第6話
仮面の下、エレボスの目に冷たい光が宿った。静かに、だが確かに、その光は地下へと燃え落ちてゆく。
鉄の足が地を打つ。崩れた階段を踏み抜きながら、彼はさらに下層へと降りていった。灯りはなく、常人の目では何も見えぬ深淵。だがエレボスには、空気の流れ、地の湿り、魔力の残滓がすべて“視える”。呼吸は深く、鼓動は静か。敵が潜む場所に向かうというより、自分の本来の居場所に戻っていくような錯覚さえあった。
この地下道は、古い時代の魔術ギルドが用いていた研究施設の廃墟と重なっている。王国によって魔術が制度化される遥か前、個人が、家が、徒党を組んで力を求めていた時代の名残だ。表向きは“禁じられた時代”として記録から消されているが、エレボスはそれが単なる神話でないことを知っていた。
やがて足元の石が変わる。自然岩から人工の敷石へ、湿土の匂いから石灰と腐敗の入り混じった刺激臭へと。誰かが、ここを“現在”も使っている証だ。古びた鉄扉の前に辿り着くと、エレボスは一拍置いて右拳を構えた。魔力が拳に集中し、紫電のように皮膚を走る。次の瞬間、拳が閃光と共に扉を打ち破った。
扉の向こうには、地上とはまったく異質の空間が広がっていた。
高い天井に無数の魔法陣が描かれ、岩壁には血で書かれた文様。燭台の光ではなく、魔力で発光する鉱石が天井を照らし、幾何学模様の影が床に落ちていた。そこにいたのは十数人──フードを被った者たち。彼らの中には人ならざる気配を持つ存在も混じっている。明らかに人為的な融合、あるいは失敗した魔術変異体。
中央には巨大な台座。その上には、まだ生きている少女が横たえられていた。魔力を吸い取る陣の中心に固定され、意識は虚ろ。儀式の最中だ。
「……来ると思っていたよ、エレボス」
その場にいた一人──異様なまでに痩せこけた男が、仮面の男に向かって口を開く。声はひどく歪み、耳に残る。魔力で改竄された声帯だ。魔術の“反動”をすでに何度も受けた者の喉。
「君のような“完成品”は、我々にとって実に……羨ましい」
「その言葉が出た時点で、お前たちは終わっている」
エレボスの声は冷たく、低く響いた。反応を待つことなく、彼の身体が影のように跳ねた。
一瞬で距離が詰まり、拳が空気を裂く。爆ぜるような音と共に、フードの一人が吹き飛び、壁に叩きつけられた。骨が砕け、呻き声をあげる間もなく意識を失う。
魔術師たちは即座に詠唱を始めた。だが、エレボスにとってそれは遅すぎた。彼は既に、魔術を“撃つ”者ではなく、“宿す”者。肌の下に直接魔力を流し込み、筋肉を魔法の理で強化する。言葉など不要。ただ動くだけで、それが破壊の呪文になる。
二人目の魔術師が火球を放った。エレボスはそれを肩で受け流す。魔力を練り込んだ肌が火を弾き、そのまま逆腕で顎を砕く。三人目が結界を張ろうとするが、すでに背後に立っていたエレボスの肘が脊椎を折った。
「貴様らのやっていることに“探求”の価値はない。あるのは欲望と、腐敗だけだ」
血と炎が舞い、悲鳴と呪詛が飛び交う中、彼は一人、ただ黙々と殲滅を続けた。
十を数える間もなく、その場に立っていた者はすべて沈黙した。最後の男は、目を見開いたまま喉を潰され、言葉すら残せなかった。
儀式は破壊された。少女はすぐさま保護された。まだ生きていたが、完全な意識回復には時間が必要だ。エレボスは彼女を優しく抱きかかえ、静かに、しかし確かな足取りで地下の奥から戻っていく。
だが、戦いの後に残った残響は、彼の中で消えていなかった。
この集団は“核”ではない。もっと奥がある。もっと深い、より邪悪な源泉がある。
すべての始まり──地下のさらに先。何かが、眠っている。
少女を地上へ託したエレボスは、再び一人で暗き地の底へ戻った。
崩れかけた魔法陣が残る部屋には、もはや熱も、音も、魂の匂いすらなかった。ただ、魔力の残滓が空気にしがみつくように漂い、そこに“何か”が触れている気配があった。
エレボスは壁のひとつに視線を移す。肉眼ではただの石に見えるその場所に、ごく僅かに魔力の流れが集まっていた。
