44 戻った男
澄子とは蕎麦屋の前でわかれ、志乃と二人で坂道を歩く。
「ずっと美咲って呼んでいいのね。嬉しいわ」
「志乃さん……改めてお母さんって呼んでも良いですか?」
「もちろんよ。ありがとう、美咲」
二人は並んでゆっくりと歩いた。
「ねえ、知ってる? 男の人って失った時間を振り返ってばかりなんですって。でも女は違うわ。女は忘れることができるのよ」
「忘れる?」
「そう。もちろん無かったことにはできないけれど、大したことじゃないっていう記憶に擦り替わるのね。出産もそう。男の人が出産したら、痛みで死んじゃうんだって。でも女はね、すぐに忘れるの。産むときはそりゃ痛いわよ。痛いなんてもんじゃないわね。体が裂けるんだもの。でもね、終わったとたんに忘れるのよ。めちゃくちゃ痛かったのは覚えてるけど、どのくらいの痛みだっけ? って感じ」
「そうなの?」
美咲の口調が戻ったことに、志乃は心から安堵した。
「そうなのよ。不思議でしょ? それとね、出産って女に与えられた罰でなんですって」
「罰? 何の罰なの?」
「イブが蛇に唆されて林檎を食べちゃった罰よ」
「なにそれ、林檎くらいで酷くない?」
「そうよね、林檎を食べたというのは神様の言いつけを破ったってことになるらしいわ。だから神様との約束を守らなかった罰ってことね」
「でも蛇に唆されたんじゃなかったっけ?」
「そうよ、神様以外の言葉に惑わされたのよ」
「じゃあ男の人は? 男の人も一緒に食べたんでしょ?」
「そう。でもね、アダムは蛇じゃなくイブに誘われて食べたのよ」
「まあ! 知らなかったわ」
「だから男の人の罰は、女とその女に産ませた子供のために、命がけで麦を刈り続けることなの。照ろうが降ろうが、毎日毎日麦を育てて、実ったら刈り取って。それを死ぬまで繰り返すのよ。麦を奪おうとする者が来たら、命がけで戦わなくちゃいけないし、麦が枯れたら命がけで奪いに行かなくちゃいけないの。神との約束を破らせた女のためにね」
女は悪魔のささやきに道を踏み外し、男はそんな女の一言で墜ちる……まるで孝志と玲子のようだと美咲は思った。
「美咲! 志乃さん!」
屋敷の表門に差し掛かった時、後ろから徒然の声がした。
「徒然さん!」
「切り上げて帰ってきちゃった。どうしたの2人揃って買い物かい?」
「今ね、お蕎麦を食べてきたの」
「そうかぁ、そりゃ残念。一緒に食べたかったなぁ」
志乃が美咲の後ろから声を出した。
「お夕食はすぐにできますよ」
徒然は頷いて車を車庫に入れる。
志乃はすぐに台所に向かったが、美咲は玄関で徒然を待っていた。
たった数メートルの距離を走ってきた徒然が、いきなり美咲を抱きしめる。
「徒然さん?」
「会いたかった。ずっと美咲のことばかり考えてたんだ。ずっとずっと会いたかった」
美咲は徒然の温もりに包まれ、涙が出るほどの幸せを感じた。
「お帰りなさい。私も会いたかった。まずはお風呂に入って、お夕食にしましょう?」
「ああ、そうしよう」
徒然の笑顔に、美咲の中で何かがストンと落ちた。
風呂に向かった徒然を見送り、美咲は台所に立つ志乃の横に並んだ。
「お母さん、私……徒然さんが好き」
「うん、知ってた」
「徒然さん、悲しむかな」
「なぜ?」
「私が思い出しちゃったから」
「打ち明けるのね?」
「うん……好きな人を騙し続けるなんてできないよ」
「そうかぁ。でもあなた達なら大丈夫。私とあなたの違いはね、愛した男が既婚だったか未婚だったかでしょ? たったそれだけだけれど、とても大きいの。徒然さんを……いえ、私と松延の息子を信じてやってちょうだい」
「はい」
同じ経験をした2人の女が立つ台所に、眩しいほどの西日が差しこんでいた。