第1話 失恋の三日間
朝倉恒一は、駅の階段を上がりながら、壁面広告の文字を視界の端で読んだ。
「時間の整理、人生の再設計」
白い背景に細い書体で印字された文句は、毎朝同じ位置にあった。立ち止まる人は少ない。スマートフォンを見たまま通り過ぎる者と、改札の時計だけを見て足を速める者ばかりだった。
恒一も見上げはしなかった。文字を読むというより、そこにあると知っているものを確認しただけだった。
広告の下には、年齢の違う男女の顔写真が並んでいた。笑っている者もいれば、笑っていない者もいる。どれも、よくできた企業広告の範囲に収まっていて、病院でも、保険でも、住宅ローンの広告でも通るような作りだった。
人の時間を売り買いするサービスの広告としては、むしろ地味なくらいだった。
改札を出ると、朝の空気はまだ冷えていた。高架下のパン屋から甘い匂いが流れ、歩道では配送業者が台車の向きを変えていた。恒一は信号が変わる前に横断歩道を渡り、再開発中の区画を回り込んで、勤め先のビルに入った。
クロノス・パートナーズは、十二階建てのオフィスビルの七階に入っていた。受付の横には観葉植物が二鉢置かれ、壁には企業理念を短くまとめたパネルが掛かっている。緑と白を基調にした内装は、金融機関と医療施設の中間のような印象を狙っているのだと、入社時の研修で説明されたことがある。
恒一は社員証をかざし、ガラス扉を抜けた。
執務スペースはまだ半分ほどの人しか来ていなかった。コピー機の起動音と、遠くで湯を沸かすポットの音がする。恒一は自席に鞄を置き、端末を立ち上げ、今日の予約一覧を開いた。
午前に相談三件。午後に契約説明二件。処理室の立ち会い一件。合間にフォロー連絡。
どれも珍しくない構成だった。
席の斜め後ろから、同僚の森下が声をかけてきた。
「朝倉さん、十時の失恋案件、一次ヒアリングこっちで受けてます。相談担当、朝倉さん希望で入ってるので引き継いでいいですか」
恒一は画面から目を離さずに答えた。
「構いません。事前入力ありますか」
「簡単なヒアリングだけ。二十代後半、女性、交際解消後。対象は三日間。短いです」
「衝動性確認は」
「一次では問題なし。最終はお願いします」
森下はそう言って、紙の仮受付票を恒一の机の端に滑らせた。クリップで留められた薄い書類だった。氏名欄には、宮下沙耶とあった。
恒一は票を一度だけ見て、予約一覧の該当欄に担当名を入れた。
失恋案件は多い。多いというだけで、同じ内容ではない。別れの原因も、売りたい期間も、売った後に何に困るかも人によって違う。だが受付の分類としては同じ箱に入る。仕事として扱うには、その方が都合がいい。
恒一はそういう整理の仕方を身につけていた。
午前の一件目は、退職直後の男性だった。恒一は規定通りにヒアリングを進め、必要な注意事項を読み上げ、見積りだけ出して終えた。二件目は介護疲れの相談で、家族内の合意が取れておらず、契約には進まなかった。時計を見ると、十時の五分前だった。
恒一は相談室の机を整えた。ボールペンを二本、説明用端末、確認書類のファイル。紙コップの水を新しく置く。窓のブラインドは半分だけ閉めた。明るすぎると落ち着かないと言う依頼人がいる。
ノックのあと、受付担当が宮下沙耶を連れてきた。
「宮下様、ご担当の朝倉です」
恒一が立って名乗ると、沙耶は軽く会釈した。ベージュのコートを畳んで膝に置き、姿勢よく座った。顔色は悪くない。化粧も薄く整っている。ただ、目の縁が少し赤く、まぶたがわずかに重く見えた。
年齢は二十代後半と聞いていた通りだった。疲れてはいるが、取り乱している感じはなかった。こういう依頼人の方が、かえって判断が早いことがある。
恒一は冒頭の定型を口にした。
「本日はご相談ありがとうございます。最初に、対象期間の確認と、制度上の注意事項を順にご説明します。ご不明点があれば途中で止めてください」
「はい」
声は落ち着いていた。少し掠れていた。
