八幡生涯学習むら・会議室
凛が「第2章・防災無線が止まらない」と言って笑ったときだった。
「……なにそれ、めっちゃ気になるんだけど」
その声に、陽真の笑いが止まった。
ドアのほうを振り返ると、
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
東和朱音。
少し伸びた髪を後ろでまとめて、
白いシャツにジーンズという、飾り気のない格好。
でも、笑ったときの目元の感じは、
昔とまったく変わっていなかった。
「……久しぶり」
陽真がそう言うと、朱音は軽く手を振った。
「うん、久しぶり。
中学ぶり、だよね」
「たぶん、それくらい」
朱音は少しだけ首をかしげて、陽真を見た。
「こっちに帰ってきてたんだ。
いつ?」
「……三年前くらい」
「へえ。知らなかった」
「まあ、特に言ってなかったし」
「観光課なんだね。
なんか、ちょっと意外」
「よく言われる」
朱音はそれ以上聞かなかった。
でも、その“聞かなさ”が、陽真には少しだけありがたかった。
凛が、二人の間に流れる空気を感じ取ったのか、
少しだけ首をかしげて言った。
「……なんか、同じ島出身でも、
“知ってる”と“知ってた”って、
全然違うんですね」
朱音は笑った。
「うん。
“知ってた”って、
ちょっとだけ、やっかい」
陽真は、うまく笑えなかった。
その言葉が、どこか自分に向けられたような気がして。
凛が、机の上に置かれた紙を指でつついた。
「これ、日良居さんの……?」
「うん。置いてあった」
「“あとはよろしく”って書いてあった。
すごいよね、あの人。
指示書っていうか、置き手紙」
朱音が苦笑する。
「らしいね。
昔から、そういうとこ変わってないんだ」
「知ってるんだ、日良居さんのこと」
陽真が思わず口にすると、朱音は少しだけ肩をすくめた。
「高校のとき、ちょっとだけ関わったことがあって。
あの人、なんかこう……
“人に任せるのが上手い”っていうか、
“放り投げるのが自然”っていうか」
「……分かる気がする」
凛が紙を見ながら言った。
「“地域資源活用型観光振興プロジェクト”って、
名前はすごいけど、
中身は“なんかやって”ってことだよね、これ」
「うん。たぶん、そう」
陽真は、紙の文字を見つめながら答えた。
「でも、何をどうするかは、
たぶん俺たち次第なんだと思う」
「……自由って、
責任とセットなんだよね」
凛がぽつりとつぶやいた。
その言葉に、三人とも、少しだけ黙った。
ふざけた空気は、もうどこかへ消えていた。
でも、重たくはなっていない。
ただ、三人の間に、
“始まってしまった”という静かな実感だけが残っていた。
凛が笑いながら椅子に深く座り直す。
「……なんか、ちゃんと自己紹介してなかったね、私たち」
「たしかに」
朱音がうなずく。
「じゃあ、改めて。
久賀凛です。都会から来ました。
趣味は、知らない町を歩くことと、
知らない人の会話を盗み聞きすることです」
「……それ、趣味って言っていいの?」
陽真が思わずつっこむと、凛は悪びれずに笑った。
「いいの。
“趣味”って、誰にも怒られない言い訳だから」
朱音がくすっと笑う。
「じゃあ、私も。
東和朱音。島の出身で、今は柳井市内で働いてます。
趣味は……最近は、朝にコーヒーを淹れること、かな」
「おしゃれだ……」
凛が感心したように言う。
「“朝にコーヒーを淹れる”って、
それだけで人生が整ってる感じする」
「いや、全然整ってないよ。
むしろ、整えたくてやってるだけ」
「その言い方、ちょっと好き」
二人のやりとりを聞きながら、陽真は少しだけ間を置いて言った。
「……安下庄陽真。観光課にいます。
趣味は……散歩、ですかね」
「おお、健康的」
凛がすぐに反応する。
「どこ歩くんですか? ミカン畑?」
「いや、港の方とか。
あと、海沿いの道。人が少ない時間に」
「へえ。
“人が少ない時間”って、なんか詩的」
「……ただ静かなのが好きなだけです」
朱音がうなずいた。
