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第2話 努力の一年

朝、目覚ましが鳴る前に、恒一は台所の物音で目を覚ました。


真紀が弁当箱の蓋を閉める音と、電気ポットの湯気の立つ気配が、寝室の襖の向こうから伝わってきた。時計を見ると、いつもより七分早かった。恒一は布団を出て顔を洗い、シャツに腕を通しながらリビングへ出た。


テーブルの端で、陽斗が漢字のノートを開いていた。朝食の皿の横に消しゴムのかすが散っていて、ノートの紙には薄い線が何本も残っていた。書いて、消して、また書いた跡だった。


「まだ終わってないのか」


恒一がネクタイを締めながら言うと、陽斗は鉛筆を止めずにうなずいた。


「この字、バランス変になる」


ノートの升目には、同じ漢字が三つ並んでいた。左の二つは消し跡が濃く、右端だけが今書いている途中だった。恒一は立ったまま見て、最終行だけを目で追った。


「そこ、形合ってない。先に終わらせろ。もう出る時間だろ」


陽斗の手が少し止まった。真紀がキッチンから振り向いた。


「今やってるから。急かすと余計くずれる」


「急かしてるわけじゃない。持っていくものの確認もあるし」


「だから今やってるって言ってる」


真紀の声は強くなかった。疲れている日の、平らな言い方だった。恒一は言い返さずに時計を見た。家を出るまでの段取りを頭の中で順に数えた。朝食、陽斗の持ち物確認、自分の着替え、駅までの時間。順番を整えると、会話は後ろへ下がる。


陽斗は黙ってノートに向き直り、消しゴムをかけた。白いかすがまた増えた。恒一はそれを払い落とす代わりに、鞄の中身を確認した。


出る直前、真紀が玄関で言った。


「今日、帰り遅い?」


「いつもくらい」


「陽斗、算数のプリント見てほしいって言ってた」


恒一は靴を履きながら「見られたら見る」と答えた。曖昧な返事だと自分でも分かったが、訂正はしなかった。陽斗は廊下の奥から「いってらっしゃい」と言った。恒一は振り返らずに「いってきます」と返した。


駅までの道で、風に飛ばされた紙片が足元を横切った。白い紙の角が濡れて丸まり、すぐ側溝に張りついた。恒一はそれを見て、朝のノートの消し跡を思い出した。特に意味はないはずだったが、視界の端に残った。


* * *


クロノス・パートナーズの執務スペースは、月末に近づくと空調の音が少し大きく感じられることがあった。人が増えるわけではない。画面を見ている時間と、期限に追われる時間が増えるだけで、部屋の空気が詰まる。


恒一は席につくと、端末で今日の相談一覧を開いた。午前の二件目に「学習期間売却」と分類された予約が入っていた。備考欄には、受験関連、合格後、対象一年程度とある。


斜め向かいの森下が、紙コップのコーヒーを持ったまま言った。


「この時期、また増えてきましたね。受験の案件」


恒一は画面をスクロールしながら答えた。


「発表のあとが多い」


「終わったからいらないってやつです。入学前に整理したいとか」


森下は軽く言ってから、すぐに声の調子を戻した。


「十時半の水野さん、一次ヒアリングは受付側で終わってます。相談担当、朝倉さんに振ってあります」


一次ヒアリングは、受付担当が先に行う簡易確認だった。本人確認の可否、対象期間の大枠、緊急性の有無だけを取る。そこで弾かれなかった案件が、恒一たちの相談室へ回ってくる。


恒一は該当データを開いた。水野拓海、十九歳。第一志望合格。売却希望期間は、前年四月から今年二月末まで。受験勉強の本格化から本試験終了までをほぼ丸ごと切り出していた。


長いな、と恒一は思った。


画面の欄を順に確認し、説明用のチェック項目を開く。売却できるのは体験済みの時間のみ。売却後は対象期間の記憶が失われる。売却した記憶の返還・再取得不可。契約記録と売却履歴は保存。日常機能への影響が出る場合あり。画面の文言は、いつ見ても同じ順番だった。


それでも、最近は読み上げる前に一度だけ内容を目で追う癖がついていた。言葉の意味が変わったわけではない。ただ、受け取る側の理由が一人ずつ違うことを、前より少し強く意識するようになっていた。


相談室に入る前、恒一は説明用ファイルとボールペンを揃えた。机の上に置いた紙コップの水に、小さな気泡がついていた。ブラインドを半分だけ下ろす。白い壁に落ちる光の幅が狭くなる。