恒一は仮受付票を手元に寄せた。
「対象期間は、交際相手の方と別れたあとの三日間、で事前に伺っています。開始と終了の時刻を、あとで一緒に確定します」
「はい。三日間でお願いします」
「確認ですが、交際されていた方との記憶全体ではなく、その後の三日間だけ、という希望でよろしいですか」
「はい。別れる前は、今のところ、売るつもりはないです」
恒一はうなずき、次の項目へ進んだ。
「今回のご相談理由は、差し支えない範囲で構いません。対象期間を選ばれた理由を伺ってもよろしいですか」
沙耶はすぐには答えなかった。机の上の紙コップに目をやり、口をつけずに、視線を戻した。
「苦しいから、というのもありますけど」
そこで一度切ってから、言い直すように続けた。
「それより、あの三日間の自分を、見たくないんです」
恒一はペン先を止めず、続きを待った。
「別れ話のあと、連絡しないって決めたのに、できなくて。夜中に長文を送ったり、取り消したり、また送ったりして。会社も休んで、友だちにも嘘ついて。ずっとスマホ見て。ああいう自分だった、っていうのを、残したくないんです」
涙声ではなかった。恥を報告するような、乾いた話し方だった。
恒一は「つらい記憶の軽減」という受付の分類に収まらない理由だと思ったが、分類を言い換える必要はなかった。理由欄には、本人が何を不要とみなしているかが出る。そこを見るのも仕事だった。
「分かりました」
恒一はそう言って、最小限の要約を記入した。感情の語を増やさないように、事実だけを書く。
「次に確認事項です。売却できるのは、すでに体験済みの時間に限られます。売却後、対象期間の記憶は本人から失われます。契約記録と売却履歴は保存されますが、失われた記憶そのものは通常手段では戻せません」
この文言は何度も口にしてきた。息継ぎの位置まで身体が覚えている。
沙耶は黙って聞いていた。
恒一は続けた。
「また、売却後も、対象期間の前後にある感情や生活上の問題がすべて解消するとは限りません。出来事そのものの事実認識が残る場合もあります」
「分かってます」
沙耶は、少しだけ早口で言った。
「別れたこと自体をなくしたいわけじゃないです。終わったのは分かってるので」
「承知しました」
恒一は声の調子を変えなかった。だが、内心では、今の言い方を記憶していた。終わったのは分かっている。その上で、終わったあとの自分だけを消したいという依頼だった。
「衝動性の確認をします。今日この場で決めず、日を改めることも可能です。第三者の強い勧めや、金銭的な強制はありませんか」
「ありません」
「睡眠、食事、勤務など、日常機能に著しい不調がありますか」
沙耶は少し考えた。
「寝てないです。でも、食べられます。仕事も戻りました」
「受診中の医療機関は」
沙耶は間を置かずに答えた。「今はないです」
恒一は項目を埋め、説明端末を沙耶の方へ向けた。対象期間を特定する画面に、日付と時刻を入力する。別れ話をしたのは金曜の夜。売りたいのは、その後の三日間。金曜二十一時四十分から、月曜二十一時四十分まで。沙耶は途中で一度、「やっぱり日曜の朝からにすると、都合いいですか」と聞いたが、恒一はどちらでも査定条件は大きく変わらないと答えた。
「金曜の夜からにします」
「はい」
恒一は確定ボタンを押した。
査定額が画面に表示された。沙耶は数字を見て、表情を動かさなかった。金額の多寡より、切り離す単位の方に意識がある依頼人だと恒一は判断した。
「契約へ進まれる場合、最終確認と処理のご案内を行います」
「お願いします」
返答は迷いが少なかった。
恒一は契約書を開いた。紙の書類はまだ残っている。電子署名だけの運用に統一した方が効率はいいという意見も社内にあるが、確認内容の重要性を考えると、紙面で本人と担当者が同じ項目を追える形が残されていた。売却処理が本人の記憶に不可逆な作用を与える以上、説明の痕跡だけは目で追える形にしておく、というのが会社の方針だった。恒一はその方針に合理性を感じていた。