彼は指先に魔力を宿し、壁面に触れる。指の形に合わせて魔力が反応し、扉が音もなく開いた。
先に続いていたのは、空気そのものが変質したような、異様に静かな通路だった。岩の表面は脈動し、まるで生き物の体内にいるかのような圧迫感がある。無音でありながら、地下の鼓動が背骨を這うように伝わってくる。
その通路の奥に、広大な空間が広がっていた。
広間の中央には黒石で組まれた巨大な祭壇があり、その周囲には十数人の影が取り囲んでいた。人の姿に近い者もいれば、明らかに魔物と融合したような異形の者もいた。彼らの肉体は歪み、皮膚の下には魔力の血管が脈動している。
異形たちの中心には、ただ一人、沈黙の中で立つ男がいた。
白髪の老人。体の半分が石と化し、左腕は魔術的な構成体に置き換わっていた。だがその瞳は若者のように爛々と輝いている。
「来たか、王の影。名は……エレボス」
男の声が空間を揺らした。彼の言葉には確かな“認識の魔”が込められている。だが、エレボスの仮面はそれを無効化する特級防魔結界を備えていた。
「お前たちの目的は、地上の混乱ではないな。これはもっと深い、“根”に触れる何かだ」
「理解が早い。だが遅すぎた。我らは既に“祭壇”を目覚めさせた。お前が踏み入れた瞬間から、ここは胎動を始めている」
返答の終わりを待つまでもなく、エレボスは前へ踏み出した。
その巨体が疾風のごとく動く。魔力を宿した筋肉が爆ぜ、床にひびが走る。
拳に宿すは、《鉄甲》。魔力を一点に集中させ、破壊に特化した肉体術である。
最初に飛び出した異形の一体を、彼は真正面から叩き潰した。
骨と金属が混じったようなその身体が爆裂し、破片が周囲に飛び散る。すぐに別の個体が魔術を放った。浮遊しながら構築された幾重もの陣が空間を歪め、重力魔法と火炎の複合が放たれる。
エレボスは跳躍した。
落下の瞬間、地を蹴り、《迅雷》を発動。視認すら困難な速度で敵陣を駆け抜ける。拳が、肘が、膝が次々と敵を打ち砕いた。
肉体強化に特化した戦闘魔術。彼の戦いはまさに“嵐”だった。
次第に広間の空間が震え始める。魔力の逆流。術者たちが力を解放するのではなく、**何かが彼らを通して浮かび上がろうとしていた。**
黒石の祭壇が光を放ち始めた。男が静かに片腕を上げると、彼の身体は黒い魔力に包まれ、すでに人の形を失いかけていた。皮膚の下から黒い神経のようなものが伸び、空間と繋がっている。
「我らは“式典”を完成させる器……我が魂をもって、魔の意志を呼び戻す!」
彼の体が黒石の核に吸い込まれた。
祭壇が共鳴し、地下空間が崩れ始める。瓦礫が落ち、重力が乱れる。だが、ただ一つ変わらぬものがあった。
エレボスの姿。
彼は瓦礫を避けることなく、拳を握りしめながら、祭壇の中心へと歩を進める。
そこから生まれたのは、人でも魔でもない、意志の塊だった。
“魔術そのもの”が自我を持った存在──時代の彼方で封印された“旧時代の意志”。それは言語ではなく概念で語りかけ、すべてを“無”に帰そうとした。
仮面の下、エレボスの目に冷たい光が宿った。静かに、だが確かに、その光は地下へと燃え落ちていく。
魔力が全身に集まり始める。肌が光を放ち、筋肉が収束する。
全身に編み込んだ“魔防”が最大出力で展開される。
「存在そのものを否定する魔か。ならば、存在そのものを以て殴り砕くだけだ」
拳に込められた魔術は、破壊でも殺傷でもない。**封印されたものを打ち破るための拳**。
それが、《絶式・滅封崩拳》。古き時代に王家が秘蔵した、存在消滅特化の極限技法。
拳が魔そのものへと触れた瞬間、地下空間が跳ね上がった。
音が消え、空間がひび割れ、崩壊と再構築が同時に起きた。
光が消えた後、そこに残っていたのはただ一人。
瓦礫の上に立つエレボスは、しばし無言で残骸を見つめた。
黒石は砕け、祭壇は形を失い、そこに宿っていた存在は完全に霧散していた。
彼はゆっくりと仮面を外しかけたが、すぐに再び戻した。
まだ夜は終わっていなかった。
地下に続く道はひとつではない。今の出来事すら、地底に眠る何かの“目覚め”の一部でしかない──そう確信していた。
