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第5話


穏やかな陽光が石畳を斜めに照らし、冬の澄んだ空気が、街全体に静かな冷たさをもたらしていた。デヴォン公は、街の中央広場に続く緩やかな坂道をゆっくりと歩いていた。周囲には、日差しを浴びて光るガラス窓、揺れる洗濯物、通りを彩る小さな花々――日常の断片が、何事もなく存在していた。だが彼の目には、それらすべてが仮初めの平穏に見えた。


「昨日まで存在していたものが、ある日、何の前触れもなく消えてしまう。人も、建物も、記録さえも――それが、この街の“闇”だ」


口には出さず、デヴォン公は心の内でそう呟いた。脱獄した殺人鬼――あの異形の男の痕跡は、夜の街に深く刻まれている。だが、昼の顔を持つこの都市では、まだ誰もその闇を知らずに済んでいる。


広場に着くと、彼は石造りのベンチに腰を下ろした。広場では、子どもたちが凧を追いかけて遊び、吟遊詩人が軽やかな旋律を奏で、焼き菓子の屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。そこに集う誰もが、彼を「公爵」として尊敬の目で見ていた。威厳ある態度と、整った身なり――それが、昼のデヴォン公だった。


「おや、デヴォン公。こんなところでお一人とは珍しいですね」


声をかけてきたのは、街の図書館で働く初老の書記官だった。彼は、丁寧に帽子を取って一礼する。


「ああ、少しばかり気分転換をね。人々の生活を眺めるのも、悪くない」


デヴォン公は、穏やかな笑みを浮かべた。だがその目は、広場を横切る人々の足取りや、物陰に潜む空気の流れ、ふとした表情の変化に至るまで、全てを記憶していた。


彼はいつも通りを装いながら、街の中心を観察していた。最近増えているという“奇妙な自殺”――それが、実際にどのような状況で発生しているのか、目撃者は誰もおらず、ただ結果としての“死”だけが報告されている。あの黒い羽根の存在と、被害者たちの異様な表情。何かが、この街の表層をすり抜けて、静かに蝕んでいる。


「デヴォン公、お気に召されるかと。今朝焼きたてのものです」


若い菓子屋の娘が、丁寧に焼かれたタルトレットの包みを差し出してきた。彼はそれを受け取り、軽く礼を言った。


「ありがとう。君の作る菓子は、いつも香りが素晴らしい」


小さなやりとりの中にも、彼は見逃さなかった。娘の目の下には、薄く疲労の影が宿り、微かに震える指先が、不安の余韻を語っていた。


「……最近、よく眠れていないのでは?」


「……はい。夜中に、変な夢を見るんです。誰かに見られているような、冷たい場所で、叫んでも声が出ない夢。……でも、大丈夫です。きっと、疲れてるだけですから」


娘は、無理に笑って見せた。デヴォン公は頷きながらも、その言葉の裏にある“何か”を見逃さなかった。


午後になり、デヴォン公は記録保管所へと向かった。午前中にも訪れていたが、改めて精査したい情報があったのだ。保管所の一角には、都市の医療記録が年代別に収められている。彼はそこから、かつて閉鎖された精神病院の入退院記録を確認し始めた。どのような患者が収容され、どのように“処理”されていったのか。


その中に、一件だけ、異様な記録があった。名前が記されておらず、ただ「被験体477」とだけ記された患者の記録。年齢不詳、性別不詳、収容理由は「極度の異常言動と身体的柔軟性」。治療経過は一切記されておらず、突然、記録が中断されていた。


「……この記録、何かが抹消されているな」


ページの端には、無理やり剥がされた跡。記録番号と年月だけが残され、内容が丸ごと欠落していた。だが、その記録番号――477――どこかで見たような気がする。彼は手帳を取り出し、過去の取り調べ記録のメモを見返した。あの殺人鬼の所持品リストの中に、小さな銀のプレートがあった。それには、確かに「477」と刻まれていた。


