表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶の墓標と虹の架け橋  副題:ブルーボネットの追憶~過去を繋ぐ旋律~  作者: 如月妙美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/7

【第二章】青い花咲く丘で ~恋と夢の分岐点~

第一節:アーリントンに降り立つ日

 1991年春、3月下旬。テキサス州アーリントンの空は、日本では決して見ることのできない透明な青さに満ちていた。

 鹿児島空港から成田空港へ、そこからダラス・フォートワース国際空港へと続いた長時間のフライトを経て、伊集院安曇はついにアメリカの大地に降り立った。機内での16時間は、興奮と不安が入り混じった複雑な時間だったが、今こうして異国の地に足をつけると、すべてが現実のものとして迫ってくる。

 空港から車で移動する間、安曇は窓の外に広がる風景に息を呑んだ。果てしなく続く青い空の下、鮮やかなブルーボネットが大地を一面に覆い、まるで青い絨毯を敷き詰めたような美しさだった。テキサス州の州花であるブルーボネットは、ちょうど見頃を迎えており、春の訪れと新たな命の息吹を力強く感じさせる。

「日本の桜とは全然違うけれど、こんなに美しい花があるなんて……」

 安曇の心は、故郷を離れた寂しさよりも、新しい世界への期待感で満たされていた。

 叔母の恵美子がこの地で通訳として活躍していることは、安曇にとって大きな心の支えだった。恵美子は安曇の母・美智子の妹で、10年前にアメリカ人男性と結婚してテキサスに移住していた。語学の才能に恵まれた恵美子は、現在は日系企業とアメリカ企業の橋渡し役として重要な仕事を任されている。

 安曇の計画は明確だった。まず大学付属の語学専門学校で2年間、英語を中心とした語学力を徹底的に身につける。その後、大学の英語学科に編入して正式に通訳の資格を取得し、4年後には日本に帰国する。ここアーリントンでの生活は合計4年間の予定だった。

 ダラス・フォートワース国際空港のロビーで出迎えてくれた叔母の恵美子は、疲れた様子の安曇を温かく迎えると、少し得意げな顔でこう言った。

「ようこそ、安曇。ここがあなたの新しいスタート地点よ。アーリントンは大きくはないけれど、ダラスとフォートワースに挟まれた活気ある街。テキサス・レンジャーズの本拠地もあるし、きっとあなたに合うわ。何より、ここには夢を追いかける人たちがたくさんいるの」

 恵美子は10年以上のアメリカ生活ですっかりこの地に馴染んでいたが、安曇を見る目には故郷への懐かしさも宿っていた。

 安曇はスーツケースを引きながら周囲を見回した。広大な空、抜けるような乾いた風。鹿児島の湿り気を含んだ空気とは全く違う、からりとした気候だった。しかし、剣道で培った体力と精神力は、どんな環境でも自分を支えてくれるはず――そう信じると、不思議なほどの落ち着きがこみ上げてきた。

「語学専門学校を無事卒業し、大学に編入して通訳の資格を得ること。そして、鹿児島で経験したモデルの仕事を、ここアメリカでも広げること」

 身長169センチのスレンダーな体型と、剣道で鍛え上げた引き締まった体幹は、彼女の大きな武器だった。異国の地で「もっと大きく活躍したい」という野心が、安曇の胸を高揚させていく。

「行きましょう、安曇。荷物は車に運んであげるから。まずはアパートに案内するわ。明日からの学校生活に備えて、今日はゆっくり休みなさい」

 叔母の言葉に応じて、安曇は大きく深呼吸をし、心の中で呟いた。

(鹿児島の両親も、空港で見送ってくれたあの笑顔も、全部私の背中を押してくれている。ここで思う存分学んで、夢を掴むんだから……)


第二節:アーリントン語学専門学校での日々

 叔母の車でアーリントンの街を移動していくうちに、安曇はテキサスの独特な風景に目を奪われた。まっすぐに地平線まで伸びる道路、どこまでも続く青い空。近くにはダラスやフォートワースの都会的な高層ビル群が見えるが、このアーリントンの街にはどこかのんびりとした、しかし活気に満ちた雰囲気が漂っている。

「ここがアーリントン大学のキャンパスよ。あなたが通う語学専門学校は、この大学に付属している施設なの」

 恵美子が指差した先には、赤レンガ造りの美しい校舎群が見えた。広大なキャンパスには緑豊かな芝生が広がり、学生たちが思い思いに過ごしている姿が見える。

 安曇が入学するのは、アーリントン大学付属の語学専門学校英語学科だった。ここで2年間、英語を集中的に学び、TOEFL、TOEIC、そして将来的には通訳技能検定などの資格試験にも挑戦する予定だった。そして編入試験に合格すれば、大学の正規課程で通訳資格を取得し、4年後には日本に戻る――それが安曇の描く人生設計だった。

