奉公
7.奉公
シャルフィナン王国は西方の大国であるが、厳格な身分制を敷いていた。
貴族、民、貧困層――身分は財力によって決まり、下層の者たちは這い上がる術もない。
時には子どもが家族のために売られ、貴族の屋敷に奉公へ出されることも珍しくなかった。
親は言う。
「せめて貴族様のお役に立てるのだから、幸せなのだ」と。
子どもの意思など、誰も問わない。
ボロ布に身を包んだ少女は、男に引かれるまま道を歩いていた。
彼女に名前はない。
家族から離れた瞬間から、自分はすでに名前という名は失われた。
呼ばれていた名前など、今の少女には必要はないものなのだ。
「あなたは、それで良いのですか?」
先ほどすれ違った男が呟いた一言がずっと耳に残り続けている。
何が良いのか、悪いのか。
そもそも自分に選ぶ権利などないのだ。
売られていくことで家族が少しでも食べられるのなら、それが一番なことなのだ。
そう言い聞かせるほどに、胸の奥は冷たく痛む。
貴族街へ踏み入れると、鋭い視線が突き刺さる。
煌びやかな服を纏った人々は、汚れた少女を虫けらのように見た。
「まぁ、随分と小汚い」
「近寄らないでいただきたいわ」
ひそひそと洩れる声に、足がすくみそうになる。
「……ほら、着いたぞ」
男の声に顔を上げると、そこには巨大な屋敷がそびえていた。
深紅の屋根、手入れの行き届いた庭、誇らしげに掲げられた紋章。
その美しさが、かえって自分の惨めさを突きつける。
大きな屋敷の門をくぐると、少女は広間に通された。
白布をかけた長い食卓の奥に、屋敷の主らしき男が腰掛けている。
「待っていたよ」
男が穏やかに声をかける。
しかし少女は、震えて言葉を発することが出来ない。
隣の婦人が、扇を閉じて少女の頬を突然打ち据えた。
何が起こったか分からぬまま涙がにじむ。
熱と痛みがじわじわと広がり、涙が滲んだ。
「全く! あなたは名誉あるロアーヌ家の侍女となるのですよ!返事の一つもできないのかしら!?」
鋭い声が胸を抉る。
怒られたくない。叩かれたくない。
ただそれだけの思いが、体を震わせた。
「……はい、ごめんなさい」
掠れた声でそう言うと、主人がゆっくりと立ち上がり、少女を見下ろした。
震える少女を主人は見下ろしながら、そっとこう告げる。
「君の名は、今日から…セリナだ。
我が家にふさわしい者となれば、新しい名を与えよう」
セリナ。
生まれて初めて与えられた“人の名”。
けれど不思議と胸の奥は少しも温かくならなかった。
その響きは祝福ではなく、冷たい鎖の音のようで彼女は喜ぶことは出来なかったが小さな声で呟く。
「……ありがとうございます、ご主人様」
そう告げた時、少女の心は深く沈み込んでいった。
これから少女は「セリナ」として生きていくことを選んだのだった。