米津玄師について
最近はテレビの影響力も薄れてきて、フジテレビが色々あってサザエさんもちびまる子も終わるかも知れないと言う事で、日本人がほとんどが知っている共通項というのがなくなりつつあるように感じます。日本に根付いた普遍的な観念というのが無くなりつつある、と言い換えてもいいかもしれません。youtubeがテレビに変わって台頭してきてはいますが、youtubeは裾野が広すぎるので、休日に家でyoutubeばかり見ている人同士が話しても噛み合うとは限りません。
そんな中、米津玄師が老若男女から高く支持されているのは面白い現象だと思います。それも一過性のブームではなくロングヒットし続けています。米津玄師の曲はポップながらもどこか不安定な出だしが多い一方で、サビは歌謡曲のように清々しいほどキャッチーに跳躍していきます。それでいてベタな感じでもなく飽きが来ません。歌謡曲を意識して作られているようですが、歌謡曲のアクを徹底的に抜いて再構成していいとこ取りしてあるので「まあこれは売れるだろうな」という感じです。もちろん売れる物が必ずしも良いとは限りませんし、売れていなくても良いものもあるでしょうが、ここまで息が長く大衆に受け入れられているという事は米津玄師は「日本人に普遍的な何か持っている」と考えていいのではないでしょうか。少なくとも私はそう直感していますし、海外でも評価されている事を考えると「人類に普遍的な何かを持っている」といってしまっても過言ではないかも知れません。
中でも米津玄師の才能を感じるのは、アニメやドラマへの主題歌を聴いた時です。私はウルトラマンもヒロアカもそんなに見ている訳ではないですが、米津玄師の主題歌を聞いた時「ああ、そういう事だったのか」と腑に落ちる感覚がありました。特に舌を巻いたのは『チェンソーマン』の主題歌を聴いた時で、「なんでそんなに分かってんだよ!」と叫びたくなりました。もう理解が深いとかそういう次元も超えているのかもしれません。作品の根底に流れる本質を浮き彫りにし、作品そのものすらも高めているような、とにかく凄まじい主題歌であります。
普通のアーティストが主題歌を作る時、主題を見てそのエッセンスを使って主題歌を作っていくのが普通なのでしょうが、米津玄師の場合は表面的なエッセンスをつまむだけにとどまらず、主題によって震えた自分の心を見つめているように感じます。自分が作品を通じてどう感動し、どのような像を想起したか。米津玄師自身は滅私奉公するかの如く一個の音叉となって、深い感受性をもって共振していく。そしてその響きを客観に立つ米津玄師が編曲し、一つの曲になっていく。出来上がった曲は全く新しく独創的ながら、受け手に届くイメージは主題の根本そのものの結晶体で、主題歌は主題を立てつつもある意味主題以上に飛躍していきます。
主題歌以外も同様で、受け手に与える効果や世間の一過性の流行ではなく、自分の心の響きを一番大切にしているのかなという感じです。米津玄師はかつてハチ名義でネットに自作曲を投稿していた時「自身が影響されたものが色濃く反映されすぎている」として多くの楽曲を削除したという事があったそうです。この事からも米津玄師は直接的な影響を排し、自分の心の響きを大切にしている事が分かります。
流行に乗らない、表面的に影響されないというのは自信の表れでもあるでしょうが、同時に孤独ともいえるでしょう。インタビューをいくつか読んでも、どうも米津玄師は孤独な人なのかなという印象を受けます。私は米津玄師と同世代で、多感な時期にネット黎明期を過ごしたので分かる気がするのですが、1990年生まれあたりの世代はネットでの繋がりの楽しさ、万能感、可能性、希望とネットの限界と孤独を同時に味わった世代なのかなと思っています。持ち上げられて落とされるような感覚です。ネットがあれば世界の誰にでも発信でき、世界の誰とでもわかりあえると思ってワクワクしていたら、結局ネットの繋がりなんてのはどこまでも浅く、むしろ世界の誰とも分かり合えない事が明るみになっていった感じです。そんな中でアクセス数やフォロワー数やいいね数といった目に見える数字だけを追い求め、表面的な馴れ合いで自分を誤魔化して、ふとした瞬間にたまらなく虚しくなる。ネット黎明期世代というのはそういった孤独を味わって来た世代ではないかと思います。(もう少し後のネットネイティブ世代からするとネットの繋がりが薄弱なのは当たり前で最初からネットに期待していない人が多いように感じます)
米津玄師は私ほどナーバスではなかったかも知れませんが、彼は自分の中の孤独を大切に抱えて育ててきた人だと思います。だからこそ一時的な流行や評価におもねることなく、深い繋がりを求めてあそこまで普遍性の高い作品を作る事ができるのかもしれません。