「分かる。
朝とか夕方の海沿いって、
風の音と波の音しか聞こえなくて、落ち着くよね」
「うん。
何か考えたいときとか、
何も考えたくないときとか、ちょうどいい」
凛が少しだけ首をかしげて言った。
「へえ。
考えごと、するタイプなんだ」
「……まあ、たまに」
「じゃあ、今度その道、案内してもらおうかな。
“陽真さんの沈黙コース”ってことで」
「……名前つけないでください」
三人の笑いが、また少しだけ重なった。
凛が笑いながら、机の上に肘をついた。
「……で、みんな朝型? 夜型?」
「いきなり?」
陽真が苦笑する。
「いや、気になるじゃん。
島って夜めっちゃ静かだし、
朝はサイレン鳴るし、どっちが生きやすいのかなって」
朱音が少し考えてから言った。
「私は……朝型寄りかな。
柳井に通うから、自然とそうなった」
「通勤、船?」
「ううん、橋。車で。
でも朝の海沿いって、
眠いけどちょっと気持ちいいよ」
「へえ、いいなあ。
私は完全に夜型。
朝は人間じゃない」
「……じゃあ、サイレンの音とか、地獄ですね」
「うん。あれ鳴ると、戦時中かってくらい飛び起きる」
朱音が笑った。
「陽真くんは?」
「……どっちかっていうと朝型です。
というか、夜遅くまで起きてると、
次の日ずっと後悔するから」
「真面目か」
凛がすかさず突っ込む。
「いや、ほんとに。
“夜更かしした自分”を、
朝の自分がめっちゃ責めてくる」
「分かる。
“昨日の自分、何してたの?”ってなるよね」
「そうそう。
で、だいたいYouTubeとか見てただけなんだよね」
「“何も得てない夜”って、
一番効くよね」
三人の笑いが、また少し重なった。
朱音がふと、陽真のほうを見て言った。
「でも、なんか意外。
陽真くん、夜にひとりで考えごとしてそうなイメージあった」
「……それ、中学のときの印象でしょ」
「かもね。
でも、あの頃からちょっとだけ、
“考えてるふう”だったよ」
「“ふう”って……」
凛がにやっと笑った。
「“考えてるふう”って、
いちばん信用ならないやつだよね」
朱音も笑いながらうなずいた。
「“何考えてるの?”って聞いても、
“別に”って返してくるタイプ」
「……それ、俺じゃないですか」
陽真が苦笑すると、凛がにやっと笑ったまま言った。
「うん。でも、そういう人のほうが、
たまに面白いこと言うから好き」
その言葉に、陽真は少しだけ黙った。
でも、その沈黙は、なんだか心地よかった。
窓の外では、風がゆっくりと木の葉を揺らしていた。
会議室の中には、まだ何も始まっていないのに、
何かが少しずつ動き出しているような、
そんな静かな気配が漂っていた。
凛が、ふと手を伸ばして紙コップの水をひと口飲む。
「……ねえ、こっち来てからずっと思ってたんだけどさ」
「ん?」
「“みかん鍋”って、ほんとにあるの?」
陽真と朱音が、同時に吹き出した。
「あるよ」
「あるね」
「……嘘でしょ。
鍋にみかんって、どういう感情?」
朱音が笑いながら説明する。
「皮ごと入れるんだよ。
まるごと、ぽんって」
「攻めすぎじゃない?
それ、鍋の中で何を主張してるの?」
「意外と合うんだよ。
鶏とか魚介とか、さっぱりしてて」
「いやいや、“意外と合う”って、
だいたい合ってないときの言い訳じゃん」
陽真が笑いながら言った。
「でも、観光客には人気あるんですよ。
“写真映えする”って」
「それ、味じゃなくて映えで勝負してるやつじゃん……」
凛は頭を抱えるふりをして、
それからふっと笑った。
「でも、ちょっと気になるな。
“みかん鍋を食べる自分”って、
なんか一皮むけそう」
「……みかんだけに?」
朱音がすかさず突っ込む。
「うわ、今のは自分でも寒かった」
「いや、むしろ評価したい。
その潔さ」
陽真は、二人のやりとりを聞きながら、
どこか懐かしいような、
でも新しいような気持ちになっていた。
三人の笑いが、またひとつ重なった。
まだ何も始まっていないのに、
少しだけ、始まっている気がした。