘惑する役を演じるよう命じられた。会長はこれを「芸の肥やし」と称し、近藤の演技力と事務所への忠誠心を試す試練として、不本意かもしれないがその任務を遂行せよと命じたという。
近藤は、悪役を演じることと妻子への背信に苦悩したが、会長と事務所への恩義から決断を下した。そして、その女性は予想以上に早く、あっさりと篭絡することができた。事務所はその結果を写真週刊誌にリークしたことも、暗に示唆されていた。
一方、若手ホープ俳優は後日、会長から真相を告げられた。会長の言葉には親心からの配慮も感じられたが、愛する女性との別れを強制された事実に衝撃を受け、契約更新を見送って事務所を退所したという……。
安曇は、自分がその「年上の恋多き女性」だったと直感した。10年前の田島、近藤、そして自分の行動のすべてが符合する。
今になって思えば、あの日の午前中に届いた奇妙な「オシドリ」に関する手紙にも、何らかの秘密が隠されていたのかもしれない。
(もし私が近藤の誘惑に乗らなければ、写真週刊誌の報道で近藤の家族を傷つけることもなく、田島との関係も修復できたかもしれない……)
しかし、芸能事務所が期待の若手を守るために、このような策略に出るのは珍しいことではないのかもしれない。その当時、「アメリカ帰りの恋多き女性」という、事実とは異なるレッテルが貼られていることも薄々感じてはいた。
安曇は複雑な感情に包まれながらも、過去を悔やんでも仕方がないと自分に言い聞かせた。すべては過ぎたこと。過去は変えられない。
そんな想いを抱えながらも、女優としてのキャリアは順調に発展していた。安曇の年齢になると、過去の恋愛経験も「芸の肥やし」として世間に受け入れられる風潮があった。芸能界で生き抜くためには、時として「艶聞」さえも武器になるのだ。
第七節:神崎恭介との恋と再びの挫折
30代後半、安曇は大作映画でベテラン俳優の神崎恭介と共演することになった。神崎は一度結婚歴があるバツイチの男性で、渋い魅力を持つ演技派俳優として高い評価を得ていた。
撮影現場での神崎は、常にプロフェッショナルでありながら、時折見せる優しさに安曇は魅力を感じた。
「安曇さんの演技には、経験に裏打ちされた深みがある。一緒に仕事をしていて刺激を受けますよ」
神崎からのそうした言葉に、安曇は久しぶりに心を動かされた。
仕事熱心な神崎との会話は楽しく、撮影が終わると食事を共にすることが増えていった。やがて二人は自然に親密な関係となり、神崎のマンションで時間を過ごすことが多くなった。
お互い大人同士の関係として、安曇は神崎との恋に新たな希望を見出していた。過去の失敗を繰り返さないよう、今度は慎重に関係を築こうと心がけた。
「神崎さんといると、安心できるわ。大人の恋愛って、こういうものなのかもしれない」
安曇は久しぶりに心の平安を得たような気持ちになった。
しかし、人気絶頂期にあった神崎は多忙を極めていた。連続ドラマ、映画、舞台と、立て続けにスケジュールが入り、徐々に安曇との時間が取れなくなっていった。
「最近、なかなか会えないわね」
「撮影が立て込んでいて……この仕事が終わったら、ゆっくり時間を取ろう」
しかし、その約束が守られることはなかった。会えない日々が増え、やがて連絡も途絶えがちになった。安曇からの電話にも、神崎のマネージャーが応対することが多くなった。
「神崎は海外ロケで……」「舞台の稽古が……」
理由はいつも仕事だった。しかし、安曇には分かっていた。これは自然消滅への道筋だということを。
神崎との関係は、明確な別れの言葉もないまま、いつの間にか終わりを迎えていた。安曇は再び孤独に包まれ、心の隙間を仕事で埋めるしかなかった。
第八節:繰り返される恋愛のパターン
その後も安曇は女優として躍進を続けた。40代を目前にして主演女優としての地位は不動のものとなっていた。数々の賞も受賞し、業界からの評価も高かった。
しかし、私生活では恋愛の挫折が続いた。演出家、映画監督、俳優など、同業者との恋愛ばかりで、どの関係も長続きしなかった。田島との恋のように1年近く続くことは稀で、大抵は数ヶ月で破局を迎えることが繰り返された。
ある日、親友でドラマの美術監督として働く美佐子に、安曇は本音を漏らした。
「私って、本当に男運がないのかしら」
「あなたが仕事に夢中すぎるのよ。男性にとって重荷になることもあるんじゃない?」
「そうかもしれないわね。でも、恋はいつも本気だったのよ」
「それは知ってるわ。でも、本気すぎるあなたは、相手にとってプレッシャーになることもあるのかも」
美佐子の言葉は的を射ていた。安曇は恋愛に対して常に真剣で、結婚を前提とした関係を求めていた。しかし、それが相手にとっては重すぎる場合もあったのだ。
安曇は寂しげに微笑んだ。店内に流れる『Because I Love You』のメロディーに、再び胸が締め付けられる思いがした。
第九節:40代の孤独と過去への回帰
40代を迎えた安曇は、数々のドラマや映画で主演を務め、押しも押されもしない大女優としての地位を確立していた。しかし、私生活では独身のままだった。
華やかな生活の裏で、心はいつも孤独感に支配されていた。ふとした瞬間に、昔のジョンの姿を思い出すことが増えていた。