 学校側が用意してくれた学生寮は、キャンパスから徒歩10分ほどの場所にあった。同じような留学生や海外からの短期研修生も多く住んでおり、廊下を歩けば様々な言語が飛び交う、まさに国際色豊かな環境だった。

 鹿児島では、高校時代からモデルとして地元では知られた存在だった安曇だが、ここでは誰も彼女を知らない。完全にゼロからの新たな人間関係が始まることに、不安と同時にワクワクした気持ちを抱いた。

「これくらいでめげちゃいられないわ。新しい環境こそ、自分を成長させるチャンスなんだから」

 そう自分に言い聞かせ、安曇は毎朝5時半に起床して、英語の教材や通訳に関する基礎理論を読み込む生活を始めた。剣道で培った集中力と持久力は、語学学習においても大きな武器となった。

 授業では、様々な国から来た学生たちと机を並べた。韓国、中国、メキシコ、ブラジル……それぞれが異なる目標を持ってアメリカに来ている。安曇の真摯な学習態度と、剣道で鍛えた体力は、クラスメイトたちの注目を集めた。

「アヅミの体力、本当にすごいね。朝から晩まで勉強しているのに、いつも元気だ」

 中国人のクラスメイト、リン・チャオがそう言って感嘆の声を上げるたびに、安曇は心の中で両親と鹿児島での日々を思い出した。あの厳しい剣道の稽古があったからこそ、今の自分がある。


第三節:運命の出会い――春雨のアーリントンキャンパス

 アーリントンに来てから2ヶ月が過ぎ、春が深まった4月下旬。テキサスの春は日本とは違った美しさがあった。ブルーボネットはまだあちこちに咲いており、キャンパスの芝生も青々と生い茂っている。

 ある午後、安曇は英語学科での上級クラスの授業を終え、キャンパス内の中庭を歩いていた。今日の授業では、アメリカの政治制度について議論を行い、安曇も積極的に発言することができた。語学力の向上を実感できる瞬間だった。

「この調子でいけば、来年の編入試験も大丈夫かもしれない」

 そんなことを考えながら歩いていると、急に西の空に黒雲が立ち込め、ポツリポツリと大粒の雨が落ち始めた。テキサスの雨は突然やってくることが多く、晴れていたかと思うとあっという間に土砂降りになることがある。

「あれ、傘を持ってこなかった……」

 日本のように折り畳み傘を常に携帯する習慣のある学生は、アメリカでは少なかった。留学生の安曇も、まだそうした現地の習慣に完全には慣れていなかった。雨脚が急激に強まり、慌てて最寄りの建物の軒下に駆け込もうとしたその時、背後から優しい、しかしどこか聞き覚えのあるような声が聞こえた。

「よかったら、僕の傘に入りませんか?」

 振り返ると、長身でメガネをかけた青年が、黒い傘を差しながら少し照れたように微笑んでいた。ボサボサ気味の前髪の奥には、穏やかで知性的なまなざしが宿っている。年齢は安曇より2、3歳上に見えた。

「えっ……、あ、ありがとう。でも見ず知らずの私が入っていいの?」

「もちろん。こんなに強い雨だし、放っておけないよ。それに、君は確か語学専門学校の学生だよね? 僕はこの大学の学生なんだ」

 安曇は少し戸惑いながらも、彼の優しい申し出を受け入れた。傘の下に入ると、肩が触れるか触れないかの微妙な距離感が気恥ずかしく、彼女の心拍数は跳ね上がっていく。

「ありがとう、本当に助かったわ。私、伊集院安曇っていいます。語学専門学校の英語学科で勉強しているの。日本から来ました」

「伊集院……イジュウイン? 発音が難しいな。でも、なんだか音楽的で素敵な響きだね。僕はジョン・ブレイド。理学部で量子物理学を専攻している。学士課程はもうすぐ卒業予定で、来年からは大学院で『仮想現実社会』の概念をもっと深く研究したいと思っているんだ」

(量子物理学? 仮想現実社会? 何だか難しそう……)

