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30 甘える女 

 帰国して数日、徒然は溜まっていた仕事を淡々と片づけていた。

 美咲には時差の調整だと言って外出をさせず、自分も屋敷を離れない。

 

「美咲、座敷の廊下をお願いね」


「はぁい」


 美咲は数年前と同じ作業を繰り返す日々に戻っていた。

 淡々と廊下を研き、無心を追い求める。

 藤はその羽のような葉を青々と茂らせているが、数枚は黄色く色づき始めており、確実に季節が移ろっていることを告げていた。


「美咲、少し休まないか? 買って来たよ。アレ」


 徒然の声に顔を上げた。


「アレ?」


「そう、アレ」


「ふふふ、アレ大好き。文化堂のあんぱん」


「うん、正解」


 このままこの作業を続けさせていれば、もうすぐ美咲は藤の花を見ることになるだろう。

 葉が全て落ちてしまう前に、花が見られるようにできれば安心なのだが……

 美咲の背中をポンポンとリズミカルに撫でていると、志乃がお茶を運んできた。


「あらあら、美咲ったらまた徒然さんに甘えているの?」


「違うわ。甘えてなんか……徒然さんが勝手に甘やかしてくるだけよ」


「うん、そうだ。私が美咲を甘やかしたいんだよ」


 頬を赤く染めた美咲が、徒然の肩に頭を吊りつけてくる。

 縁側に並んで座り、あんぱんを頬張った。

 この日常を手放したくない。

 何よりも美咲のために、そして自分のために。


「明日からちょっと出掛けることになると思う」


「何処に行くの?」


「また取材旅行だよ。今回は短いから美咲はお留守番だ」


「……うん、お母さんと待ってるね」


 イタリアから戻り、治療を再開した美咲は少し子供返りをしている。

 植えつけた記憶は消えていなかったので、このまま進めれば元に戻るだろう。

 今はとにかく『母親』である志乃に甘え『裕子』が味わったことの無い『親からの無限の愛』にどっぷりと浸からせるべきだ。

 そうして幸せな人生を送っているという記憶だけを残せばいい。


 拗ねる美咲に土産を約束し、屋敷を出た徒然は愛車を駆って伊豆に向かった。

 別荘に着いてすぐに鞄から名刺を取り出し受話器をとる。


「はい、伊豆タウンマガジンです」


「お忙しいところ恐れいります。私は先日ご来訪いただいた本田徒然と申します」


「あっ! 本田先生ですか。先日は急にお伺いしてしまい、大変失礼いたしました。私は編集長の山中と申します」


「山中編集長ですか。お名刺をいただいていますね。長期出張に出ていたもので、連絡が遅くなりました。どのようなご用件でしたでしょうか?」


「実は弊社の営業担当が先生を伊豆でお見掛けしたと申しまして。もしよろしければ、コラムか短いエッセイをお願いできないかと思いお伺いした次第です」


「そうですか。伊豆は好きな場所ですし、夏はここで過ごすことも多いので、縁がないとは言えませんね。しかし、申し訳ないが私は御社の出版物を拝見した事が無いので、どのようなものをお望みなのかわかりかねます」


「弊社は伊豆に特化したタウン誌を発行しております小さな出版社です。よろしければ近刊をお持ちいたしますが、ご都合はいかがでしょうか」


「今週なら伊豆にいますよ」


「それは有難い。いつお伺いすればお時間をいただけますか?」


「そうですね……こちらは今日でも良いですが、逆にいつが良いですか?」


「明日の午前中はいかがでしょうか。実は弊社の営業担当が本日は休みをとっておりまして」


 徒然の眉間に皺が寄る。


「お休みを?」


「ええ、なんでも子供の運動会とかで」


 ほっと息を吐いた。


「なるほど、それは良いお休みですね。わかりました、明日の午前中にしましょう。住所は〇〇〇〇……」


 受話器を通してカリカリとメモを取る音がする。


「それではお待ちしています。ああ、いらっしゃるのはお名刺をいただいているお二人ですよね?」


「はい、二人でお伺い致します」


 電話を切り、海に面した窓辺に置いたロッキングチェアに腰をおろす。

 徒然は大きな溜息を吐いて、視線を遠くに投げた。

 今日の海は少し波が立っている。

 風が波を起こすのか、波が風を呼ぶのか。


「どう出てくる?」


 どちらにしても美咲と会わせるつもりは無い。

 しかし追い詰めすぎるのも悪手だとわかっている。

 途中で購入してきたワインを開け、美咲が好きだと言ったグラスに注いだ。

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