田島亮平は10年以上前に一般女性と結婚し、今では中学生の子供もいた。誰にでも優しく誠実な彼は、俳優としても着実に実績を積み重ね、社会派映画や歴史映画の主役を多く演じていた。
業界の配慮もあり、安曇と田島が共演することはなくなっていた。偶然スタジオで顔を合わせることがあっても、儀礼的な挨拶を交わすだけだった。安曇にも、もう恋愛感情はなく、遠い過去の美しい記憶として昇華されていた。
芸能界では、過去の恋愛体験を「芸の肥やし」と表現することがある。安曇の場合も、数々の映画やドラマの批評で過去の恋愛が引き合いに出され、そのように書かれることがあった。
安曇自身は、自分の恋愛経験が単なる「肥やし」だったとは思いたくなかった。しかし、それらの体験が演技に深みを与え、視聴者の共感を得ているのも事実だった。
(「肥やし」という表現には違和感があるけれど、私の経験が誰かの心に響いているなら、それはそれで意味があることなのかもしれない)
ある夜、ラジオから久しぶりに『Because I Love You』が流れてきた。安曇は静かに目を閉じ、ジョンとの想い出を辿った。
心の中のジョンは、いつまでも若いままだった。現在の彼の姿を想像しようとしても、どうしてもしっくりこない。それで、また若い頃の姿に戻ってしまう。
柔らかな笑顔、自分を包んでくれたあたたかな腕の感触……。
「あの頃は、本当に純粋に彼のことを愛していたわ。初めての恋だったものね……」
しかし、その回想は長くは続かなかった。今の安曇は40代を迎え、トップ女優としての多忙な日々を送っている。記憶は甘く切ないが、決してそこに囚われることはなかった。
第十節:新しい恋への期待と失望の繰り返し
最近、安曇は人気俳優の大和颯太郎との共演がきっかけで、新たな恋に心を躍らせていた。
撮影の休憩時間、大人の魅力を漂わせる大和が声をかけてきた。
「安曇さん、今夜は撮影後に食事でもいかがですか?」
「喜んで……一人でいるより楽しそうですもの」
安曇は微笑み、大和との新しい関係に期待を膨らませた。ジョンへの想いは、いつしか淡い追憶となって日常に溶け込んでいた。
しかし、大和との恋も、お互いの多忙さによるすれ違いが原因で、自然にフェードアウトしていった。忙しいスケジュールの合間を縫って会う関係では、深いつながりを築くのは困難だった。
深夜、自宅に戻って一人で過ごす静かな時間には、なぜかふと寂しくなることがあった。
「ジョン……あなたは今、元気かしら? 奥さんや子供さんはいるのかしら? 幸せかしら?」
そんな問いかけは、いつも東京の夜の闇に消えていくのだった。
第十一節:50代を迎えて——孤独の中の気づき
50代を迎えた安曇は、美貌と演技力を保ちながらも、徐々に役柄が変化していくのを感じていた。若いヒロイン役から、母親や姑役、そして人生経験豊富な大人の女性役へと移り変わっていった。
仕事は相変わらず順調だったが、私生活では何度かの別れを繰り返すうちに、恋愛そのものへの情熱が薄れていくのを感じていた。
「恋多き女優」として、業界の後輩たちから恋愛相談を受けることも多くなった。自分も、もしジョンや田島と結婚していたら、相談に来る若手女優たちと同世代の娘がいて、恋愛に目を光らせる母親になっていたかもしれない……。
そう思うと、自然と心で苦笑しながらも、深い寂しさが胸を過ぎっていった。
ある日、主演ドラマの打ち上げで、親友の美佐子が安曇に尋ねた。
「安曇、そろそろ本気で誰かと落ち着くつもりはないの?」
安曇は軽く笑って答えた。
「私には無理なのかもしれない。恋はするけれど、結局一人になってしまうわ」
「あなたは素敵すぎるのよ。だから男性たちが自信をなくしてしまうのよ」
「そうなのかしら……でも、もう子供を望むことのできない年齢になったし、一人も悪くないって思い始めているの」
そう話しながらも、胸に浮かぶ寂しさを隠しきれなかった。
その夜、家に帰ってテレビをつけると、偶然にも洋画で『Because I Love You』が流れていた。再び胸の奥が切なく震える。
(私の人生の原点は、やっぱりあなたなのかもしれないわ……ジョン。いつもここに戻ってきてしまう……)
テレビを消し、安曇はベランダに出て東京の夜空を見上げた。都会の明るすぎる夜空には星も見えない。想い出も現実がかき消してしまうようで、それが彼女の心の状況と重なって感じられ、ため息を漏らした。
翌日、撮影スタジオに向かう途中、マネージャーの青山が話しかけてきた。
「安曇さん、昨日お話しした映画のオファー、いかがですか?」
「ええ、もちろん引き受けるわ」
「テーマは不倫と別れですけれど、大丈夫ですか?」
「人生で何度も味わったもの。むしろリアルに演じられそうね」
笑いながら答える安曇の表情には、どこか寂しさが滲んでいた。
翌年、その映画は大ヒットを記録し、安曇の演技はさらに高い評価を受けた。しかし、彼女の心は徐々に虚しさが増していくのを感じていた。
華やかな表舞台とは裏腹に、私生活での孤独感は深まる一方だった。成功という名の頂点に立ちながらも、真の幸福からは遠ざかっているような気がしていた。
(これからも、この道を歩き続けるのかしら……一人で……)
安曇の心に、初めて人生への根本的な疑問が芽生え始めていた。