 安曇はそう思いながらも、ジョンの柔らかな物腰と落ち着いた話し方に、なぜか妙な安心感を覚えた。初対面のはずなのに、どこか懐かしいような、不思議な感覚があった。

 ジョンもまた、同じような感覚を抱いていた。二人とも、説明のつかない既視感デジャヴーに襲われているような感覚だった。「初めて会うのに、なぜか懐かしい」――そんな奇妙な感覚が、雨音のリズムと共に胸を打つ。

 しばらくして雨がやみ、雲の切れ間から西の空に七色の虹がくっきりと浮かび上がった。

「わあっ……、綺麗……」

 安曇は思わず息を呑んだ。日本で見る虹とは規模が違う、雄大で鮮やかな虹だった。

「こんな大きくて鮮やかな虹は、久しぶりに見るよ。テキサスの空は本当に広いからね」

 二人はキャンパスの一角からその虹を眺め、言葉にならない感動を分かち合った。不思議なことに、その虹は二人にしか見えないかのように、周りを歩く学生たちは誰も空を見上げようとしない。まるで二人だけの特別な瞬間のようだった。

 虹が消えると、ジョンが言った。

「よかったら、今度キャンパスを案内するよ。君がまだ行ったことのない場所もあるかもしれない」

「ぜひお願いします。私、まだこの大学のことをよく知らないの」

 その日から、二人の交流が始まった。


第四節:ジョン・ブレイド――量子物理学と仮想現実社会

 ジョンは理学部の優秀な学生で、量子物理学を熱心に学ぶ真面目な青年だった。長身でメガネをかけ、一見すると少し内気そうな印象を受けるが、アメリカン・フットボール部に所属するスポーツマンでもあった。ただ、やはりというか、補欠でもなく三軍で実質はマネジャー兼用具係だと自嘲気味に語るジョン。それでも、専門分野について話し出すと目を輝かせ、難解な物理理論を情熱的に語る姿は、安曇の心を強く惹きつけた。

 特に彼が夢中になっているのは、「仮想現実社会」という新しい概念だった。1991年という時代にあって、ジョンの視点は極めて先進的だった。

「僕が思うに、現実とは必ずしも絶対的に固定されたものじゃない。量子力学の観測問題を考えてみると、観測者の意識や認識が、実際に世界の在り方を決定している可能性があるんだ。もしそうなら、人間の意志が世界に大きな影響を与えられるかもしれない」

 ジョンは図書館のテーブルに物理学の専門書を広げながら、熱心に説明した。

「例えば、コンピューターの技術がもっと発達すれば、仮想的な世界を作り出すことができるかもしれない。そこでは、人間の意識がより直接的に現実を形作ることができるんじゃないかと思うんだ」

 難しそうな話に一瞬戸惑う安曇だったが、不思議とジョンの言葉には深い説得力が感じられた。自分が剣道で「気合」や「気迫」を大切にしてきたのも、実は意志の力が現実の一部を変えているという考え方に通じるのかもしれない。

「ジョンって、すごく深い世界を見ているのね。私、通訳になりたいと思っているけど、あなたの研究もなんだか興味が湧いてきたわ。人の意識が現実を変えるっていうの、とても面白い考え方だと思う」

「うん、君みたいにいろんなことに素直に興味を持ってくれる人がいると嬉しいよ。安曇は、物事の本質を見抜く力があるね。通訳の仕事にも、きっとその能力は活かされると思う」

 ジョンの瞳が自信に満ちた光を放つとき、安曇の胸はドキリと跳ねた。彼の知性に対する憧れと、男性としての魅力を感じる気持ちが混じり合っていく。

 二人は週に何度か会うようになり、キャンパス内のカフェテリアや図書館で時間を過ごすことが増えていった。ジョンは安曇の語学学習を手伝い、安曇はジョンに日本の文化や剣道について話した。


第五節:二人の初めての――Because I Love You

 出会いから2ヶ月ほど経った6月下旬、二人は急速に距離を縮めていた。放課後や週末には、アーリントンの名所を一緒に巡るようになった。シックス・フラッグス・オーバー・テキサスという遊園地で一日を過ごしたり、AT&Tスタジアム周辺をドライブしたり、リバー・レガシー・パークでピクニックを楽しんだりと、二人だけの時間が自然と増えていった。

 安曇にとって、ジョンとの時間は新鮮で刺激的だった。日本では経験したことのない、大人の男性との対等な関係。知的な会話を楽しみながら、同時に一人の女性として扱われることの喜びを感じていた。