エレボスは背を向けると、瓦礫を踏みしめて地上へ歩き出した。
夜の静けさが、再び彼の背中を包んでいく。
地上に戻ったエレボスの足元には、わずかに乾いた血の匂いが残っていた。先程の少女が辿っていた廃墟の通路では、夜の風が音を連れて吹き込んでいる。月明かりは低く、街灯の届かぬその一角だけが、時間の外に取り残されたような静けさに包まれていた。
空はようやく東の端に淡い色を孕み始めていたが、夜はまだ生きていた。
エレボスの中でも、なお醒めぬ感覚が脈打っていた。
地下での激闘を経たにもかかわらず、彼の身体には大きな傷も疲弊も見られなかった。だがそれは、単に戦闘に勝ったからではない。あの祭壇に宿っていたのは、力として明確に敵対するものではなかった──それは、言葉を持たぬ“意志”であり、警告でもあった。
彼は瓦礫の間に落ちていた、小さな欠片を拾い上げる。黒石のかけら。その表面には、肉眼では見えぬ魔紋が密やかに刻まれていた。燃え尽きてなお、残り香のように魔術の核を宿している。
「これは……地上の構造とは別系統の魔術言語か」
エレボスの声が、仮面の内側で微かに響いた。
地上で記録されたどの魔術体系にも一致しない。だがどこか、遠い記憶の底で触れたことのある感覚だった。古い、極めて古い魔術の気配。それはかつて、“王の血”の系譜において一度だけ閲覧を許された、失われた時代の“断片”に似ていた。
あの男たちは、それを意図的に目覚めさせようとしていたのか。
だが目的は何だ? 力の奪取か、世界の転覆か、それとも──
「……対話か?」
その考えが脳裏をかすめた瞬間、背後の空気がわずかに乱れた。
エレボスは動かず、気配を感じ取った。追ってきた気配ではない。だがこちらを知っている。見ている。
「夜の狩人が地下から戻るとは、珍しい」
音もなく現れたのは、上等な服をまとった中年の男だった。左目には金属製の義眼が嵌め込まれ、その瞳はまっすぐエレボスを捉えている。彼の名はヴァルス。都市の地下治安を統括する“特秘諜報局”の長官だ。
「この件に、王家の仮面が動くとはね。……今、何を見た?」
「何も。まだ形を成していない。だが、地の下で何かが蠢いているのは確かだ」
「それは例の“狂人”とは別件か?」
エレボスは応えず、代わりに黒石の欠片を差し出した。ヴァルスはそれを手に取ると、眉をわずかに動かした。
「……我々の技術では、これは解析できん。だが“旧記録”にあった類似文様の断片を思い出す。四〇〇年前の“閉鎖遺構”で回収された遺物と、酷似している」
「それは今、どこに?」
「王都の北、アスタラン山脈の中腹に封じられたままだ。過去、二度と開かぬよう封印されたと聞いている。だが……」
「……奴らは、そこを目指しているのかもしれない」
静かに、風が通り抜けた。ふたりの沈黙の間にも、夜は少しずつ輪郭を薄くしていく。エレボスは背後の廃墟を一瞥した後、低く言った。
「奴らは、地上を焼くつもりはない。地上の“理”そのものを、塗り替えようとしている」
「狂信者の域を超えているな」
「いいや──違う。あれは“儀式”ではない。“調律”だ」
エレボスの言葉に、ヴァルスの表情が一瞬凍った。
「魔術構造そのものの調律? 狂っている……!」
「だが可能だ。わずかでも術式の根幹に介入できれば、世界の法則は変わる。それはもはや破壊でも創造でもなく、“再定義”だ」
ふたりの間に、これまでにない沈黙が流れた。
遠く、夜明けの鐘が街に鳴り響き始めた。
その音に合わせるように、エレボスはゆっくりと背を向けた。
「動く。地上が異常に気づく前に、地の底を潰す。奴らの言葉が意味を持つ前に、沈黙を戻す」
「だが、次はお前一人では行かせん。情報局の精鋭を派遣する。彼らも“仮面”と共に歩む覚悟はある」
「……任せる。ただし、地に足を着けていられる者だけにしてくれ。今度は、魔術の名を持たぬ“意志”が相手になる」
そう言い残し、エレボスは再び闇へと姿を消した。
夜明けは近づいていた。だが、その光の先に広がるのは、新たな“影”だった。