書類を一枚ずつめくりながら、沙耶に署名欄と注意事項を示す。
「こちらが対象期間の指定です。こちらが、売却した記憶の返還・再取得不可の確認。こちらが売却履歴保存に関する同意です」
沙耶は黙って読み、必要な箇所に署名した。字は整っていた。途中で一度だけ、ペン先が止まったが、すぐに書き始めた。
契約が成立すると、処理室の時間を確保するため、受付と内部連絡を回す。恒一は内線で短く要件を伝え、沙耶を案内した。
処理室は相談室よりも狭く、窓がない。白い壁、低い機械音、消毒液の匂い。中央に簡素なリクライニングチェアが一台あり、側面の端末に契約番号が表示されている。医療行為ほどの緊張も、日用品ほどの気軽さもない、曖昧な空気の部屋だった。
担当者が本人確認を行い、契約番号を読み上げる。恒一は立ち会い欄に署名し、規定文言の最終確認を口にした。
「対象期間の売却処理を開始します。途中で中止を希望される場合は、開始前までにお申し出ください」
沙耶は目を閉じずにうなずいた。
処理そのものは短かった。機械の動作音が一度変わり、端末の表示が進み、完了のランプが点いた。
担当者が沙耶に体調確認をしているあいだ、恒一は机上の端末に完了記録を入力した。契約番号、時刻、立ち会い担当、異常なし。定型の文言を選択して確定する。
沙耶はゆっくり起き上がった。顔色に大きな変化はない。ただ、相談室で座っていたときより、肩の位置が少し上がっていた。緊張が抜けたのか、別のものが抜けたのか、外からは判別しづらかった。
「大丈夫そうですか」
恒一が業務上の確認として尋ねると、沙耶は少し考えてから言った。
「変な感じはします。でも、たぶん大丈夫です」
「本日は無理に予定を入れず、体調に違和感があればご連絡ください。フォロー案内は契約書控えにも記載しています」
「はい」
沙耶は契約書控えの封筒を受け取り、もう一度会釈して出ていった。
扉が閉まったあと、処理室には機械音だけが残った。
恒一は端末を閉じ、紙の控えを定位置に戻した。いつも通りの処理だった。対象期間も短い。感情の起伏で言えば、もっと重い案件はいくらでもある。そう判断できる材料は揃っていた。
それでも、相談室で沙耶が言った「見たくない」という言葉が、妙に耳に残った。
苦しいからではなく、見たくないから。
恒一は、自分の机に戻る途中でその言い方を反芻し、すぐにやめた。案件を持ち帰らないのは、この仕事を続けるための最低限の癖だった。誰の事情も、退勤後まで整った形で覚えていれば、生活の方が先に崩れる。
午後の相談が始まる頃には、恒一はほぼ通常の速度に戻っていた。説明文言を読み、署名位置を示し、担当部署へ回す。画面を見ている時間の方が、人の顔を見ている時間より長い日もある。今日はそういう日のひとつだった。
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退勤は十九時を少し回った。ビルを出ると、朝より風が弱かった。駅前のスーパーに寄り、真紀から頼まれていた牛乳と豆腐を買う。レジ袋の持ち手が指に食い込んだ。
マンションのエレベーターで、同じ階の住人と一緒になった。相手は会釈だけして、宅配の段ボールを抱え直した。恒一も軽く頭を下げた。こういう短い動作の積み重ねで、一日は終わっていく。
玄関を開けると、陽斗の声が先に聞こえた。
「おかえり」
「ただいま」
リビングには、学校のプリントと色鉛筆が広がっていた。真紀はキッチンで鍋をかき混ぜながら、「牛乳買えた?」と振り向かずに聞いた。
「買った」
恒一は冷蔵庫に牛乳を入れ、豆腐を流しの横に置いた。陽斗は床に座ったまま、画用紙を持ち上げた。
「今日、図工でね、駅の絵描いたの。ここ、電車」
線路らしい二本線と、四角い建物、赤い看板のようなものが描かれていた。恒一は立ったまま見て、「うまいな」と言った。
