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26 選んだ女

 あれから寝込んでいた志乃だったが、四日目の朝には床を上げて台所に立った。

 来た当初にいたお手伝いさんは、高齢のために退職しているので、寝込んでいた間の食事がどうなっていたのかが気になって仕方がない。

 

「あれ? 志乃さん。起きて大丈夫ですか? まだ少し顔色が悪いですよ?」


 書生の一人が台所に顔を出した。


「ええ、もう大丈夫です。長いこと休んでしまってごめんなさいね。お食事とかはどうしていたのですか?」


 書生が肩を竦める。


「朝はパンです。パンとコーヒーだけですけど。昼は総菜と握り飯を買ってきて、夜は店屋物でした」


「まあ! 酷いわね」


「そうですよ。志乃さんはこの家の命綱です。ああ、洗濯と掃除だけはやってましたからご心配なく」


「あらあら、苦労をさせちゃったわ」


 もう一人の書生が顔を出した。


「志乃さん、先生がお呼びですよ」


 志乃は笑顔で頷き、台所を後にした。


「お呼びですか」


 松延の書斎は、小夜子の寝室とは反対側の離れにある。


「ああ、志乃さん。入ってくれ」


 志乃が入ると松延がソファーを勧めてくれた。


「家内が悪かったね。その後どう?」


 一瞬迷った志乃だったが、ここまで誠意を見せてくれる松延に噓はつけない。


「先生には申し訳ないのですが、全部……思い出してしまいました」


「ああ……やっぱり。記憶を消すだけでなく、新しい記憶を植えなきゃダメなんだろうなぁ」


「え?」


「記憶を消すのは簡単なんだ。催眠術をかければ良いだけだから。でもそれは短時間のことで、消し続けるというのが難しい。やっぱり空白のままじゃダメってことだな。うん」


「失敗ってことですよね?」


「どうかな? 正直に言って欲しいんだが、あの頃の死にたかった感情も戻ってる?」


「あ……いえ、なんと言うか、そんなこともあったなぁというくらいですね」


「だったら失敗とは言えないかな。本当ならずっとこのまま安倍志乃としてここで暮らしてほしかったのだけれど、もし実家や婚家が気になるなら……」


「いえ、気になりません。もう捨てた過去です。私は安倍志乃として先生のお側で生きていきたいです」


「そ……そうか……それは有難いが……家内が何か言ったのだろう?」


 意を決して志乃は全てを打ち明けた。


「そんなことを? そうか子供を産むというワードがトリガーだったんだな。いや、申し訳なかった。正直に言うと、とても貴重な臨床データがとれて嬉しいのだが、君にとっては辛かったよね」


「そんなことどうだって良いです。先生、私をここに置いていただけますか?」


「それはもちろんだ。こちらからお願いしたいよ」


 松延が立ち上がって志乃の横に座った。


「この施術はね、生涯で一度しかできないものなんだ。それは、やる側……つまり私だね。私の生活の全てを捧げるほどの覚悟が必要だからだ。実際に朝起きたらすぐに君のことを思い、どうしているだろうかと考える。何をしていても何処に行っていても、君の存在を忘れることはないんだ。そこまで心を尽くさないと記憶を消すなんていう大それた事はできないんだよ」


 志乃は松延の目を見て次の言葉を待った。


「だから、この人とならと思える人でしか治験はできない。分かり易く言うと……絶対にホレちまうから。自分の弱みを曝け出して、泣き崩れる女性を放っておける男なんていやしない。そして私は君を選んで、君に声を掛けた。言っている意味がわかるかい?」


 志乃が目を伏せてボソッと言った。


「奥様に申し訳が立ちません」


「そうだね。私が独身であれば何の問題も無かったのだけれど……そうだよね……愛人で苦しんだ君に、そう言う立場を押し付けるわけにはいかない。君の気持を尊重するよ」


 志乃はそのまま立ち上がり、松延の書斎を出た。

 その足で小夜子の部屋に向かう。


「奥様、志乃です」


「ああ、志乃さん。どうぞお入りになって」


 半身を起こし笑顔で迎える小夜子。


「志乃さん、ごめんなさい。私が焦ったばかりに、あなたの苦労を台無しにしてしまったわ。本当にごめんなさいね」


「いいえ、奥様。確かに私は過去を思い出してしまいましたが、あの頃ほど辛くは無いのです。それにこれからも安倍志乃として、ここでお世話になる許可をいただきました」


「まあ! 嬉しいわ。本当に嬉しい」


「これからもよろしくお願いいたします」


「ええ、あなたの安倍志乃という名前は、私の従妹の名なの。あの子の家は東京大空襲でやられちゃって生き残りがいなくてね。戸籍もみんな焼けちゃったから使わせてもらったのよ。安心してその名を名乗り続けてちょうだいね」


「ありがとうございます。これからも誠心誠意お仕えいたします」


「あら、私たち従妹同士なのに他人行儀に言うのね」


 二人は子供のように泣き笑った。

 それ以降、小夜子から松延の子を産んで欲しいという言葉を聞くことは無かったが、志乃の中で松延への思いはどんどん膨らみ続けていく。


 月の無い夜、小夜子に薬湯を飲ませた志乃は、意を決して松延の寝室に向かった。


「先生」


 返事は無く、カチャリという音がしてドアが開いた。


「どうした? 眠れないの?」


 志乃は体を滑り込ませ、松延の胸に縋りついて顔を見上げた。


「先生、もう無理です。この気持ちは抑えきれません。私を……私を抱いてください」


「志乃……お前……」


 同じ思いを持て余していた松延は、無言のまま志乃を抱きしめドアの鍵をかける。

 その翌日、松延と志乃は揃って昨夜のことを小夜子に告げた。


「そう、やっと思いきってくれたのね。ありがとう、志乃さん」


「申し訳ございません」


「私ね、旦那様のことを小さい頃から知っているでしょう? どうしても兄様としか思えなくて。それに体も弱かったから、私たちの間にそういう行為は一度も無いの。だから本当に気にしないで。私は本田家の嫁だけれど、あなたは松延という男の妻よ。兄の最愛があなたでよかった。志乃さん、兄をよろしくお願いします」


 松延は苦笑いをするだけだった。

 小夜子の言葉をそのまま鵜吞みにするほど子供ではない志乃は、代理母なのだと自分に言い聞かせて、燃え上がる恋心に蓋をした。

 それから10か月、松延と小夜子の子として、志乃の腹から『本田徒然』が誕生した。

 志乃はそのまま使用人として仕え、徒然は病身の母を気遣う優しい子に育っていく。


 松延と徒然に見守られながら小夜子が天国に旅立って二年、志乃の腹に新しい命が宿った。

 生まれたのは女の子で、美咲と名付けられることになる。

 これを機に再婚をという松延の言葉に頷かず、志乃は美咲を自分の私生児として届け出た。

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