午後6時57分|八幡生涯学習むら
「……あれ、もう誰か来てる」
陽真が会議室のドアを開けた瞬間、
窓際の席に座っていた少女が、ゆっくりと顔を上げた。
水色のアロハシャツに、くるんと外に跳ねたショートボブ。
日焼けしていない肌に、都会的な輪郭の整った顔立ち。
姿勢は崩していないのに、どこか“ここにいない”ような空気をまとっていた。
陽真は一瞬、言葉を探した。
島の空気にまだ馴染んでいないその姿が、
まるで観光ポスターの中から抜け出してきたように見えたからだ。
「……こんにちは。島プロの……?」
「うん。たぶん、そう。
この紙、そう言ってるから」
少女は紙をひらひらと振って見せた。
そこには、日良居の手書きの文字でこう書かれていた。
> 『地域資源活用型観光振興プロジェクト(通称:島プロ)
> 参加者は以下の3名。あとはよろしく。』
> ※日良居の名前だけが殴り書きで署名されている。
「……あとはよろしくって、何を?」
「さあ。
“よろしく”って、便利な言葉だよね。
何をどうするかは言ってないのに、言った気になれる」
「……たしかに」
陽真は苦笑しながら、向かいの席に座った。
「俺、安下庄陽真。観光課から来ました。
そっちは……?」
「久賀凛。都会から来ました。
田舎暮らしに憧れて、ふらっと来たら、
駅前でこの“島プロ”の張り紙見つけて。
“面白そうかも”って思ったら、気づいたらここにいた」
「……行動力すごいですね」
「うん。でも、“面白そう”って言葉、
だいたい後悔の入り口なんだよね」
陽真は少し黙ってから、ぽつりとこぼした。
「……観光案も、そんな感じかもしれないです」
「ん?」
「“面白そう”って思って始めたけど、
途中で“これ、誰に伝わるんだろう”って分からなくなる」
「へえ。観光案、考えてるんだ」
「一応……。
“通らない道”とか、“届かない景色”とか、
そういうのをテーマにしてて」
「……ちゃんとしてない感じ、いいじゃん。
ちゃんとしてないもののほうが、
ちゃんと残ったりするし」
凛はそう言って、机の上に肘をついた。
アロハの袖がずれて、手首の細さが目に入る。
華奢な印象なのに、言葉は妙に芯がある。
「……なんか、変なことばっか言ってます?」
「いや……まあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、独特?」
「うん。そんな感じ」
「ふふ、いいねそれ。
“独特”って、褒められてるのか微妙なラインで、
ちょっとドキドキする」
凛は笑った。
その笑い方が、どこか“慣れている”ように見えた。
人に“変わってるね”と言われることに、もう慣れている。
それを“武器”にしている。
「でも、独特ってさ、
最初は気になるけど、
慣れると、それが“らしさ”になるんだよ」
「……それ、自分で思ったんですか?」
「うん。
たぶん私、“らしさ”で生きてるタイプだから」
陽真は、返す言葉を探して黙った。
“らしさ”で生きてる――
それは、強さのようでいて、どこか脆さも感じさせた。
凛は笑った。
軽く、楽しげに、何でもないことのように。
けれどその笑いには、どこか“間”があった。
ほんの一瞬、笑う前に何かを飲み込んだような。
言葉を選ぶより先に、笑いで蓋をしたような。
陽真はその“間”に気づいてしまった。
気づいてしまった自分に、少し戸惑った。
彼女はよくしゃべる。
言葉のテンポも、表情の切り替えも、慣れている。
でも――
その“慣れ”が、逆に不自然だった。
笑っているのに、どこか届かない。
言葉が多いのに、どこか遠い。
まるで、
“ここにいるふり”をしているみたいだった。
「……なんか、変なこと言った?」
凛が首をかしげる。
その仕草も、どこか演技のように見えた。
「いや、別に」
陽真はそう答えながら、
自分の中に残った“引っかかり”をうまく言葉にできなかった。
彼女の笑いは、
誰かに向けたものじゃない。
たぶん、自分自身に向けたものだ。
“私は大丈夫”って、
自分に言い聞かせるような笑いだった。
凛は、窓の外をぼんやり見ながら言った。
「……ねえ、ここって、
ミカンの木と海しかなくない?」
「……まあ、そうですね」
「いや、ほんとに。
来る途中、ずっとミカン、ミカン、ミカン。
で、海。
で、またミカン」
「それが島ですから」
「うん。でも、なんかこう……
“背景がループしてるゲーム”みたいだった。
スクロールしても同じ景色が続くやつ」
陽真は思わず笑った。
「……それ、地元の人に言ったら怒られますよ」
「いや、褒めてるんだよ?
“永遠のミカン”って、ちょっと詩的じゃない?」
「……詩的ですかね」
「あとさ、朝の防災無線、あれ何?」
「え?」
「今日の朝、“ミカンの消毒を行います”って、
めっちゃ真剣な声で放送されてたんだけど。
あれ、島の緊急情報?」
「ああ……あれは、まあ、
島にとってはわりと重要な情報です」
「いや、分かるけどさ。
“消毒します”って言い方、
なんか生々しくてちょっと怖かったんだけど」
「慣れると、あれが朝の始まりって感じになりますよ」
「それと、たまに朝の8時に鳴るサイレン。
あれ、何? 戦時中?」
「あれも防災訓練です。
日曜とか気になりますよね」
「いや、目覚ましの音がサイレンかって、
島、攻められてるの?」
「……まあ、攻められてはいないですけど」
凛は真顔でうなずいた。
「“ミカンと爆音とサイレンの島”……
なんか、B級映画のタイトルみたいじゃない?」
陽真は、つい口を滑らせた。
「“静寂を破る果実たち”……とか?」
凛が目を輝かせた。
「それいい!
“第1章・ミカンの反乱”」
「……第2章は?」
「“防災無線が止まらない”」
「……観光案、どこ行きました?」
「どこでも行けるよ。
“通らない道”って、そういうことでしょ?」
陽真は、自分が笑っていることに気づいて、
少しだけ恥ずかしくなった。
美人だな、と思った。
でもそれ以上に――
やっぱり、ちょっと変だ。
でも、
その“変”に、少しだけ巻き込まれてしまった自分がいた。