第39話
闇の奥底で、再び爆ぜるような音が鳴った。仮面の騎士──エレボスの拳が地を裂き、異形の一体が悲鳴すら上げる間もなく吹き飛ばされた。筋肉の線に沿って奔る魔力は、彼の動きを加速させ、敵の攻撃の軌道すら追いつけない。
だが敵は数で勝っていた。異形の兵と教団の術者たちは連携し、複雑な魔術陣を交互に発動させる。空気が歪み、熱と冷気が混在するような異常な圧が地下空間を包み込む。
「“混沌”を与えよ、“秩序”を否定せよ……!」
狂った祈りにも似た詠唱がこだまし、空間にねじれた符号が散る。術者の一人が地に手を突き立てた瞬間、そこから無数の骨の槍が生え、エレボスを包囲するように突き上がった。
だが、その瞬間には既に彼の姿はそこになかった。
筋力強化の魔力を宿した跳躍で天井近くまで跳び上がり、逆に真下に向けて力を叩きつける。拳から解き放たれた魔力が衝撃波となって地面を砕き、槍の群れごと術者を吹き飛ばす。
「動きが“型”に嵌まっている……狂信の限界か」
彼の目は既に次の標的を捉えていた。中央の術者──あれが指揮を執っている。
瞬時に距離を詰めようと駆け出す。
だが、その時。
彼の前に立ち塞がるように、空間が裂けた。異形とは異なる“何か”が現れたのだ。
それは人間の“形”をしていた。痩せ細り、白布に包まれ、顔を覆う仮面には血のような朱が染められている。ただ、その“瞳”だけが露出していた。
黒。完全な黒。光すら弾くような、深淵そのもののような眼差し。
「……君か、“エレボス”」
聞き覚えのない声だった。だが、その一言に込められた“確信”は、まるで長年の知己のような気配を持っていた。
「貴様……何者だ」
「我らの“上”に位置する者に興味はあるか?」
エレボスは目を細めた。
「“我ら”? 貴様もこの教団の一員か」
「一員? いや……“始まり”だ」
仮面の男が指を鳴らす。次の瞬間、地下空間全体がわずかに震え、残っていた術者たちが一斉に呻き声を上げた。彼らの身体が膨れ、魔力の制御を失ったかのように内部から燃え上がる。
──“生贄”。
術者たちが何かの鍵だった。あるいは、封印か召喚の媒介。
「まだ“その時”ではない。だが、君には確かに“資格”がある。そうだろう、仮面の騎士──“夜に目を開く者”よ」
エレボスは即座に間合いを詰め、拳を振り抜いた。
だが、その拳が掠める寸前、仮面の男は消えていた。魔力の残滓すら残さず、空間ごと存在が“抜け落ちた”かのように。
敵の“本命”は、別に居る。そう確信せざるを得なかった。
残されたのは、破壊された地下の残骸と、まだ微かに残る魔力の残滓──そして、崩れた仮面のひと欠けら。
エレボスはそれを拾い上げ、静かに見つめた。
『始まり』と名乗った者が語った“上の存在”。
そしてその背後には、まだ触れていない、更なる“層”の陰謀がある。
王都はまだ、すべてを晒してなどいない。
「……この夜は、まだ終わっていない」
仮面の奥の目が、再び深く細められた。
そして静かに、地上への帰路を踏み出す。
闇を照らすは灯火ではなく、己の内に燃える覚悟。
それは決して明るくはない。けれど、踏み込んだ者だけが持てる、冷たい熱だ。
エレボスの足音が、崩れた地下道に静かに反響する。壁を這う血の筋、剥がれた魔術刻印、焼け焦げた床──すべてが、今夜の戦いの名残だ。
彼の拳には、まだ余熱が残っていた。だが、それを振り払うように手を開き、静かに仮面を撫でる。
その瞳が見据えるのは、目の前の瓦礫ではない。
王都の、さらに深くに根を張る“何か”だ。
地上に戻ると、夜はまだ続いていた。
だが不思議と空気が澄んでいた。
見上げた空は雲に覆われ、星の光さえ見えないというのに──風は静かで、遠くに犬の吠える声が微かに聞こえる。
「“奴ら”が姿を見せ始めた……か」
それが、終わりの兆しか、始まりの合図か。
今はまだ分からない。
だがエレボスの中には、確信に近い直感があった。
あの“仮面の男”が言った言葉──『上』に位置する者。
そして、『始まり』を自称した存在の余韻。
一つの集団を駆逐しても、それは“網の目”の一端に過ぎなかった。
真の敵は、さらに高く、そして深く──。
その時、耳がかすかな音を拾った。
金属が石を擦るような音。
即座に振り返り、魔力を拳に宿す。
だがそこにいたのは、ヴァルスだった。
漆黒の外套をまとい、仮面をつけた彼の姿は、まるで夜そのものに紛れていた。
