アロハと、朝のはじまり
「……ここ、思ったより“ハワイ”だな」
グリーンステイながうらのエントランスに立って、
凛は思わずそうつぶやいた。
木造のロッジ風の建物。
入口にはハイビスカスの造花。
中に入ると、壁一面に並ぶハワイ土産。
マカダミアナッツチョコ、アロハ柄のポーチ、
“ALOHA”と書かれたマグカップ、
そして、フラダンスを踊る猫の置物。
「……瀬戸内の島でこれだけ“アロハ”押してくるの、逆に好きかも」
観光地っぽさと地元感の混ざった空気。
ちょっとズレてるけど、悪くない。
控室のドアを開けると、朱音がいた。
資料を並べて、名札を整えて、静かに準備を進めている。
「おはようございます〜。
あ、やっぱり朱音さん、もう来てると思った」
「おはよう。……その帽子、ハワイ意識?」
「え、バレました?
この会場、空気がもう“アロハ”じゃないですか。
合わせにいかないと浮くかなって」
朱音は笑った。
その笑い方が、昨日より少しだけやわらかい気がした。
凛は椅子に腰を下ろしながら、テーブルの上の名札を手に取る。
「“実行チーム”って、なんか響きがかっこいいですね。
ちょっとテンション上がります」
「……そう? 私はちょっと緊張するけど」
「でも、フラ楽しみですよね。
私、ちゃんと見るの初めてかも」
「うん。
地元の人たち、けっこう本気で練習してるから、見応えあると思う」
「へえ、そうなんですね。
なんか、島の人たちって“ゆるい”イメージあったけど、
そういうとこはちゃんとしてるんだ」
「……たぶん、“好きなこと”には、ちゃんとするんだと思う」
「なるほど。
じゃあ私たちも、ちゃんと“楽しむ側”でいましょうか」
朱音は、少しだけ目を細めて笑った。
そのとき、控室のドアが開いた。
「おはようございます」
陽真だった。
観光課の制服であるアロハシャツを着て、
トートバッグを肩にかけている。
少し眩しそうに目を細めながら、こちらに歩いてきた。
「おはようございます〜。
あ、陽真さんも“アロハ”感じてます?」
「……え?」
「この会場、完全にハワイじゃないですか。
私、今日ずっと“アロハ”って言いたくてうずうずしてるんですけど」
「……言っていいと思いますよ」
「じゃあ、アロハ。
今日もよろしくお願いします」
凛が軽く手を上げると、陽真は少し笑ってうなずいた。
朱音は、そのやりとりを見ながら、
資料の束を整え直した。
そのとき、芝生の広場の端から声が飛んできた。
「おーい、陽真くん、こっちこっち!」
呼んでいるのは、地元婦人会のリーダー格・山根さん。
年季の入った麦わら帽子に、腰にはタオル。
すでに汗をかきながら、テントの下で指示を飛ばしている。
「おはようございます。今日も暑いですね」
「ほんとよ。
でも、フラの日は晴れるって決まっとるんよ、うちの島は」
「……それ、統計ですか?」
「気合よ、気合。
でね、今日の手伝い、ざっくり説明しとくけえ」
陽真は、手に持っていたメモ帳を開いた。
その動きがもう“慣れてる人”のそれだった。
「まず、音響の確認。
マイクとスピーカー、10時半までに試しておきたいけえ、
業者さん来たら立ち会って」
「了解です」
「それから、控室の案内。
フラのグループ、今年は6組来るけえ、
それぞれの代表さんに場所と時間、ちゃんと伝えてね」
「名簿、控室の机に置いてありました。確認しておきます」
「さすが、話が早い。
あと、誘導。
お客さん、たぶん昼前から増えるけえ、
駐車場と観覧エリアの動線、ちょっと見といて」
「はい。去年と同じ配置ですか?」
「基本はそう。
でも、今年はキッチンカーが増えとるけえ、
ちょっとだけズレとる。現場で確認して」
「わかりました」
山根さんは、タオルで額をぬぐいながら、
陽真の肩をぽんと叩いた。
「ほんま、陽真くんおって助かるわ。
アロハ似合うし、島の顔じゃけえね」
