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47 裕子という女

 美咲のグラスにワインが注ぎ足された。

 書斎のダウンライトが、神の雫と呼ばれるその液体を照らす。

 グラスを持ち上げそれを飲む美咲の喉が、妖艶な動きを見せた。


「徒然さん、私……私は……」


 徒然が美咲の手を握る。


「落ち着いて。ゆっくり話せばいい。誰にも気兼ねなんてする必要は無いよ。君の言葉で、君のペースで話してほしい」


 美咲がコクンと頷いた。


「まずは、お礼を言わせてください。あなたと志乃さんのお陰で、私は今日まで生きてこれました。もちろんあなたのことを紹介してくれた澄子にも感謝しているわ。本当にありがとうございました」


 徒然がゆっくりと微笑む。


「私が裕子だった時の記憶には、ほとんど幸せな時間が無かったの。もちろん友達と過ごした時間はとても楽しかったし、素敵な思い出。でも……いつも何かに追われているような気分だったから、余裕は全くなかったわ。お金とか時間とか、そういうものにばかり囚われていたように思う」


「そうか」


「父が出て行く前は、毎日夫婦喧嘩を見せられていたわ。私は怯えて部屋の隅で蹲るだけで……母が父に叩かれるのを見て、とても怖かった。そして父が出て行き、母は暫く呆然としていたの。私は中学に入ったばかりだったのだけれど、1分でも1秒でも早く帰らなくちゃって思ってた。そうしなくちゃ母までいなくなりそうな気がしてたのだと思う」


「辛かったね」


「母のパートのお金だけじゃ暮らせなくて、夜もお勤めに出るようになって……夜中に酔って帰ってくるのだけど、それまでに全部の家事を終わらせていかなくちゃって。とにかく母にこれ以上の負担を掛けてはダメだっていう強迫観念? そんな毎日だったわ」


「頑張ったんだ」


「でもね、それは母のためにしていたんじゃない。自分のためだったの。母に捨てられないようにするための手段としてやっていたのよ。もっと幼いころから愛されているという実感っていうのかなぁ……自覚? そういう感情を持ったことは一度も無かったから、人に愛されることも愛することもよくわからなかったんだと思う。そういう世界があるというのは本の中で得た知識だけよ」


「そうかぁ」


「友達関係もそう。嫌われたくないとか仲間外れにされたくないとか、そういう感情で行動していたんだと思う。でもね、母が亡くなったでしょ? 交通事故だったのだけれど、高校生だったから、どうしていいのかわからなくて。見かねたアパートの大家さんがお葬式の手配とかしてくれたの。葬儀屋さんに『支払いはいつされますか』って言われて、保険金が入ってからじゃないと払えないと言ったら、凄く困った顔をされて。それから、大人の人に囲まれて、理解できないまま示談が決まったわ。その時にね、ああこれで葬式代が払えるって思ったのよ。とにかくあのお金が払えるならって……情ないでしょう?」


「仕方が無いよ。よく頑張ったね」


 徒然の言葉に涙を流しながら、本当はすごく怖かったとぽろっと溢す美咲。


「未成年のアパート一人暮らしはダメらしいのだけれど、卒業まで数か月だったし、大家さんがそのまま住まわせてくれたから助かったの。でも、それから二ヶ月くらいかな、近所の人達の心配してるよアピールには本当に辟易したわ。母と二人の時は迷惑そうな顔で遠巻きにしていたくせにね」


「野次馬根性ってやつだな。でもたった二ヶ月だけだったの?」


「うん。人の噂も七十五日ってホントだって思ったもの」


 徒然が肩を竦める。


「卒業して、寮のある会社に就職して。孤児の高卒女子なんて社内カースト最下層からのスタートでしょ? もう我武者羅に頑張った。まあ頑張ったって言っても成績を上げようとかそういうのではなくて、嫌われないように言動には気を付けたし、命じられた仕事は期限内に必ず仕上げるようにしたっていう方向で。いつもニコニコして清潔感を心がけてね」


「立派な処世術だよ」


「後輩っていっても大卒でしょ? なんかずっと見下されている感じだった。でも他に生きていく術も無いから……そんな毎日を四年続けて、もう心が疲弊していたのだと思うわ。そんな時に声を掛けてきたのが孝志なの」


「そうか」


「休みごとにどこかに連れて行ってくれてね。孝志は私にとっていろいろな初めてを教えてくれた人だった。海に行ったのも、遊園地に行ったのも。ファミレス以外のレストランに行ったのも孝志が初めてだったわ。私ったら夢中になっちゃって。この人といれば、ずっとこんな暮らしができるんだって……失いたくないって思って……嫌われないようにしなくちゃお母さんみたいに捨てられるって……必死でしがみついて……」


 しゃくりあげながら告白する美咲を徒然がしっかりと抱きしめた。

 

「よく頑張った。よく一人で頑張ったね」


 徒然に頭を撫でられ、美咲は暫く子供のように泣きじゃくった。


「私ってずっと誰かに媚び諂って生きていたのだと思う。怖かったの……ずっと怖くて仕方がなかった。独りぼっちになったらどうしようって、そればかり考えてたわ。だからできる我慢は全部した。とにかく嫌われないように、捨てられないようにって、そればかりだったのね」


「そうか……それは仕方がないさ。精一杯の自己防衛だ」


「でもね、心の中ではずっと『これでいいの?』って思ってた。周りのみんなはすごく楽しそうに見えるし。人生を謳歌してるって感じ? 私だけなぜこんなに惨めなんだろうって……そんな頃に読んだ本があってね。徒然さん『ムーミン』って知ってるでしょ?」


「もちろん知ってるよ。本も全部持っているし、テレビアニメも毎週楽しみに見ていたね」


「あの中にね、ニンニっていう女の子が出てくるの。その子はね、家族から辛く当たられて姿が消えてしまうのよ。見えなくすることで自分を守ろうとするの」


「ああ、いたね。ムーミンたちに優しくされて徐々に見えるようになるんだったっけ。でも顔は見えないままじゃなかった?」


「うん、そうよ。それを読んだ時に『私みたい』って思ったの」


 徒然が何度も頷きながら美咲の頭を優しく撫でた。

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