「……後始末に来たのか」
「地下の崩落で、近隣住民がざわついてる。上は“老朽化した地下倉庫の崩落”で通すらしい」
「それで済むなら楽だな」
二人はしばし黙り込む。風が吹き抜け、瓦礫の隙間に溜まった埃を舞い上げた。
ヴァルスが静かに言う。
「“仮面の男”の件……王都の記録には該当者がいない。教団の末端の連中すら、その存在を知らなかったようだ」
「……だろうな。“彼ら”の中心は、もっと違う場所にいる」
エレボスの視線が、遠くを見据える。王都の灯りの、さらに向こう──夜が一際濃くなる方角。
「“狂信”が道具になるほどに、組織は“理”を超えて動いている。個人の思想で完結する範疇じゃない」
「つまり……」
「この街はまだ、“外殻”を剥いだに過ぎないということだ」
ヴァルスはため息をついた。
仮面の下の顔は見えない。だが、その気配には、確かに重さがあった。
「お前は……どこまで潜る気だ」
エレボスは少しだけ、口元を歪めた。
「“底”があるなら、そこまでだ。無いなら、裂けるまで進むだけだ」
それが、仮面をつけた“夜の騎士”の責務。
あるいは──贖罪。
ヴァルスが一歩引いた。
「なら、せめて……忘れるな。“お前”を知ってる者は、この王都で俺一人だけだ」
「忘れたことはない。だから、仮面をつけている」
「“デヴォン公”の仮面ではなく、“エレボス”の仮面を、か」
応えることなく、エレボスはゆっくりと背を向けた。
闇の中に、その影が沈む。
石畳を踏む足音さえ、夜気に呑まれていく。だがその歩みには迷いがなかった。仮面の奥、冷えた視線は王都の輪郭を越えて、さらに奥深くに潜む“真実”を見据えていた。
幾つもの事件が表層から崩れ落ち、今や王都は仄暗い不安に包まれている。
だが、人々は知らない。灯りの届かぬところで、いくつもの犠牲が、そしていくつもの意志が交錯していることを。
エレボスは目を細めながら、空を見上げた。
夜はすでに深く、雲が月を隠していた。だが彼の中には、明確な『兆し』があった。
あの“仮面の男”──信仰を騙り、教団を動かし、何か“新しい段階”へと移行しようとしていたあの存在。
“あれ”は、単なる妄信者ではない。
あの夜の断片的な対話、言葉の節々から滲み出た冷徹な意志。
それはまるで『誰か』の計画に従って動いているかのようだった。
操られているのか、それとも……自ら名乗り出て動いているのか。
だが、どちらにせよ──その“裏”には、まだ誰かがいる。
『アーテー』という名に集う者たちの異常な熱。
それは、まるで神話の一節を模倣してでも“この世に狂気を再現する”ことを目的としているかのようだった。
そして、エレボスはそれをただの偶然とは思っていない。
「“名を与える”者がいる……それも、“意図”を持って」
低く呟いた声が、街の静寂に紛れて消える。
瓦礫を避けながら足を進める先に、また新たな路地が口を開いていた。
崩れかけたアーチ門、その奥には、以前とは違う空気の“淀み”がある。
エレボスは身を低くして、慎重に足音を消しながら進入した。
まるで“罠”を察知した獣のような動きだった。
そして、そこにあったのは──奇妙な“魔法障壁”の痕跡だった。
目には見えない。だが、触れればわかる微細な魔力の残滓。
壁に手を当てる。ごくわずかに、皮膚に熱が走った。
「……転移痕」
魔術により、空間そのものが一瞬だけ繋がれた跡。
それは、王都の中に『点』を結ぶ者の存在を示している。
もはや集団ではない。『一人の意思』が、王都に刻印を打っている。
そして、目の前の空間には、ただの転移ではない『特殊な詠唱式』が施されていた。
触れた者の記憶を“裏返す”魔術。
「痕跡の抹消、ではなく……“再構築”」
エレボスは眉をひそめた。
魔術師ならば、この詠唱痕が示す異常さに気づく。
だがそれ以上に、この魔術は“人間の記憶そのもの”を侵す危険な術式。
しかも、この痕跡は“昨日”のものだ。
その時だった。
背後、空気の“圧”が変わった。
エレボスは一瞬で姿勢を落とし、右の拳に魔力を集中させる。
赤黒い魔紋が皮膚に浮かび、肉体が魔力に応じて微かに硬化していく。
一拍。
その空間に、気配だけを残して“何か”が通り抜けた。
すぐに跳躍──
エレボスの拳が、無音のまま宙を裂いた。
着弾の手応えはなかった。だが、風を裂いた瞬間、何かが煙のように軌跡を残して消えた。