「……ありがとうございます。
でも、アロハは制服なんで」
「ええのよ、似合っとるんじゃけえ」
「それからね、今年は“ながうらレイレイズ”がトップバッターじゃけえ」
「地元のグループですよね?」
「そうそう。
もう10年以上やっとるベテラン組。
平均年齢は……言わんほうがええか。
でも、踊りはキレッキレよ。
最初にあの人たちが出ると、会場が一気にあったまるけえ」
「なるほど……盛り上げ役ですね」
「そう。で、次が“フラ・マヒナ・キッズ”。
こっちは小学生のグループ。
衣装がまたかわいいんよ。
去年なんか、観客の半分がスマホ構えてたけえね」
「……それ、保護者じゃなくても撮りたくなりますね」
「ほんまよ。
で、午後からは“カウラナ・レフア”と“モアナ・ブルー”。
この二つは、島外から来とるグループ。
踊りも本格的で、ちょっと“魅せる系”。
音響のタイミング、ちゃんと合わせてあげてね」
「了解です。演目のリスト、あとで確認しておきます」
「お願いね。
最後は“ながうらレイレイズ”がもう一回出て、
全体でフィナーレ。
みんなで輪になって踊る“カ・ウル・レフア”、
あれがまた泣けるんよ」
山根さんは、少し目を細めて笑った。
「……山根さん、フラ、好きなんですね」
「そりゃあね。
最初は“なんでハワイ?”って思うたけど、
踊っとるうちに、なんかね、
“島のリズム”と合うんよ、不思議と」
「島のリズム……」
「そう。
波の音とか、風の感じとか、
そういうのと、フラの動きが、なんか似とるんよ。
だから、続いとるんじゃろうね」
陽真は、メモ帳を閉じた。
もう、書くことは十分だった。
「……ありがとうございます。
ちゃんと、伝えられるようにします」
「頼んだよ。
あんたが“ちゃんと”してくれたら、
みんな安心して踊れるけえ」
山根さんに一礼して、陽真は控室へと戻った。
芝生の上を歩く足元に、朝の光がまっすぐ差し込んでくる。
アロハシャツの背中に、じんわりと汗がにじんでいた。
控室のドアを開けると、
凛と朱音がちょうど名札を胸に留めているところだった。
「おかえりなさい。
なんか、すっかり“島の人”って感じでしたね」
凛が軽く笑いながら言う。
陽真は、少し照れたように肩をすくめた。
「……まあ、観光課なんで。
アロハ着てると、勝手に“島代表”みたいな扱いになるんですよ」
「似合ってるから、余計にそう見えるんでしょうね」
朱音が静かに言った。
その声に、昨日よりも少しだけ柔らかさがあった。
「フラの流れ、ざっくり聞いてきました。
控室の案内と、音響の立ち会い、あと誘導。
それぞれ分担して動けそうです」
「私、誘導やってみたいです。
人に道を教えるの、ちょっと憧れてたんですよね。
“あっちです”って、指差すやつ」
「……それ、思ったより責任ありますよ?」
「だからこそ、やってみたいんです」
凛は、ストローをくわえたまま、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、私は控室の案内をやります。
名簿、もう一度確認しておきますね」
朱音は、資料を手に立ち上がった。
その動きに、迷いはなかった。
「……じゃあ、僕は音響と全体の調整を見ます。
何かあったら、すぐ連絡ください」
三人は、それぞれの役割を確認し合って、
控室を出た。
外では、テントの設営がほぼ終わり、
ステージ前に椅子が並べられ始めていた。
遠くから、フラの衣装を着た子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
風が少し強くなってきた。
でも、それが心地よかった。
イベントは、まだ始まっていない。
でも、何かが少しずつ動き出している。
陽真は、空を見上げた。
雲ひとつない青空。
その下で、今日という一日が、静かに始まろうとしていた。