 そんなある夜、ジョンの提案で安曇は初めてホテルに泊まることになった。アーリントンのダウンタウンにある小さなブティックホテルの一室。学生の身分では高級ホテルには手が届かないが、それでも二人にとっては特別な場所だった。

 部屋に入ると、ベッドライトの暖色の照明が室内を優しく照らしていた。窓からは夜のアーリントンの街並みが見え、遠くにダラスの高層ビル群の灯りがきらめいている。

 ジョンは少し照れたように小さく息を吐くと、部屋の小さなステレオにカセットテープを入れた。当時大ヒットしていたスティーヴィー・B(Stevie B)の「Because I Love You (The Postman Song)」の煽情的で甘いメロディーが流れ出すと、安曇の胸はドキドキと高鳴った。

 "Because I love you, I'll be waiting for you Until you come around, and say you need me..."

 歌詞の意味を理解できる程度には英語力が向上していた安曇は、この歌が愛する人への深い想いを歌ったものだということが分かった。

「安曇……怖くない?」

 ジョンが優しく手を差し出しながら尋ねた。

「少し緊張してる。でも、ジョンと一緒なら大丈夫」

 二人とも初めて同士だった。ぎこちなさもあったが、ゆっくりと手を取り合い、温もりを確かめ合う。剣道での激しい動きとは全く違う、繊細で柔らかな愛の営みに、安曇は自分が別の人間になったような感覚を覚えた。

 流れる「Because I Love You」のメロディーが、夜の静寂の中で甘美に響き、二人は互いの心と身体を深く重ね合った。これが安曇にとって「大人の恋」の入口だった。剣道で培った精神力とは違う、女性としての新しい自分を発見した夜でもあった。


第六節:逢瀬を重ねるアーリントンの日々

 ジョンとの交際は、安曇の日常生活に彩りを添えた。二人の関係は一足飛びに深いものとなり、週末にはジョンの中古車でドライブを楽しむことが日課となった。ダラスのダウンタウンを訪れたり、テキサス・レンジャーズの本拠地であるボールパーク・イン・アーリントン周辺を散策したり、時にはオクラホマ州境近くまで足を伸ばすこともあった。

「安曇、いつも僕のそばにいてくれて嬉しいよ。君がいると、研究も勉強も頑張れる」

 ある夕暮れ時、湖のほとりで夕日を眺めながらジョンが言った。

「ジョン、私たち『オシドリ』みたいね。日本で仲のいい夫婦を象徴する鳥なの。『オシドリ夫婦』って言葉があるのよ。ずっと一緒に寄り添って、水面を泳ぐ姿が美しいって言われているの」

「オシドリ……素敵な表現だね。僕らも、いつかそんなふうにずっと一緒にいられるかな」

 甘い言葉を交わすたび、安曇の胸は希望に満ちた光で満たされた。剣道での鍛錬とはまた違う、恋愛による充実感を実感していた。

 時にはナイトドライブの帰りに、あのブティックホテルに立ち寄ることもあった。「Because I Love You」の旋律に包まれながら、激しくも甘い逢瀬を重ねる日々。安曇にとって、それは人生で最も輝いている時間だった。

 叔母の恵美子からは「勉強もおろそかにしないでよ」と苦笑混じりの苦言を呈されることもあったが、安曇は通訳への道と恋を両立させることに充実感を覚えていた。実際、ジョンとの会話を通じて英語力は飛躍的に向上し、語学学校での成績も上位をキープしていた。


第七節:運命のほころび

 しかし、留学生活が始まってから1年半ほど経った1992年の秋、安曇の人生設計に大きなほころびが生じ始めた。

 10月のある日、日本の母親から緊急の手紙が届いた。封筒を開いた瞬間、母の切迫した字体が安曇の心に不安を呼び起こした。

「安曇、申し訳ないけれど、お父さんの体調が急に悪くなってしまったの。お医者様からは、しばらく安静にしているようにと言われているけれど、家業の方も心配で……。私も看病と店の仕事で手一杯の状況なの。あなたに留学を志半ばで断念させるのは本当に申し訳ないけれど、できれば早めに帰ってきてもらえないでしょうか」

 手紙を読み進むにつれ、安曇の手は震えていった。父の病気の詳細は書かれていなかったが、母の筆跡から事態の深刻さが伝わってきた。

 慌てて叔母の恵美子に相談すると、恵美子の表情も曇った。

「安曇、昨夜あなたのお母さんと国際電話で話したの。詳しいことは言いたがらなかったけれど、かなり参っている様子だったわ。お父さんの体調もそうだけれど、家業を支えるのが一人では限界みたい。今は学業よりも、家族を優先すべき状況だと思う」