陽斗はすぐに続けた。
「ほんとは人も描きたかったけど、時間なくて。先生が、先に大きいのからって」
恒一は上着を脱ぎながら、「そうか。先に大きいの描いた方がいいな」と返した。自分で言ってから、会話が答えになっていない気がしたが、陽斗はもう画用紙を置いて別の話を始めていた。
「あとさ、明日、持っていくやつ、図工の」
「連絡帳の持ち物欄見たか」
「まだ」
「先に見ろ。忘れるだろ」
陽斗は口を閉じた。真紀が鍋の火を弱めてから、振り返った。
「今言わなくてもいいでしょ。食べてからで」
「確認だけ」
恒一は短く言って、鞄から端末を取り出しかけた。真紀の視線に気づいて、手を止める。
「仕事はあとにして」
責める口調ではなかった。疲れている声だった。
恒一は端末を鞄に戻し、洗面所へ向かった。鏡に映った自分の顔は、会社のガラスに映るときと大差なかった。ネクタイを外しながら、今日の案件のことは思い出さないようにした。
その夜、眠る前に真紀が「土曜、陽斗の参観あるから」と言った。恒一は「午前なら行ける」と答えた。真紀は「先月も同じこと言ってたよ」と言い、すぐに「別に責めてないけど」と付け足した。
恒一は返事をしないまま、天井の方を見ていた。
数日後、沙耶の案件のことはほぼ日常の奥へ沈んだ。恒一は沈めたつもりだった。実際、その後の案件数は増え、月末の処理件数もあり、ひとつの相談だけを取り出して考える時間はなかった。
それでも、完全には消えなかった。
同じような説明を別の依頼人にしているとき、ふと「見たくない」という言い方だけが戻ってくることがあった。苦しい、忘れたい、前に進みたいではなく、自分を見たくない。恒一はその違いを言語化するほど関心を持ってはいなかったが、耳が覚えていた。
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三か月ほど経った平日の夕方、恒一は外出先からの戻りで、駅前の歩道を渡ろうとしていた。雨上がりで、舗道には水が残っていた。信号待ちの人の列の中に、見覚えのある横顔があった。
ベージュのコートではなく、濃い紺のジャケットだった。髪の長さも少し違う。だが、顎の線と、笑う前に口元だけ先に動く癖が似ていた。
宮下沙耶かもしれない、と恒一は思った。
沙耶の隣には男がいた。三十代前半くらいで、細い黒縁の眼鏡をかけている。二人は並んで立っていたが、間隔は近すぎず遠すぎず、他人とも恋人とも取れる距離だった。男が何か言い、沙耶が短く笑った。沙耶は顔を上げ、男の袖口を一度だけ指で払った。
信号が変わると、人の流れが動いた。恒一は反対側へ渡りながら、視線を向け続けるわけにもいかず、数歩で二人を見失った。
ただ、それで終わるはずの場面が、終わらなかった。
その日の夜、恒一は帰宅して夕食を取り、陽斗がテレビの前で寝かけているのを真紀と一緒に起こし、歯磨きをさせた。いつも通りの動作をしているあいだも、夕方の歩道の光景が残っていた。
あれが沙耶だったとして、隣の男が誰なのかは分からない。元の交際相手かどうかも分からない。偶然似ている別人だったかもしれない。
それでも、もし沙耶で、もし相手が別れた相手だったのだとしたら、何がどう変わって、何が変わっていないのか。
恒一はそこまで考えて、考える必要のないことだと切った。
翌日、昼休憩の終わり際、恒一は端末で過去の契約記録を開いた。業務上のアクセス権限はある。フォロー対応や照会のため、担当案件の履歴を確認することは珍しくない。私的な興味だけで見るのは、本来は好ましくない。だが規定違反とまでは言えない境界にあった。
恒一は宮下沙耶の氏名と契約番号を検索し、三か月前の処理記録を呼び出した。
画面には、契約日、対象期間、担当者名、処理結果、フォロー連絡の履歴が並んだ。異常なし。再相談なし。契約控え再発行の申請なし。簡潔な記録だった。
