整えることと、整わないもの
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
窓の外はもう明るく、カーテンの隙間から差し込む光が、
部屋の白い壁にやわらかく広がっていた。
朱音は、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
眠れなかったわけじゃない。
でも、眠りが浅かったのは、たぶん昨日のせいだ。
陽真と、久しぶりにちゃんと話した。
中学以来。
あのときのことは、もう過去のことだと思っていたけれど――
実際に顔を合わせると、
思っていたよりも、いろんな感情が残っていた。
気まずさ。
懐かしさ。
ちょっとした悔しさ。
そして、少しだけ、期待。
「……めんどくさいな、私」
小さくつぶやいて、ベッドから起き上がる。
洗面所で顔を洗いながら、
鏡に映る自分の表情を確認する。
ちゃんと笑える顔になっているか。
ちゃんと“仕事モード”になっているか。
朝食は、トーストとヨーグルト。
テレビはつけない。
代わりに、スマホで昨日の議事録をもう一度見直す。
送信済みのメールを開いて、
誤字脱字がなかったかを確認する。
何度も見たはずなのに、
こうしてまた見返してしまうのは、
自分の“ちゃんとしなきゃ”という癖のせいだ。
凛のことも、少し気になっていた。
言葉の選び方が独特で、
どこか“演じてる”ような印象もあったけど、
それが素なのか、壁なのか、まだ分からない。
でも、嫌な感じはしなかった。
むしろ――ちょっと羨ましかった。
ああいうふうに、
“自分の言葉”で場を動かせる人って、
強いな、と思う。
朱音は、食器を片付けて、
バッグに資料を入れた。
筆記用具、メモ帳、予備のマスク。
忘れ物がないか、何度も確認する。
最後に、深呼吸をひとつ。
「……大丈夫。ちゃんとやれば、ちゃんと伝わる」
そう言い聞かせて、玄関を出た。
外の空気は、少し湿っていた。
でも、空は晴れていた。
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駅前の駐車場に停めていた軽自動車に乗り込むと、
フロントガラス越しに、まぶしいほどの青空が広がっていた。
エンジンをかけて、エアコンを入れる。
冷たい風がゆっくりと車内を満たしていく。
シートベルトを締めながら、
朱音はふと、助手席の足元に置いたトートバッグを見た。
その中に入っている、昨日の資料。
そして、陽真の字が書かれたメモ。
――「じゃあ、また明日」
たったそれだけの言葉なのに、
なぜか、ずっと頭から離れなかった。
思い出すのは、中学二年のバレンタイン。
放課後、昇降口の前で、
陽真が靴を履き替えているのを待っていた。
紙袋の中には、前の晩に作ったチョコレート。
ラッピングに何度もやり直しをして、
メッセージカードも、何度も書き直した。
「いつもありがとう」
それだけの言葉に、どれだけの気持ちを詰め込んだか、
今でも覚えている。
「……これ、よかったら」
そう言って差し出したとき、
陽真は少し驚いた顔をして、
でもすぐに笑って受け取ってくれた。
その笑顔を見たときは、
ほんの少しだけ、報われた気がした。
でも――
次の日、教室でそのチョコが“みんなのおやつ”になっていたとき、
何も言えなかった。
「朱音がくれたやつ、うまかったなー」
「手作りとかすごいよな」
「陽真、モテるじゃん」
みんなが笑っていて、
陽真も、笑っていた。
朱音も、笑った。
笑うしかなかった。
“そういうつもりじゃなかった”って、
言えなかった。
“そういうつもりだった”とも、言えなかった。
あのとき、
自分の中では、ちゃんと“特別”だった。
でも、陽真にとっては、
“みんなで食べるもの”だった。
その温度差が、
ただただ、苦しかった。
「……女子のほうが、成熟が早いって、
こういうことなんだろうな」
今になって思う。
あの頃の自分は、
たぶん、少しだけ先を走っていた。
でも、
先に走っていたからといって、
報われるわけじゃない。
むしろ、
置いていかれることのほうが多い。
朱音は、ウィンカーを出して、
交差点を左に曲がった。
「……ほんと、めんどくさいな、私」
でも、
それでも今日、また会う。
また話す。
また、向き合う。
それが、
今の自分にできる“ちゃんと”だと思うから。
ギアをドライブに入れて、
車をゆっくりと走らせた。
空は、思い出すには十分すぎるほど、
よく晴れていた。