 恵美子は安曇の肩に手を置いて続けた。

「語学の勉強もモデルの仕事も、頑張れば日本でもできる。それに、あなたはここで1年半も頑張ったのだから、日本の語学大学のレベルには十分達しているはず。一度帰国して家族の状況が落ち着いてから、またこちらに戻ってくるという選択肢もあるのよ」

 しかし、安曇の心を最も苦しめたのは、ジョンとの関係だった。二人の愛がようやく深まったばかりなのに、ここで離れ離れになるなんて考えたくなかった。

 その夜、安曇はジョンに事情を説明した。いつものカフェテリアで、二人きりになれる隅の席に座って。

「ジョン、私、どうしたらいいのかな。家族のために帰らなきゃいけないかもしれないけれど、あなたと離れるのは……」

 ジョンは静かに安曇の話を聞いていたが、しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「安曇……僕は、君が家族を大事にする気持ちを理解するよ。それが君の美しいところの一つだから。もし戻らなければいけないなら、仕方ない。でも、僕は待ってるよ。必ず」

 そう言って彼は安曇を抱きしめてくれた。けれど、安曇には何かが引っかかった。ジョンの声に、いつもとは違う何かが混じっているような気がしたのだ。

 それから数週間、ジョンは以前とは少し様子が変わった。逢瀬を重ねる時も、何かを言いかけてはやめる――そんな態度を見せるようになった。安曇はその変化に気づきながらも、家族のことで頭がいっぱいで、怖くて問い詰めることができずにいた。


第八節:散りゆく恋の嘘

 帰国を数週間後に控えた10月下旬のある夜、安曇はジョンから衝撃的な言葉を告げられることになった。

 いつものブティックホテルの一室。安曇は帰国前の最後の夜を、ジョンと過ごそうとしていた。しかし、ジョンの様子がいつもと明らかに違っていた。

「ごめん、安曇……僕は、君には正直に言わなければいけないことがある」

 ジョンは窓辺に立ち、夜景を見つめながら背中を向けて言った。

「僕は……他に好きな女性ができた。だから、君とは結婚することはできない」

 まるで突き放すかのような口調に、安曇は言葉を失った。涙が溢れて止まらなくなった。

「嘘……嘘でしょ? ジョン、私たちはオシドリのように一緒にいるって、あなたが言ったじゃない……」

「すまない」

 ジョンは瞳を伏せたまま、それ以上何も語ろうとしなかった。安曇が問い詰めても、ただ「すまない」と繰り返すだけだった。

 しかし、安曇にはジョンの表情が見えた。振り返った瞬間の彼の目には、深い悲しみが宿っていた。まるで自分自身を裏切っているような、苦悩に満ちた表情だった。

「ジョン……本当はそうじゃないでしょう? あなたの目が、全然違うことを言ってる……」

 安曇は涙をぬぐいながら必死に訴えたが、ジョンは首を横に振るだけだった。

「安曇、これが現実なんだ。僕たちは……もう終わりなんだ」

 雨上がりの夜、彼女は泣き腫らした目でホテルの部屋を飛び出し、キャンパスの片隅にあるベンチに座り込んだ。あの日、初めて出会った場所の近くだった。突然の彼の裏切り――いや、裏切りとは違う何かに、これまでの幸せが一気に崩れ落ちていく感覚だった。

「どうして……私たちはオシドリのようにいつも寄り添うって言ってたのに……。ジョンとの思い出が、もう辛すぎる。ここには、もう戻れないわ……」

 記憶の中で流れるのは、あのダンスミュージック「Because I Love You」の甘く切ない旋律。あの曲を一緒に聴きながら交わした熱いキスと抱擁が、まるで遠い夢のように霞んでいく。しかし、ジョンの最後の表情――あの悲しみに満ちた目が、安曇の心に深く刻み込まれていた。

 異国で逡巡し、悩む安曇を見かねて、叔母の恵美子が保護者として語学専門学校に退学届を出していた。1ヶ月以内の撤回は可能だったが、安曇にはもうその気力は残っていなかった。

 身の回りの物をまとめながら、安曇はふと気づいた。鹿児島の高校の卒業アルバムが見当たらない。緑の布地で分厚く、本棚に置けば目立つはずなのに。

「そういえば……ジョンに日本の高校時代の写真を見せたいって言われた時に貸したままだったかしら?」

 でも、もうジョンに聞くことはできなかった。聞きたくもなかった。あのアルバムには、剣道部での仲間たちとの大切な思い出が詰まっていたが、今はそれを取り戻す気力もなかった。