ノックのあと、受付担当に案内されて水野拓海が入ってきた。


黒いパーカーの上に薄手のダウンを着た青年だった。姿勢は悪くない。髪は短く整っている。手の甲にうっすら鉛筆の黒ずみが残っていて、右手中指の横に固くなった部分があった。恒一はそれを見て、勉強期間の長さを先に納得した。


「水野様、ご担当の朝倉です」


「よろしくお願いします」


拓海は席につくと、鞄からクリアファイルを取り出した。中には受験票の控え、合格通知のコピー、模試成績らしい紙、予備校の時間割を印刷したものが入っていた。相談室にそこまで資料を持ってくる依頼人は多くない。


恒一は冒頭の定型を口にしたあと、対象期間の確認に入った。


「事前入力では、昨年四月から今年二月末までの学習期間を希望されています。受験勉強を本格化してから、本試験が終わるまで、という認識でよろしいですか」


「はい」


拓海は間を置かずに答えた。


「合格したので、もう使わない期間です」


恒一は視線を上げた。


「使わない、というのは」


拓海は少しだけ首を傾けた。質問の意図は分かるが、説明する必要があるのかを測っている顔だった。


「受験のためにやった時間なので。終わったら用途はないです。大学に入ってから必要なことは、また別にやるので」


「分かりました」


恒一は理由欄に入力しながら、続きを待った。


拓海は自分から足した。


「あと、正直、あの一年の感じを引きずりたくないです。ずっと点数で見てたので」


点数で見てた、という言い方は、疲れたと言うより整っていた。自分で整理して結論を出した人間の言葉だった。恒一には、その整い方が少しだけ身近に感じられた。


「確認事項の前に、補足します」


恒一は画面を拓海の方へ向けた。


「売却後に、生活機能の問題がなくても、『自分で積み上げた』という実感が薄くなる方はいます。結果は残っていても、そこへ至る手応えが弱くなる場合があります」


拓海は短く笑った。笑ったというより、口元が先に動いた。


「感触に金は出ないので」


「そういう考え方の方もいます」


恒一は調子を変えずに返した。否定も肯定もしていない言い方のまま、画面の欄を進める。


「次に確認事項です。売却できるのは、すでに体験済みの時間に限られます。売却後、対象期間の記憶は本人から失われます。契約記録と売却履歴は保存されますが、失われた記憶そのものは通常手段では戻せません」


拓海はうなずいた。


恒一は続けた。


「また、これは感情そのものを鈍くする処理ではありません。対象期間にあたる記憶が欠落する形になります。出来事の前後に残る事実認識や感情が、すべて解消するとは限りません」


拓海は中の紙束の端を指でそろえながら言った。


「受かった事実は残るんですよね」


「合格通知や契約記録など、外部の記録は残ります」


「それで十分です」


恒一は返事の速度に、急いで決めている感じより、決めてきた感じを見た。衝動性の確認項目へ移る。


「第三者からの強い勧めや、金銭的な強制はありませんか」


「ないです」


「睡眠、食事、通学など、日常機能に著しい不調は」


「今はないです。試験の前はありましたけど、今は寝てます」


「受診中の医療機関は」


「ないです」


恒一は項目を埋め、期間特定に入った。拓海は持参した資料を机に広げた。予備校の開始日、模試が連続した月、共通試験、本試験の日程。スマートフォンの学習記録アプリも開き、勉強時間の棒グラフを見せる。


「ここからです。部活引退して、予備校増やしたのが四月で」


指先は迷わなかった。どの週に何をしていたか、拓海はかなり正確に説明できた。恒一はその几帳面さを、本人の強みとして見ながら、同時に違和感も覚えた。ここまで細かく切り分けられるものを、いま不要物として扱っている。


「終了は二月二十六日でいいですか。本試験最終日」


「はい。発表待ってる時間は別です」


「理由は」


拓海は少し考えてから言った。


「あれは勉強じゃなくて、待ってるだけなので」


恒一は日付を確定した。査定額が画面に表示される。金額は短期案件より大きかったが、拓海は数字を見ても表情を変えなかった。予想の範囲なのだろうと恒一は思った。


「契約へ進まれる場合、最終確認と処理のご案内を行います」


「お願いします」


拓海は即答した。


紙の契約書を開くと、拓海の視線が一度だけ止まった。署名欄ではなく、注意事項の列だった。恒一はその視線の位置を見て、該当箇所を指で示した。


「ここが、売却した記憶の返還・再取得不可の確認です。こちらが履歴保存に関する同意。こちらが、対象期間指定の最終確認です」


拓海は一つずつ読み、署名した。字は小さく、線が細かった。模試成績の数字や勉強時間の棒グラフを追ってきた手つきと、よく似た速度だった。


* * *


処理室は相談室より少し温度が低く感じられた。白い壁、低い機械音、消毒液の匂い。担当者が契約番号と対象期間を読み上げ、拓海が確認する。恒一は立ち会い欄に署名し、端末の表示を見た。


