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16 生まれかわる女

 本田が治療を始めてから二ヶ月が経過した。

 予定よりかなり早く効果が現れ、山﨑裕子は『安倍美咲』として毎日を過ごしている。

 本田と志乃は、毎日少しずつ幼少期からの記憶を擦り込んでいた。


「美咲ちゃんってさぁ、文化堂のパンが好きだったよね。桜の塩漬けがのっかったあんぱん」


 本田がニヤニヤしながら、いきなり話しかけてきた。

 藤の花柄を切り落とす作業をしている徒然の手伝いをしていた時のことだ。


「そうだった? あんぱんは好きだけど、文化堂ってどこだったかしら」


「駅に行く途中の坂の下だよ? よく一緒に買いに行ったんだ」


「そうなの?」


「うん、思い出してごらん?」


 ここで思い出さないと、徒然に悪いという感情が美咲の中に生まれる。


「そ……そういえばそんなお店があったよね。でも……まだぼんやりとしか思い出せないの」


「そりゃ無理もないさ。外傷は全くなかったけれど、君はひと月以上も意識を失っていたんだもの。志乃さんがオロオロしてさぁ。見てるだけでも胸が痛くなったよ」


「志乃さん……お母さん?」


「そうだよ。美咲ちゃんは私のことはもちろん、お母さんの事も覚えてなくてね。でもだんだん思い出してきたみたいで安心したよ」


「みんなのことを忘れたの?」


「そう、全部忘れちゃったんだよね」


「それって記憶喪失ってこと?」


「そう。でもそれはもう治ってる。思い出せないことがあるっていうだけで、思い出したこともたくさんあるでしょう?」


「お母さんと徒然さんと……子供の頃犬を飼っていたこと……お母さんが可愛い犬だったって言ってた」


「そうさ。犬の名前は思い出した?」


 美咲の目が泳ぐ。

 何か言わないと……早く! 早く!


「小太朗……そうよ、小太朗よ」


「そうだ! すごいよ美咲ちゃん! 小太朗って可愛かったよね。そうやってゆっくりひとつずつ思い出していこうね」


「うん、徒然さん。ありがとうね」


 本田が嬉しそうな顔を向けると、美咲も同じような顔を返す。


「そろそろ休憩しませんか? 美咲、徒然さんがあなたの好きなものを買ってきてくれているわよ」


 美咲と呼ばれて反射的に返事をする。


「あんぱん? 文化堂のあんぱんね?」


「正解!」


 ああ、これで合っていたんだ。

 ちゃんと思い出せたんだと美咲は心から安堵し、自分の好物は『文化堂のあんぱん』で、子供の頃駆っていた犬は『小太朗』という情報が記憶の中に真実として沁み込んでいく。


 本田と志乃は『作った記憶』を擦り込むと同時に、その詳細は全て本人の決定に委ねるという方法をとっていた。


 名前は『安倍美咲』で、年齢は『26』だ。

 最終学歴は『目黒女子短大』で、アパレル会社『シャインユー』に勤めていたが、四年で退社し、留学を目指していた。

 しかし、それを実行する前に道路で倒れているところを発見され現在に至る。


 これ以外の記憶は、誘導されるままに全て自分が作り出したものだ。

 真っ白のキャンパスに、一つずつ『自分が選んだもの』を描き込んでいくという作業を繰り返し、やがて映像となり定着し真実として潜在する。


「美味しい! やっぱり文化堂のは最高ね」


「ははは、美咲ちゃんが喜ぶならたびたび買ってこなくちゃね」


 本田は愛おしい目を美咲に向けてそう言った。


「ねえ、美咲。そろそろ買い物にでも行ってみる?」


 志乃の言葉に美咲の顔が沈む。


「まだ……怖いかな」


 本田が顔を覗き込んだ。


「何が怖いの? 私が一緒に行くよ?」


「だって、知っていたはずの人に会ったら何て言っていいか分からないもん」


 ゆっくりと一定のリズムで背中をやさしく叩き始める本田。


「ごめんね、忘れましたって言えばいいさ。思い出せないってことは重要じゃ無いってことなんだよ。美咲ちゃんは私とお母さんが守ってるんだ。二人がいればそれでいいでしょ? あとはそれほど大事じゃなかったってことさ」


「そう? 怒られない?」


「怒るような人はいないと思うけれど、もしも不機嫌になるような人だったら無視して逃げちゃおう」


「逃げるの? ははは! 逃げちゃえばいいのね? ははははは! 楽しそう」


 本田と志乃が顔を見合わせて頷きあった。

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