第九節:咲き、実り、そして散った恋

 1992年10月5日、帰国前日の朝。安曇は一人でキャンパス近くの小高い丘を訪れた。ここには、ジョンと一緒に植えた記念の木があった。

 半年前、二人の愛が深まっていく頃、ジョンが「何か記念になるものを残そう」と提案して、ガジュマルとソメイヨシノ桜の苗木を植えたのだ。

「日本の桜と、沖縄のガジュマル。君の故郷を思い出すものと、永遠を象徴する木を一緒に植えよう」

 そう言って、ジョンは土を掘り、安曇は苗木に水をやった。あの時は、まさかこんな形で別れることになるとは思ってもみなかった。

 安曇は最後にその苗木に水をやりながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

「私の初めての大人の恋は、このアーリントンで咲いて、実り、そして……散ってしまったわ……」

 涙が頬を伝い、土に落ちて小さな染みを作った。あの春雨の日、初めて傘に入れてくれた時に感じた奇妙なデジャヴーは、一体何だったのだろう。運命的な出会いだと信じていたあの感覚は、一体何だったのか。

「でも、ジョンの最後の表情……あれは嘘をついている人の顔じゃなかった。何か、言えない理由があったのかもしれない」

 安曇の心の奥で、小さな希望の灯火がまだ燃えていた。

 空港へ向かう叔母の車の中で、遠ざかる町並みを見つめていると、一瞬虹が見えたような気がした。初めて出会ったあの日の虹のように、彼女の心にかかる虹が、すっと消えていく。

「恵美子おばさん、ありがとうございました。1年半、本当にお世話になりました」

「安曇、辛かったわね。でも、あなたは強い子よ。きっと新しい道が開けるわ」

 恵美子は後部座席の安曇を振り返りながら優しく言った。

「ジョンのことは……今は理解できないかもしれないけれど、時が経てば分かることもあるかもしれない。人生は長いのよ」

 ダラス・フォートワース空港で、飛行機が滑走路を走り出した瞬間、安曇の視界からテキサスの大地がみるみる遠ざかっていく。この時期でもまだところどころに咲いているブルーボネットの青紫色が、アーリントンでの最後の思い出となった。

 やがてその美しい花々も視界から消え、追憶が澄んだ青空に溶け込んでいった。剣道で培った体力と精神力は健在だった。アーリントンで掴みかけた通訳の夢は一時的に断たれたが、語学力は確実に向上していた。そして、モデルとしての可能性も、彼女はまだ胸に抱いていた。

 初めての大人の恋が散ってしまっても、まだ19歳の安曇の人生はこれから始まるのだ。

 機内で目を閉じると、安曇は心の中でジョンに語りかけた。

「ジョン……私はあなたをずっと忘れない。あなたの優しさも、突然の心変わりも、そして別れの日のあの悲しそうな眼差しも……。あなたには言えない理由があったのかもしれない。でも、きっと前へ進むわ。必ず……」

 祈るように目を閉じると、あの「Because I Love You」の旋律が頭の片隅を甘く震わせた。しかし、その旋律にはもう痛みよりも、美しい思い出としての輝きの方が強くなっていた。

 太平洋の上空で、安曇は窓の外を見つめた。雲海の向こうに、また虹が見えるような気がした。今度は、未来への希望を示す虹のように思えた。

 桜島と錦江湾が待つ鹿児島へ戻るまで、もうあと少し。故郷で新しいスタートを切る覚悟が、安曇の心に静かに根付いていく。

 アーリントンでの1年半は、決して無駄ではなかった。語学力、国際感覚、そして何より大人の女性としての経験を積むことができた。ジョンとの恋は散ったが、それも含めて自分の人生の大切な一部分だった。

 安曇の新しい物語は、故郷の鹿児島で再び始まろうとしていた。桜島の煙を見つめながら、今度はどんな夢を描くのだろうか。

 機内アナウンスが成田空港への着陸を告げる中、安曇は小さく微笑んだ。辛い別れを経験したが、それでも前に進む力が自分の中にあることを感じていた。

「お帰りなさい、安曇」

 まだ故郷の土を踏んではいないが、心の中でそう呟いた時、窓の外に富士山の美しいシルエットが見えた。日本の象徴的な山を見た瞬間、安曇の目に涙がにじんだ。それは悲しみの涙ではなく、故郷への愛おしさと、新しい出発への決意に満ちた涙だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