日が傾き始め、建物の影が長く伸びていた。空気は少しずつ冷たさを増し、人々の表情も徐々に家路を急ぐ色へと変わっていく。デヴォン公は、保管所を後にしながら、心の奥に静かに広がっていく感覚を抱いていた。それは、疑念というには漠然としすぎていたが、確信というには鋭すぎる“直感”だった。


「この街の底には、まだ何かが隠されている。そして、あの男……いや、“477”は、それを知っている」


彼は外套の襟を立て、街の影の中へと足を進めた。昼の仮面を被ったこの都市にも、じわじわと夜の気配が浸食しつつあった。だがまだ、日は沈まない。今はまだ、デヴォン公として在る時間。真の闇は、これから始まる。


そしてその闇の向こうには、エレボス――追跡者としての彼が、再び現れるだろう。だがそれまでは、静かなる観察と、沈黙の中の捜査が続く。


平穏に見える昼の街は、確かに息づいていた。けれどそのすぐ下で、何かが音もなく目を覚まそうとしていることを、デヴォン公は誰よりも深く知っていた。



夜は深く、街の喧騒が静寂へと溶けゆく時刻。光を失った裏路地はまるで巨大な口腔のように、すべての音を呑み込んでいた。だが、エレボスはその沈黙の内側に潜む微かな“歪み”を見逃さなかった。


仮面の下で眼差しを細め、彼は瓦礫に囲まれた古い倉庫街の一角へと足を向ける。そこは数年前に閉鎖されたまま放置され、今や都市の影が集まる“溜まり場”となっていた。夜風に混じって、血と鉄の匂いがほのかに漂ってくる。


エレボスが建物の隙間に身を滑り込ませた、その直後だった。


爆ぜるような魔力の衝撃と共に、倉庫の壁が内側から吹き飛んだ。破片が宙を舞い、無数の鋭利な金属片が闇を切り裂く。咄嗟にエレボスは手をかざす。右腕に魔力を集中させ、肌の下に鋼鉄のような魔導筋肉を走らせると、その腕で飛来物を弾き返した。


「また別の“虫”か……いや、これは──」


粉塵の中から現れたのは、全身を魔符で刻み込んだ巨漢の男。眼は血走り、口元には意味のない笑み。背中には異様なほど膨張した魔力の瘴気が渦巻き、常人なら一瞬で気を失うであろう圧迫感を周囲に放っている。


「“喰魔”の名で手配されていた奴か……地下の情報は正しかったな」


応じる声もなく、巨漢は咆哮と共に突進してきた。足元の地面が砕ける。だが、エレボスは既に動いていた。仮面の奥の瞳が一閃、地を蹴ると同時に彼の身体は風のように揺らめき、巨漢の拳をわずか数センチの差で回避。


そして反撃。両脚に魔力を纏わせたエレボスは、空中で一瞬身体を回転させながら、強烈な踵落としを巨漢の肩へと叩き込んだ。金属を叩くような音と共に、肩の骨がきしむ。


だが“喰魔”は怯まない。むしろ興奮したように叫び、今度は全身に黒紫の魔法陣を浮かび上がらせた。


「喰ってやる……お前の肉も、魔力もッ!」


エレボスは魔法の構えを取る。右肩から腕へ、そして拳へと魔力を流し込むと、その表面がまるで黒曜石のように硬化し、歪んだ光を反射し始めた。


「この拳は、魔力を纏うだけではない。喰らえば、骨の芯まで砕けるぞ」


激突。拳と拳がぶつかり合い、夜の街に爆発音のような衝撃が響いた。周囲の壁がひび割れ、地面が軋む。巨漢は吹き飛び、背中から石壁に激突して数メートル引きずられながら沈黙する。だが、直後に呻きながら立ち上がった。


「まだ……喰い足りねえんだよ!」


口元から紫色の液体を垂らしながら、“喰魔”は再び魔力を暴走させる。その身体が不自然に膨れ、皮膚が裂けるような音と共に、まるで内部から別の何かが現れようとしていた。


