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朱音が「そうかもね」と笑ったあと、
会議室に一瞬だけ、言葉のない時間が流れた。
その沈黙の中で、陽真はふと、
小学校の頃のことを思い出していた。
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あのとき、俺たちは“幼なじみ”って呼ばれてた。
家が近くて、登下校もよく一緒で、
気づけば、いつも隣にいた。
周りに冷やかされるたびに、
俺は「ちげーし」とか「やめろよ」とか、
とにかく否定することばかり考えてた。
でも、朱音は――
たまに、わざと聞こえるような声で言うんだ。
「陽真くんって、けっこうかっこいいと思うけどな」とか、
「将来、誰と結婚するんだろうねー」とか。
あれは、たぶん、
本気を隠すための冗談だったんだと思う。
バレンタインの日、
朱音がくれたチョコは、
小さな紙袋に入ってて、
手作りのクッキーと、
「いつもありがとう」って書かれたメモが入ってた。
俺は、受け取った瞬間に、
周りの視線が気になって、
心臓がうるさくて、
気づいたら言ってた。
「……みんなで食べようぜ」
朱音は笑った。
でも、その笑い方は、
いつもより少しだけ、静かだった。
あれから、何もなかったように日々は過ぎて、
中学ではクラスも別になって、
話すこともなくなって――
気づけば、“知ってた”だけの関係になっていた。
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今日、こうして再会して、
朱音があの頃と同じように笑ってくれて、
でも、あの頃と違って、
何もなかったみたいに話してくるのが――
少しだけ、苦しかった。
俺は、ちゃんと向き合ってこなかった。
あのときの気持ちも、
あのときの言葉も、
全部、宙ぶらりんのままにしてきた。
“やらかした”っていうのは、
そういうことだ。
陽真は、ふっと息を吐いて顔を上げた。
会議室の空気は、さっきと変わらず、
窓の外では蝉の声が遠くに響いていた。
朱音は、タブレットの画面を見ながら、
花飾りの写真を指でスクロールしていた。
でも、その指の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
そして、何気ないふうを装って、
陽真のほうをちらりと見た。
目が合う前に、彼女はすぐに視線を戻した。
けれど、その一瞬の間に、
何かを確かめるような、
あるいは、思い出すような気配があった。
凛が「ねえ、これって本番は何時からだっけ?」と声を上げ、
空気がまた動き出す。
朱音は、凛の質問に答えながらも、
どこか少しだけ、視線を泳がせていた。
「18時から。だから、17時には現地入りかな」
言葉ははっきりしているのに、
その声の奥に、わずかな“間”があった。
陽真は、その“間”に気づいていた。
たぶん、朱音も気づいていた。
彼女は、あの頃のことを忘れていない。
でも、あえて触れない。
それは、優しさでもあり、
同時に、距離でもある。
朱音がタブレットを閉じて、
紙コップの水をひと口飲む。
そのとき、ふと、陽真のほうを見た。
「……あのさ」
一瞬、何か言いかけたように見えた。
でも、すぐに言葉を飲み込んで、
代わりに、少し笑って言った。
「陽真くん、踊るときはちゃんと笑ってね。
真顔で踊ったら、怖いから」
「……踊る前提なんですか」
「うん、前提」
そのやりとりは、ただの冗談のように聞こえた。
でも、陽真には分かった。
“あのさ”のあとに続くはずだった言葉を、
朱音は、今はまだ言わないことを選んだ。
それは、たぶん――
自分だけが“覚えている”と思われたくないから。
あるいは、“覚えている”ことを、
陽真の口から聞きたかったから。
どちらにしても、
彼女は、ちゃんと覚えている。
そして、陽真もまた、
その記憶から逃げないと決めていた。