「……幻影か?」
否。
彼の目はすぐに察知した。これはただの幻影ではない。
“誰か”が自らの存在を“偽装”する魔術だ。
その魔力の波長には、かつて“地下礼拝堂”で対峙した教団の主犯と似た“気配”があった。
だが、それはさらに“洗練”されている。
「進化、している……か」
敵は確実に、“次の段階”に入っている。
それは、より組織的に、より深く王都を侵食してゆく計画。
あるいは、“王都全体”を実験場とするための準備。
エレボスは一度、仮面を押さえた。
その視線の奥には、焦燥ではなく、確かな戦慄と戦意が燃えていた。
この王都は、まだ終わっていない。
エレボスは仮面の奥で静かに息を吐いた。
冷たい空気が肺を満たし、次の一手を見据えるように思考が研ぎ澄まされていく。
目の前の路地にはもう、気配はなかった。だが、それは消えたのではない。
移動した──それも、王都の“別のどこか”へ。
「“奴ら”は、この都市のどこにでも潜む……ならば、こちらも地の底まで潜るまでだ」
壁に残された魔力の波形を手のひらでなぞる。
残滓は薄れかけていたが、魔力に敏感な者ならば“印”の所在を追える。
そしてそれは、エレボスにとっても十分に“足跡”と呼べるものだった。
歩き出す。音を殺した長い脚が、石畳を滑るように進んでいく。
今向かうのは、東端にある廃工房街──かつて錬金術師たちが住み着いていた一帯。
十数年前に突然すべての工房が閉鎖され、今は行政の管理すら届かぬ場所。
そしてそこに、今回の痕跡の一部が繋がっていた。
王都の地図には記されていない“地下経路”を辿り、エレボスはじわじわと東へ向かっていった。
途中、崩れた階段の下に倒れていた老人を介抱した。
酔って道に迷い、暗がりで足を滑らせたという。
エレボスは無言で手を貸し、肩を貸して階段を登らせた。
老人は礼を言いながら、彼の仮面に怯えることもなく、むしろ安堵の色すら浮かべた。
「アンタ、前にも助けてくれた男だろう……闇ん中に立ってるとこ、見たことある」
そう呟かれたとき、エレボスは小さく目を細めただけだった。
その名を語ることも、正体を明かすこともなく、ただ静かに老人の背を見送った。
その後、再び王都の東部へと足を運んだとき──空気が変わった。
風が流れていない。音が消えている。
まるで“存在”そのものが遮断されているかのような一帯。
そして、あった。
黒ずんだ鉄格子の奥に、見慣れぬ“印”が浮かんでいた。
円環と歪んだ三角形を組み合わせたその魔紋は、明らかに“祈り”と“呪詛”を同時に内包する性質を持っていた。
それはまさしく、教団がかつて使っていた術式の変異型。
進化というよりも──『適応』していた。
魔力を込め、印に手をかざす。
瞬間、格子の奥の空間が歪んだ。
“空間ごと、削り取られていた”のだ。
エレボスは魔力を拳に宿し、強引に虚空を割った。
浮かび上がったのは、廃工房の地下へと続く細い階段。
そして、鼻腔を刺激する異様な香──薬草ではない。血と灰と……獣の臭い。
一段、また一段と降りるごとに、視界が濁っていく。
照明もなく、ただ仄かな魔力の光が周囲の輪郭を照らしていた。
そこにあったのは、壊れかけた“実験装置”。
薬瓶、拘束具、肉体の一部と思しき乾いた塊……
それらはすべて、“人間”から“別のもの”へと変質させるための“道具”だった。
「……転化の痕跡」
エレボスの声は低く、冷たい。
この工房はすでに放棄されて久しい。だが、つい数日前まで“誰か”がここを利用していた形跡がある。
問題は、それが“どこへ移ったのか”──そして、“なぜ逃げる必要があったのか”。
何かを恐れている。
いや、何かを“避けようとしている”。
その瞬間、地下の奥から微かに聞こえた足音に、エレボスは身を翻した。
ただの鼠ではない──人間の足音。
しかし、逃げようとしていない。隠れている。こちらを窺っている。
壁に指先を走らせ、気配を辿る。
数秒の静寂ののち、そこにあったのは小さな“隠し扉”だった。
だが、すでに中は空だった。
逃げられた。
だが、十分だった。
残された匂い、温度、魔力の余波──
それらすべてが“同じ存在”へと繋がっていた。
エレボスは階段を戻りながら、仮面をそっと撫でた。
「……手が届き始めたな」
そして、その夜の闇の中へと、再び消えていった。
この王都の深層に棲む“真の敵”を見極めるために。




