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36  立ち止まる男

「君は……もし裕子さんに再会したら何を言う?」


 徒然の静かな声に、孝志が顔を上げた。


「もし会えたら?」


 孝志がふと窓に目を遣った。

 涙をためて薄く微笑む横顔は、何を思い浮かべているのかが手に取るようにわかる。


「もし偶然会ったとしても……俺は何も言いません。たぶん逃げますね」


「許しは請わないの? 謝ることもしない?」


 意外な答えに徒然は驚いた。


「謝って許されるなら何万回でも謝りますよ。もし結婚した頃に戻れるなら百回死んでも構わない。百回殺された後でゴキブリに生まれ変わるとしても喜んで受け入れます。でもね、俺は絶対に許されないことをしたんです。もう俺にできることはひとつしかないんですよ」


「そのひとつって何?」


「それは、二度と彼女の視界に入らないということです。俺の存在なんかきれいさっぱり忘れてもらいたいですよ。時間経過で『そういえばそんなこともあったわね』も必要ありません。裕子にとっての『人生の汚点』になる資格さえ俺はないんです」


「そうか。君がそこまで考えているなら、私からささやかな助け舟を出そう」


 孝志が徒然の顔を見た。


「君が見かけたあの女性ね、彼女は間違いなく安倍美咲だ。君の言う裕子さんではない。きっと君の記憶の中の裕子さんに似ていたのだろうけれど、安倍美咲は安倍美咲でしかないよ。だからもし、君が私の妻を見かけても逃げる必要はない。でも私は狭量だからねぇ。私より若い独身の君には、できれば話しかけて欲しくはないけれどね」


 孝志がギュッと目を閉じた。

 数秒後にゆっくりと開いた瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちる。


「そうですか。裕子じゃないんだ……安心しました。ありがとうございます。先生……ありがとうございます」


「君はもしかすると泣き上戸?」


「今日からそうかもしれません」


 孝志は男泣きに泣いた。

 徒然は黙ったまま自分のグラスにワインを注ぎ足す。

 ひとしきり泣いて顔を上げた孝志が、照れたように声を出した。


「それはそうと、先生眠たくないですか?」


「君の話を聞いていたら目が冴えちゃったよ」


「よかった。まだお話ししたいです。それと、腹減りません?」


「いや……」


「俺、ラーメン食っていいですか?」


「もちろんどうぞ。そこのカウンターにポットがあるから。再沸騰ボタンわかる?」


 孝志がゴソゴソと袋からカップ麺を取り出した。

 包装紙を破る孝志の顔は、なにか憑き物が落ちたような顔をしている。


「私はてっきり、君が美咲を裕子さんと勘違いして、縒りを戻そうとしてるのかと思った」


 徒然が揶揄うような声を出した。

 丁寧に紙蓋を捲りながら、孝志が顔を向けずに返事をする。


「恥ずかしながら、初めて海岸で見かけた時は、思わず駆け寄りそうになってしまいました。いや、縒りを戻すとかそういうのじゃなくて、一種の衝動ですかね。でもその後すぐに弟に諫められました。あいつの言うことが正し過ぎて……それからずっと自分の愚かさに吐き気がしてました。あれほど後悔してあれほど反省したのにって。弟は裕子と仲が良かったんですよ。あいつは俺とは違って常識人だし、スモールハピネスの大切さを知っているんです。その辺りで気が合ったのかもしれないですね」


「へぇ、弟さんがいるんだ」


「ええ、二人兄弟です。あの日は弟夫婦とその娘、そして俺の息子もいましたよ。なのに俺は何も考えずに駆け出そうとしてしまった。最低でしょ? でもそんな俺を最終的に思い留まらせたのは息子なのです。かずとっていうんですけどね。一人と書いてかずとと読ませます」


「かずと君か、良い名前だね。その子が君を止めたの?」


「止めたというか『知ってる人がいるなら、お父さん行ってきて良いよ。僕はここで待っているから』って言ったのです。母親に……玲子によく似た顔で、裕子のようなことを言ったんですよ。裕子は俺の幸せだけを考えて、待ち続けていたんですよね。帰ってくるのをいつも待ってくれていたんだ。愕然としましたね。ずっとかずとのために生きているんだなんて思っていた自分が恥ずかしかった。かずとはあの時、自分より俺の気持ちを優先しようとしたんです」


「いい子に育っているじゃない」


「そうですよね、悪魔とサルの子供とは思えないほどですよ」


「悪魔とサル? さっきの話でサルは君だってわかるけど、そうなると玲子さんが悪魔?」


「ははは、悪口じゃないですよ。自分がそういうんだもの」


 ぐっすりと眠っていたはずの山中がむっくりと体を起こした。

 獣の叫びのような声を出しながら伸びをしている。


「なんだか良い匂いがするな。お? 山崎、俺のも作ってくれ」


 徒然が呆れたような声を出す。


「どうやら、おたくの編集部はタフな胃の持ち主でないとダメみたいだ」


 何の違和感も抱いていない表情で頷いた孝志が、新しいカップ麺に湯を注ぐ。


「それより、君のってもう伸びちゃったんじゃない?」


「大丈夫です。秒で食うので、柔らかい方が胃に負担が無いんですよ」


「私にはわからない世界観だな……」


 呆れた顔の徒然に山中が言った。


「半分寝ながら聞いてましたけど、こいつの前嫁の話は進行形ですよね? 元嫁の話は終わりました?」


 苦笑いで曖昧に頷き時計を見ると、すでに午前2時を回っている。


「わかった。山中さん、山﨑さん。資料は明後日でいいよ。第二章といきますか」


 そう言った徒然も吹っ切れたような顔になっていた。


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