「対象期間の売却処理を開始します。途中で中止を希望される場合は、開始前までにお申し出ください」


拓海は「大丈夫です」と言って、椅子の背に頭を預けた。


処理は短かった。動作音が変わり、表示が進み、完了ランプが点く。担当者が体調確認を行う。拓海は目を開けたまま、数秒だけ天井を見ていた。


「気分の悪さはありますか」


担当者が尋ねると、拓海は首を振った。


「ないです。軽いです」


軽い、という言葉を本人が先に言った。恒一は端末に完了記録を入力しながら、その言い方を記憶した。荷物を下ろしたと表現する依頼人は多い。拓海の言い方もその範囲に収まっていた。


業務としては、問題のない処理だった。


受付前の椅子で、拓海は契約書控えの封筒を一度だけ開き、すぐに閉じた。中身を確認したというより、そこにあることを確かめた動きだった。受付担当がフォロー案内の説明をすると、拓海は必要な箇所だけ聞いてうなずき、余計な質問はしなかった。


帰り際、拓海は「ありがとうございました」と言って、封筒を鞄の一番内側に入れた。廊下の角を曲がるまでの歩幅が、入ってきたときより少し広く見えた。恒一はその背中を見送ってから、処理完了のチェック欄に最終確認を入れた。


* * *


三か月後の午後、受付から内線が入った。


「朝倉さん、水野拓海さん、再相談です。前回の学習期間売却の件で」


恒一は空いている相談室を確認し、入室時間を調整した。再相談は珍しくない。対象期間の再設定相談、履歴証明の照会、家族説明の同席依頼。だが、拓海の名前を聞いた瞬間、恒一は契約時の「感触に金は出ないので」という言い方を思い出した。


拓海は前より痩せて見えたわけではなかった。服装も普通だった。ただ、座る前に椅子の位置を二度直し、机の上に置いた手をすぐに引っ込めた。前回の迷いの少なさとは違う動きだった。


「今日はどうされましたか」


恒一が尋ねると、拓海は少し黙ってから言った。


「困ってるってほどじゃないです。でも、変なんです」


恒一は先を促さずに待った。


「大学、入れたんです。手続きもしたし、授業も始まってます。親も喜んでるし、自分でも、受かってよかったとは思ってるんですけど」


そこで拓海は言葉を切り、指先で自分の爪の縁を押した。


「自分で取った感じがしないんです」


恒一は視線を上げた。


拓海は続けた。


「合格通知は自分の名前だし、試験受けたのも自分だって分かるんです。でも、話してても、周りが浪人のときの話とか、あの模試きつかったとか言うじゃないですか。自分もそこにいたはずなのに、履歴だけ見てる感じで」


机の上に置かれた学生証ケースを、拓海は指で押した。


「借り物みたいなんです。結果だけ」


「授業で基礎の話が出ても、分からないわけじゃないんです。解ける問題もあるし。なのに、なんで解けるのか自分で説明できない時があって」


拓海は言いながら、言葉を選ぶように視線を落とした。


「前は、できないところを一個ずつ潰してた感じがあったはずなんです。今は、穴がどこにあったかも分からない」


恒一は、契約時に読み上げた文言を頭の中でたどった。生活機能、事実認識、手触り、自己評価。予測可能な範囲の説明だった。だが、目の前でそれを言葉にされると、説明として聞いていたときと質が変わる。


「日常生活に支障はありますか。睡眠、通学、食事など」


拓海は苦笑に近い顔をした。


「それ、前も聞かれました」


「確認項目です」


「寝てます。行ってます。食べてます。別に倒れてないです」


「追加の売却希望はありますか」


「ないです」


拓海の答えは早かった。否定だけは前回と同じ速度だった。


恒一は相談窓口の案内を机に出した。心理相談、学生相談室、学生向け生活支援窓口。会社として案内できる先は決まっている。案内の紙は薄く、文字は小さかった。


「制度上の対応としては、生活機能への影響確認と、外部相談窓口の案内になります」


拓海は紙を見たあと、受け取らずに言った。


「そうですよね」


責める口調ではなかった。確認するような言い方だった。


「俺、別に、戻してほしいって言ってるわけじゃないです。戻らないのは分かってるので」


恒一は何も言わなかった。戻らない、という言葉は、制度説明では何度も使う。だが、利用後の本人に言われると、説明書きの語尾とは違う重さになる。


拓海は少し俯いてから、小さく笑った。


「なんか、贅沢な話なんですかね。受かってるのに」


「そうは言い切れません」


恒一はそれだけ言った。慰める言葉にも、制度の代弁にも寄せないようにしたつもりだったが、言ったあとで自分でも薄い返事だと思った。


拓海は案内の紙を受け取り、二つ折りにして鞄へ入れた。


「一応、来てみてよかったです。こういうの、説明しても、周りに言いづらいので」


恒一はうなずいた。相談室の扉が閉まったあとも、椅子を引く音の余韻だけが少し残った。


執務スペースに戻ると、森下が別件の確認票を持って待っていた。恒一は内容を見て署名位置を示し、処理担当へ回した。手はいつも通り動いた。画面の文言も、紙の欄外の注意書きも変わっていない。


