神の願い
茜色の空が、ゆっくりと水面に溶けてゆく。
湖畔にひっそりとたたずむその場所では、風すら音をひそめ、ただ小さな波が砂利をやさしく撫でていた。
岸辺には一本の桜の木。花びらはまだ散りきらず、ほのかに色づいた花弁が、光に透けて静かに揺れている。
その桜の下で、一人の女性が穏やかな眠りに身をゆだねていた。
そこへ男がそっと歩み寄り、彼女にブランケットをかけると、隣に腰をおろす。
何ものにも脅かされないこの美しい空間で、男は静かに彼女の肩に頭を預け、そっと寄り添った。
「お前は、あとどれくらいで目を覚ましてくれるのだろうな……」
返ってくることのない問いに、男の顔はどこか泣きそうだった。
そのまま彼は天を仰ぎ、空へと記憶の映像を投影すると、ひとり静かに、それを見つめ続けた。
男は、自然の理から外れて生まれた存在だった。
“寂しい”という感情だけは知っていたため、人々と交流し、彼らの願いを叶えることで、その孤独を埋めようとした。
雨を望まれれば降らせ、他国からの侵略に怯える者たちには、守りの力を与えた。
そうしているうちに、いつしか「国の守り神」として祀られるようになっていった。
だが、人々が男のもとを訪れるのは、願い事のあるときだけ。
彼らは豪華な金品や食事を置き去りにして、すぐに去っていく。
男は、そんなものより「人と触れ合う時間」が欲しかった。
だが、それを口にすれば「恐れ多い」と拒まれ、人と関わるために願いを叶えていたはずが、いつしか「望まれたから叶える」に変わっていた。
そして――そのとき、それは突然、現れた。
男がいたのは、城の地下、誰も近づかぬ奥深き空間。
そんな場所に、ひょっこりと、小さな女の子が現れたのだ。
男を見るなり、少女は花が咲くように笑い、元気よく挨拶をしてきた。
そして男の目の前にちょこんと座ると、まるで激流のように話し始めた。
自分には前世の記憶があること。
この世界はかつてプレイしていた乙女ゲームの世界に酷似していること。
そして、男は場合によってはこの世界に絶望し、やがて災厄となる存在であること——。
「だからね、神様にこの世界はきれいなんだよって知ってほしくて、ここまで来たの!」
その無垢な笑顔と邪気のない瞳は、男の心に深く響いた。
この少女の行く末を、この目で見届けたい——自然と、そう思わせるだけの力があった。
男はその場に自らの分身を残し、本体は一匹の猫の姿へと変わった。
少女についていくことを告げると、彼女は飛び跳ねて喜び、猫の姿の男を大切そうに抱き上げた。
「これから一緒に、たくさん世界を見に行きましょうね」
その言葉の通り、ふたりは使えるあらゆる手段を駆使して、さまざまな場所を旅してまわった。
少女は貴族の家に生まれていたため、社交の名目で他領を訪ねたり、避暑地として名高い土地へ赴いたり——幾多の風景を共に分かち合った。
やがて少女は女性へと成長し、婚約者ができた。
彼との関係は穏やかで、日々は静かに過ぎていった。
だが、貴族の子女であれば誰もが通うという学園に入学してから、すべてが狂い始めた。
彼女や他の婚約者をもつ生徒たちは、身に覚えのない罪で糾弾されるようになり、
婚約者たちはまるでこの世で最も醜悪な者を見るような目で彼女たちを責め立てるようになった。
暴力さえ振るわれるようになったため、男は少女の安全のため、猫の姿のまま学園でもなるべく寄り添うことにした。
——だが、それでも守りきることはできなかった。
貴族としての社交訓練の一環として開かれた、生徒のみの夜会。
その場で、少女は婚約者に剣を突き立てられたのだ。
少女にかけていた守護の術が発動したのを感じた男は、転移し現場に駆けつけた。
血を流して倒れる少女の姿——それを目にしたときの記憶は、もう曖昧だった。
ただ、少女の傷を癒し、感情のままにあの場を破壊したような気がする。
やがて少女が深い眠りについたことに気づいた男は、誰にも立ち入ることのできない自らの聖域に彼女を運んだ。
今は、かつてふたりで分かち合った美しい景色を模した空間で、少女の目覚めをただ待ち続けている。
記憶を映していた空の投影を現在の様子へと切り替える。
そこには、国境の防衛に追われる王族たち、鉱山で鞭打たれるかつての婚約者、そして男の古き祠に涙ながらにすがる者たちの姿があった。
男はそれらを無言で見つめながら、少女の手をそっと握る。
まだ残るかすかな温もりを確かめるように、そっと目を閉じた。
——明日こそ、彼女は目を覚ましてくれるだろうか。
もしだめなら、明後日にはどうだろう。
願いを叶えるために生きてきた男は、生まれてはじめて自分のために願った。
願わくば、もう一度——
たった一度だけでも、あの笑顔に会えますように。