「……悪魔化か。だが、遅い」


エレボスの足元が闇に溶けたかと思えば、次の瞬間には“喰魔”の眼前にいた。仮面の奥からほとばしる魔力が、圧倒的な速さとともに彼の肉体を駆け巡る。両拳に宿した魔法は、もはや魔力というより“意思”だった。


「──崩砕《ルーク=クラッシュ》」


渾身の打撃が、“喰魔”の胸部に叩き込まれる。硬化した魔導筋肉を貫き、その奥の核にまで至る衝撃。周囲の空気が震え、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。


“喰魔”は最後に一声もあげず、崩れるように地に倒れ伏した。静寂が戻る。倉庫街の片隅で、ただ風が魔法の残滓を揺らすだけだった。


エレボスは仮面の奥で息を整えながら、男の変異した身体を見下ろす。その肉体は既に人の域を超え、何か“作り変えられた”ようだった。


「これほどの力を持ちながら、操られていたか……まるで、人形のように」


夜の闇が再び静かに彼を包み込む。だが、エレボスの中には警鐘が鳴っていた。これは、追っている“狂人”とは別の存在──だが確かに同じ“地下”に通じる悪意だ。


「地の底で、何が蠢いている……?」


吐き捨てるように呟いたその声は、周囲に誰がいようと届くことはない。仮面の奥の目が、瓦礫と血の匂いに満ちた空間を無言で見渡していた。異常者の残した瘴気はまだ薄く漂い、地面に横たわる死体はただの“事件の終わり”を告げるものではなかった。むしろ、それは何かの“始まり”──あるいは、すでに始まっていた流れの中の、ほんの一断片に過ぎない。


エレボスは膝を折り、床に残された符の痕跡を指先でなぞる。それは、既知の魔術体系に属さない異端の構成だった。命を削って力を引き出す禁忌の円。そこに刻まれた文様の一部が、以前遭遇した別の現場で見たものと酷似していることに、彼はすぐ気づいた。


──すべてが一本の線で繋がっている。


そう確信した瞬間、彼の中で何かが音を立てて切り替わった。戦いは終わってなどいない。これはただの余波、表層に吹き出した泡の一つにすぎない。真に解決すべきは、その泡を押し上げてくる“地の底”──すなわち、まだ人の目に触れぬ場所に潜む根源だった。


「……地下だ。すべての始まりは、そこにある」


重く低く、仮面の奥で呟いたその言葉には、決意の色が滲んでいた。彼が追っている“狂人”──街で蠢く連続失踪事件の首謀者とは違うにせよ、この“喰魔”のような変異体が動いているという事実は、裏で別の組織、あるいは力が動いている証左にほかならない。


エレボスは立ち上がる。夜風がコートの裾を揺らし、瓦礫の隙間から地下へと続く暗い裂け目が、その足元にぽっかりと口を開けていた。人の視界から外れたその隙間は、まるで彼を待っていたかのように、底知れぬ深さをたたえていた。


地上に残すべき痕跡は何もない。足音を殺し、仮面を直し、エレボスはその暗闇へと歩を進める。


その歩みは重くも迷いはなかった。闇に慣れた身体は、目を使わずとも道を選ぶ。己の筋肉に魔力を宿し、空気の震えと足元の傾斜だけで、地下構造の変化を感じ取っていく。


──これは地下へと潜る戦いだ。ただの追跡ではない。


かつて人が恐れをもって地を避けたように、今、この都市の地中にもまた、名のつかぬ存在たちが息を潜めている。今夜、彼はそこへ踏み込む。名を偽り、顔を隠し、ただの人ではなく“エレボス”として。


何かが目を覚ましつつある。ならば、それが完全に起ききる前に──殲滅しなければならない。


仮面の下、エレボスの目に冷たい光が宿った。静かに、だが確かに、その光は地下へと燃え落ちてゆく。



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