変わっていないものが多いほど、拓海の「借り物みたい」という言い方だけが、机の上に残った。


相談記録の入力欄を開くと、恒一は一度だけ手を止めた。書けるのは、再相談理由、生活機能の確認、追加売却希望なし、外部窓口案内、その程度だった。拓海の「穴がどこにあったかも分からない」という言い方を、そのまま記録に置く欄はなかった。


恒一は社内記録で使う定型に言い換え、末尾に補足を一行だけ足した。自己評価の実感低下を訴える、継続観察を案内。入力して確定すると、画面上では他の相談記録と同じ高さに並んだ。


* * *


その夜、帰宅すると、リビングのテーブルに陽斗のノートが開いたまま置かれていた。真紀は風呂場で、陽斗の笑い声と水の音が聞こえる。恒一は鞄を椅子に置き、ノートを閉じようとして手を止めた。


漢字の練習欄に、同じ字が何度も書き直されていた。消し跡が紙を少し毛羽立たせていて、薄い線の上に濃い線が重なっている。朝見たときより、行数は増えていた。最後の行の字は、最初の行より形が安定していた。


答案だけを見れば、最後の一文字に丸がつく。それで終わりだと、これまでは思っていた。


恒一は指先で紙の端を押さえた。消しゴムのかすがまだ少し残っていて、爪に白くついた。何度も書き直した跡だけが、紙の上に残っている。うまく書けなかった線も、途中で止まった線も、消したつもりの圧も、完全には消えていない。


風呂場の戸が開き、陽斗が髪を拭きながら出てきた。


「あ、それ、今日の。ここ、三回やり直した」


陽斗は濡れた前髪を拭きながら、ノートの一か所を指した。


「先生に、前よりよくなったって言われた」


恒一は「そうか」と言いかけて、ノートを見たまま止まった。よくなった、の前にある線の方を、今は先に見ていた。


「……時間かかったな」


口をついて出たのは、その言葉だった。褒める言葉としては半端だった。陽斗は意味を取り違えたのか、少しだけ肩をすくめた。


「でもできた」


真紀がタオルを持って出てきて、陽斗の頭を拭きながら言った。


「できるまでやったんでしょ」


陽斗はうなずいた。真紀は恒一の手元のノートを見て、何か言いかけてやめた。代わりに「先にドライヤー」と陽斗の背を押した。


陽斗は二、三歩進んでから戻ってきて、ノートの端を指で押した。


「ここ、消しすぎて破けそうになった」


紙の一部が薄くなって、光を少し通していた。恒一はそこを見て、朝、自分が最後の形だけを見ていたことを思い出した。破けそうになった紙は、丸をつけるときにはほとんど目に入らない。


「……ちゃんと見たら分かるな」


恒一が言うと、陽斗は意味を確かめるような顔をしてから、「うん」とだけ答えた。真紀は何も言わず、ドライヤーのコードを引いた。


恒一はノートを閉じてから、もう一度開いた。消し跡だらけの行を見ていると、午後の相談室で聞いた声が重なった。合格通知は自分の名前なのに、借り物みたいだという声だった。


結果だけでは足りないことがある。


それは制度への批判というより、自分の見方の問題に近かった。終わったものだけを見て、途中を要らない部分として切り分ける癖。仕事で必要な整理の仕方を、そのまま家の中に持ち込んでいる。


陽斗のノートを閉じるとき、紙の間に消しゴムのかすが一つ挟まって、机に落ちた。恒一はそれを指で拾い、指先でつぶした。白い粉が皮膚に残った。


寝る前、明日の予約一覧を端末で確認しながら、恒一は今日の相談記録を思い返した。生活機能に著しい問題なし。追加売却希望なし。外部相談窓口案内。記録として書けるのはその程度だった。


書けることと、残ることは同じではない。


画面を閉じたあとも、陽斗のノートの薄い線がしばらく目の前に残った。うまく書けた最後の字より、そこへ行くまでに何度も消した跡の方が、今日ははっきり見えた。

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