本人確認書類の照合欄にある縮小画像を開く。相談室で見た顔だった。昨日の歩道で見た横顔と、髪型は違っていても輪郭がつながった。
同一人物だと、恒一は判断した。
それだけだった。画面は何も教えない。隣にいた男が誰かも、沙耶が何を覚えていて何を失ったままなのかも、記録にはない。
恒一は画面を閉じた。机の上の紙書類に目を移す。午後の相談で使う確認票の束があり、どれも同じレイアウトで印刷されている。欄外の小さな注意書きまで同じだった。
記憶は消えるが、記録は残る。
研修で何度も聞いた文言を、恒一は頭の中でそのまま繰り返した。これまでは制度の説明としてしか意味を持たなかった言葉が、昨日の歩道の光景と結びつくと、少し別の重さを持った。
忘れたのに、終わっていないものがある。
それは案件として見れば、特別な結論ではない。制度の利用者に、売却前とまったく同じ生活が戻ると保証したことはない。注意事項にも書いてある。恒一自身、何度も読み上げてきた。
なのに、沙耶の件だけは、説明文言の外側に少しはみ出している気がした。
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仕事を終えて帰る電車の中で、恒一は立ったまま吊り革を持ち、窓に映る自分の顔を見た。向かいの席では、小学生くらいの子が父親に学校の話をしていた。父親は相槌を打ちながら、途中で一度だけスマートフォンの通知を見て、すぐ画面を伏せた。
恒一はその様子を見て、特に何も考えないようにした。考えないようにする、という動作が先に立つのを自覚し、少しだけ疲れた。
家に着くと、陽斗はまだ起きていた。宿題のプリントをテーブルに広げ、真紀に丸をつけてもらっているところだった。
「おかえり」
「ただいま」
陽斗が顔を上げて言った。
「今日さ、先生が前に言ってたやつ、ぼくできた」
恒一は靴を脱ぎながら、「何が」と聞いた。
「えっとね、算数の」
陽斗は説明しようとして、プリントを探した。真紀が「こっち」と手で示す。恒一は上着を掛けながらテーブルに近づいたが、スマートフォンが震え、会社の連絡アプリに通知が入った。翌週のシフト調整だった。
恒一は反射的に画面を開き、返信の要否を確認した。
「あとで見せて」
そう言ってから、恒一は自分で声の平たさに気づいた。陽斗は「うん」と返したが、すでに真紀の方を向いて、続きを話し始めていた。
真紀は何も言わなかった。プリントの端を押さえたまま、ペン先だけを動かして丸をつけた。
食後、陽斗が寝たあと、真紀はシンクに皿を並べながら言った。
「最近、家でも仕事の顔してる」
恒一は水を止める音を聞きながら、曖昧に「そうか」と返した。
「責めてるんじゃなくて」
真紀は前置きを置いてから、少し言葉を探した。
「話しかけても、処理される感じがする」
恒一は反論しようとして、やめた。違うと言い切る材料が、自分の中にすぐには見つからなかった。
寝室に入って灯りを消したあとも、真紀の言い方と、沙耶の言い方が頭の中で近い場所に残った。
見たくない。
処理される感じ。
言葉の意味は別だが、どちらも、目の前の相手ではなく、そのときの自分の形について言っているように聞こえた。
恒一は目を閉じた。明日の予約一覧を思い出す。午前二件、午後三件。月末の報告締切。陽斗の参観の予定。牛乳をまた買う必要があるかもしれない。生活に必要な項目を順に並べると、頭の中は少し静かになった。
それでも、夕方の歩道で見た沙耶の笑い方が、完全には消えなかった。
契約書の控えを封筒に入れて受け取った手つきと、男の袖口を払った指先が、同じ人の動作としてつながっていた。
三日間を失っても残るものがあるのか、それとも、失ったからこそ別の形で残るのか。恒一には分からなかった。分からないままでも、明日の業務は始まる。
ただ、忘れることが、そのまま終わることではないのかもしれないと、その夜はじめて思った。




